Nobuyuki Takahashi’s blog

2010年 9月のアーカイブ

施設見学ぬくもりの里

2010年 9月 28日

ぬくもりの里 壁面に飾られた貼り絵と千羽鶴

7:30 自宅を出発。2月ほど前にご相談いただいた、豊田市社会福祉協議会「ぬくもりの里」に施設見学に行く。本学に相談窓口が存在しないなか、私が直接対応しなければならないため、スケジュール調整が難しく必要以上にお待たせしてしまいご迷惑をおかけしている。
9:00 矢作川をさかのぼり、待ち合わせ時間ぴったりに到着。
「ぬくもりの里」の青木所長が迎えてくれる。
平屋で天井の高い開放感のある空間にまず驚かされる。地域のお年寄りを自宅から送迎し、デイサービスが受けられる施設だ。大きなゾーン分けはあっても壁や敷居がないバリアフリー。目が隅々まで届き、明るい空間となっている。多くのレクリエーションや作業を通して貼り絵や書道、編みぐるみ、折り紙が飾られている。ヘルパーさんらの努力や労力がひしひしと伝わってくる。青木さんによれば、空間のトータルなコーディネートに苦心しているとのこと。サービスを受ける方々だけでなく、地域住民にも気軽に立ち寄っていただくような開かれた場所にしたいと青木さんは願っている。
青木さんのお話をうかがいながら、足助病院を思い浮かべる。「足助病院は地域の人々がもっとも多く集まる場所」とは早川院長の言葉だ。人々が集まれば、出会いがあり、会話が生まれる。足助病院は地域の人々にとって縁側のような機能もはたしているのだ。その「縁側」をふさわしいかたちにして行きたいという要望はごく自然なものだと思う。
青木さんの言葉は地域への愛情に満ちている。私たちの活動にもとても興味と関心を寄せていただいている。青木さんはやさしい美術プロジェクトの数々の掲載記事を出してきた。その共感するところを賞賛いただき、取り組みが方々に浸透している実感がわいてくる。
青木さんが役場で勤めておられたころ、ご担当された6〜7戸ほどしかない集落での出来事をお話しされた。その集落は戸数も極端に減り、高齢化も拍車をかけていた。体力を失って行く集落には失って行く文化も多い。そこは御岳山を眺めることができるすばらしい景観に恵まれており、それにまつわる塚がところどころに遺されている。かつてはそれを集落の住民で巡り、神に捧げるお祭りが存在していた。その捧げものとは「五平餅」である。
ある日のこと、青木さんは長らく執り行われていなかったお祭りを復活するところに立ち会うことになった。五平餅を住民全員で手作りで用意し、お祈りして五平餅を塚に捧げ、練り歩く。最後に残った五平餅を自分たちで食す。
青木さんはそのお祭りのことが忘れられないのだそうだ。極シンプルに、多くの人に知られることもなく、ひっそりと執り行われる自然との交歓。そこに人々がいきいきと生きて行く本質があると青木さんはおっしゃる。
同感だ。私は10年ほど前に小原村(現豊田市)の山間に暮らしていた。私がそこで暮らして学んだことの多くは青木さんのおっしゃることとそのまま重なるものだ。そのことを青木さんに伝えると、それまでの緊張感がほどけるように空気がやわらいだ。
大島で泉、井木といっしょに「お祭り」をつくってきた。「かんきつ祭」「よもぎ祭」…。そこに人間の営みを越えた自然へ畏れと感謝の気持ちをそそぐ。カフェで食する。青木さんのお話をうかがいながら、大島での日々がオーバーラップしていく。
11:30 ぬくもりの里を出発。午後の授業に急ぐ。

大島にひさしぶりに降った雨

記憶のモンタージュ

2010年 9月 26日

ギャラリー前に展示中の盆栽

快晴。風もおだやか。7:00にギャラリーをオープンし、今回の企画展「松展」のビデオ撮影に入る。
朝の恒例で畑で野村さんと談笑。ギャラリーの展示を見ながら古い写真の解説もしていただいた。写真を見て記憶が鮮明になっていくことは誰もがよく体験していることだ。私はたかだか3年前からの大島しか知らない。そこでひとり一人の入所者の記憶が組み合わさり、あるいは重なり合ってモンタージュされていくその様を傍らで見させていただいている。当時を知らない私が過去の大島を知ることはとてもわくわくする体験だ。なぜなら、その風景に私が聞いて来た様々なエピソードが投影され、より克明にイメージできるからだ。大島ファンとしてはこの上ない喜び。
朝一便は予想通り50人の来場者で乗船券めいっぱいでやってくる。私は極力ギャラリーと解剖台の解説をするようにしている。解剖台の説明はガイドスタッフには荷が重すぎるのだ。デリケートな問題を含む遺物をめぐっては慎重に言葉を選ばなくてはならない。
11:30 某新聞社記者さんが大島にやってくる。カフェに案内し、カフェの全景を撮影した。ほぼ満席だったお客さんは快く撮影を許可いただいた。
13:00 ギャラリーにもどると、お客さんを連れた脇林さん、東條さんがギャラリー内にいた。うれしい。入所者がすいている時間に観に来てくれている。やはり古い写真の前に立つと入所者の皆さんは饒舌になる。私は聞き逃さないように隣にぴったりと張り付いて皆さんの話を聞き入る。記憶のモンタージュがまた一枚また一枚と組合わさっていく。墓標の松の出土品は意外にも入所者でも初めて見る方が多いようだ。なぜこれほどまでに公表がされてこなかったのか。不思議だ。
毎回の船の乗船はかなり多い。今日も120名を越えている。
16:30 まつかぜに乗船。とおりがかった野村さん、森さんにしばしの留守のあいだ盆栽の水やりをお願いして名古屋に向かう。
高松に着き、芸術祭推進室に寄る。メールのチェックと返信に追われる。
総合ディレクター北川さんと芸術祭後の大島の取り組みについて意見交換。できるところから確実にやっていこう、というお話をした。この芸術祭期間中に皆さんに今後のビジョンをお話しできればと思う。
22:10発名古屋行き 夜行バスに乗り込む。

これがやりかった

2010年 9月 25日

東風が強い。「松展」に展示替えになってから入所者の来館が少しずつ増えている。7:00にGALLERY15をオープン。昨日職員大澤さんが持って来てくれた、作業で出た切りっぱなしの松から清涼感のある松の香りがただよう。朝一便で50人乗船券発券数ぎりぎりで来場者がやってくる。
来場者から質問があがる。その方はアーティストがその土地や人々とどのように関わり、その結果としてどのようなものができあがっているのか、そこに興味をお持ちのようだった。作品が風景、あるいはそこで暮らしている人々と切り離されることなく「溶け込んだ」作品を観てみたい、そんな欲求があったとお話いただいた。私たちの活動は作者である「私」が見えてこないものだ。私が「不在」というのではない。すでにメッセージを発しているその場所、空間、人々がまずそこにあり、私はその傍らに立って声を外に届くようにつなげていく。見えないもの、形のない感覚をかたちにするのがアーティストの仕事の1つだとしたら、泉がカフェで販売している「ろっぽうやき」は今回の取り組みのなかでも特筆すべきファクターである。「ろっぽうやき」は菓子作りの職人だった方がハンセン病にかかり、大島に入所した。その方は大島に「加工部」という独自のお菓子工房を作り、食事の配給とは別にくりまんじゅうやろっぽうやきを配った。入所者全員が味わい、よろこび、大島の誇れる味だと言う。そのろっぽうやきの再現に泉は挑んだ。無謀といわれたろっぽうやきの再現は度重なる試作と試食会による批評で本物に迫る味との太鼓判をいただき、今ではカフェ・シヨルで売れきれ続出の人気を誇っている。味覚、食感の記憶はピントのあった写真のように鮮明だ。だからこそ難易度も高いと言わざるを得ない。ろっぽうやきを再現、復元、復活することは単なるお菓子づくりを越えた「記憶のモデリング」だと私は思う。
屋島在住の来場者から入所者の暮らしについて質問をうける。「また大島に来ることができるんだ。」その人は涙しながらそう話した。近くて遠い大島が少し近くなったのかもしれない。
長屋の24畳の部屋に12人の入所者が集団生活を強いられ、つらくくるしい園内作業に従事する。その暮らしぶりを示すものはこの島には遺っていない。今回の企画展は墓標の松に代表されるように青松園の101年歴史を越えた時間のスパンの中に入所者の生きてきた軌跡を描こうと試みた。松は800年この島を見守り続けた生きた風景だ。盆栽は入所者が3、40年かけて作り上げた大島の自然の姿を映すひな形。写真は島という小さな空間、閉鎖された見えない壁を突き抜けて宇宙の流転を見つめる方法だ。鳥栖さん、脇林さんの写真は作品をとおしてそのことをしかと伝えて来る。古い写真は松が必ず風景の構成要素となっているものを選んだ。そして墓標の松の根元から発見された人骨と刀剣。来場者の方々とお話をしていると、少しずつ伝わっているという実感がわく。リピーターも増えている。ガイドツアーから離れ、カフェで時間をたっぷりととる人たちは別の大島の楽しみ方を開拓している。「もう一度大島に来たい。」そのような声を何度も聞くようになった。その度に私自身が初めて大島を訪れた時の戸惑いと驚きの感覚を思い出す。大島ファンの種は全国、世界に根をおろしているはずだ。
15:30 入所者野村さんが盆栽に水をやりに来る。来場者にとっても入所者と出会うよい機会だ。やさしくておだやかな野村さんが「もうここに来て60年もようなる。ずっとここで暮らしとるんよ。」と静かに語りかける。松の盆栽と野村さんの姿が重なって見える瞬間だ。
16:30 満杯のまつかぜを見送る。皆手を振ってくれる。私には「また来るね。」という合図に思えた。ある来場者がおっしゃった。「ハンセン病の療養所は辛くて悲しい歴史そのものだけれど、実際に大島に来てそれだけではない、何かを感じた。」歴史の年表には載らない、生き抜く力のドラマがひとり一人の入所者の記憶の中にある。ハンセン病回復者とひとくくりでは決して見えてこない、1人の人間の生き様にふれることで私たちは大きな活力を与えられるのである。今回の松展は入所者の個々の表現、息づかいが見えて来るものとなったのではないか。それが大島の101年の歩みと墓標の松の800年の時間とレイヤードされている。
17:00 入所者の大西さんがギャラリーに観に来てくれた。人がいない時間を見計らってここまで来てくれたことがとてもうれしい。森さんも盆栽の様子を見に来る。ゆったりと大島時間が流れ、身を任せる。これが私のやりたかったこと。

松の香

2010年 9月 24日

7月24日(金)
きゅうに寒くなる。昨日の嵐から季節は秋へと歩を進めた。長袖のシャツを着る。
朝一便のお客さんを待つあいだに入所者の脇林ムツ子さんがお友達といっしょにギャラリーに来てくれた。早速ギャラリー内をご案内する。
ケースに入れて展示している墓標の松の根元から出て来た人骨を見て「これはどこの骨かしら?」「私が昔みた印象よりずっと白いね。」とおっしゃる。今回の展示ケースには濃紺色のフェルトを敷き、そこに人骨を配置している。そのため人骨の白さが浮き彫りになっている。以前の保管ケースには真綿が敷き詰められているのでコントラストで骨の方が暗い色に感じられるのだ。鳥栖喬さんの切り株の写真を見て「あら、これはなに?」「きれいね。」とムツ子さんの瑞々しい感性が伝わってきて、私も楽しい。
松の切り株を見て、「年輪数えられるかしら?」と真っ先におっしゃる。お話によるとムツ子さんは昔、大きな老松が切り倒されたあとの切り株の年輪を数えたことがあったそうだ。「700までは数えられたように憶えているけれど。」それが確かなら源平の合戦の時代と重なる事実だ。言い伝えげ現実味を帯びる。井木のドローイングを見る。ムツ子さんは「あー、これは大島の松ね。大島の松はこうだよ。」とおっしゃった。井木のドローイングは写実的に松を描いているのではなく、松と宇宙が一体となってリズムを奏でている様相を描きとめているように感じる。それをムツ子さんは自然に受け入れているように思った。大島で暮らして来た人のコメントとしては最高の褒め言葉。はやく井木に知らせてあげたい。
副園長がギャラリーにやってくる。野村さんが盆栽に水をやりにやってくる。副園長が入所者の暮らしを説明しているのが印象的だった。鳥栖喬さんが一生をかけて撮り貯めた写真を私はあずかり、様々な編集の仕方で展示している。前回の企画展「古いもの 捨てられないもの展」では大島と庵治の間を行き来する船を定点観測的に捉えたシリーズを主軸に展示した。今回は切り株に方位磁石を置き切られた松の断面を捉えた写真を床面にタイル状に貼付けている。身も知らずの私が故人である鳥栖さんの写真を一手にひきうけたことのたとえようのない感覚。毎日ふとんのまわりには鳥栖さんの写真が山のように積まれていた。毎日写真をながめていると鳥栖さんの目と自分の目が重なるような気がしてくる。その不思議さを副園長に話すと「それは高橋さんの運命ですね。」とおっしゃる。故人を偲ぶのでなく、故人の見て来た世界を追体験することの何とも言えない不思議さ。なぜそれが私だったのか。結果論でしかないけれど、今の自分でよかった。

鳥栖さん制作のフォトモンタージュ

取りこぼしたものを掬う

2010年 9月 20日

今日も朝一便から満席50名の来場者のうち35名が10:30便で帰る。せいしょうはまつかぜの倍で30分ほどをかけて高松と大島をつないでいる。だから実質島にいられる時間はたった35分ほどしかない。短縮したガイドでも省略したように感じさせないガイドツアーのテクニックは容易ではない。
ギャラリー前には元13寮、14寮の跡地が広がっている。まだまだ日差しは強い。日を浴びて雑草が生え始めた。来場者がギャラリーに来るまでに草抜きをする。
ギャラリー前で来場者に解剖台、ギャラリーの展示内容を解説していると「芸術祭が終わった後はこの島はどうなっていくのでしょうか。」という質問が多く寄せられる。それは問いかけに終わらせてはならず、大島のことを入所者だけでなく皆で考えて行かねばならない。
資料館に並ぶ資料的価値のあるものはこの島にはほとんど残っていない。一方で資料的価値とは異なる、記憶、時間、知恵を携えたものは辛うじて集めることができる。しかしそれには、とるに足らないものであっても捨てずにとっておく意識が育たなければ遺失の加速はとめることができない。記憶、時間、知恵(文化)を携えたものを集めるには、そのものがたずさえるメッセージをキャッチするアンテナが必要だ。放っておいたら取りこぼしてしまうそれらを掬いとることができるのはアーティストしかいないだろう。何もかも遺失してしまったかに見える大島でなお入所者の生き様を映した珠玉の記憶はまだ見つけることができる。大島が静かに語る声を受け取ることができるのだ。
「アーティストが場所と出会い、関わり、役割を担う新しい形を見た気がした。」という感想を話す来場者がみえた。こうして来場者の方々と話す機会があり、率直な反応を受け取ることは、明日への励みとなる。

松の木陰でくつろぐ安長さん

盆栽と大工道具

2010年 9月 19日

7:00 入所者の野村さん夫妻が畑仕事にやって来る。大根の苗を一緒に植える。朝日が苗を照らし、輝いている。
9:00 森さん宅で盆栽出品の打ち合わせをする。森さんの盆栽はひと際大きい。樹齢は80年を越えるものもあるそうだが定かではない。亡くなられた入所者から受け継ぎ、あるいは主が全寮協本部に移って代わりに育てているものもあるそうだ。
「古い写真」は入所者の脇林さんが集めている。それらの写真で松が写っているものを選び出し、解説を加えて展示しようと考えている。森さんは幼い頃にこの大島青松園に入所した。そのまま少年舎で生活していた。幼い頃から大島で暮らしていたからか、建物や風景についての記憶は鮮明だ。写っている建物の様子などから大体の撮影時代や撮影場所、カメラアングルがわかる。一方年次と出来事との照合は森川さんが把握している。地図、写真との照合によって、私が聞いてきた入所者の生活の数々のエピソードが場所と時代と結びついて行く。当時を知らなくても人と場所、記憶が次々と合致し、一方向でしかイメージできなかった様々な光景が立体的に私たちの目の前に展開するかのようだ。
10:30 なんと一便で50名乗船券がすべて出払い、来場者でせいしょうは満席。2便も28名、3便はすでに50名満席。来場者数はずっと右肩上がりに増え続けている。。
墓標の松出土品を展示するための展示ケースを目線の高さまで引き上げる台を製作する。その傍ら来場者に解剖台とGALLERY15の解説をする。来場者から素直な感想や意見が寄せられる。取り組みへの興味や期待感が伝わってくる。「アーティストと島とがどのように関わり、アートが生まれているのか興味があった。ここ大島の取り組みは感じるものがあった。」という感想を述べる方があらわれ、私としてもとてもうれしく思った。
ガイドを務めるこえび隊の皆さんは4名体制。他の島と比べて大島の来場者の数は一桁少ないが、ガイドの話を聞きながら島を巡るのはここ大島だけ。ガイド担当は慎重に言葉を選びながら着実な対処が求められる。初めてガイドを担当する時の緊張感は並々ならないものだろう。
展示ケースの台が完成し、実際に置いてみると10センチほど高いようだ。脚を10センチほど切って低くする。
入所者の川上さんがギャラリーの展示を観に来る。私が大工道具を使って作業をしていると「何でもやるんだな。」と感心される。川上さんは豚舎最後の番人だ。(昭和45年頃に排液浄化施設の建設や衛生上の問題で廃止)川上さんから大工道具をいただく。のこぎりには名前が彫り込まれている。亡くなられた入所者の形見であろう。
引き継ぐ、引き受ける。盆栽と大工道具。
20:00 冷蔵庫の中身を整理するように残り物で炊事。なすと鶏肉のカレー風味でパスタとご飯を食べる。キュウリもたくさんいただいているので毎日精出してたべなければ。安長さん直伝のかえりとキュウリの酢の物、カイワレにオリジナルソース(ナンプラーと酢、キムチのもと)をかけて食べる。これが結構美味。

野村ハウスの配線

毎日の積み重ね

2010年 9月 18日

6:00 起床。毎朝入所者の野村さんが畑仕事で野村ハウスにやってくる。今日は水菜、二十日大根を植えるとのこと。私たちも手伝う。作業が終わったところで野村さんに「松展」へ盆栽の出品を依頼。以前から相談はしていたので、「毎日水をやればいいから、いいよ。」とおっしゃる。野村さんの松は30年から40年育てているものがほとんどだ。そのほかツツジや藤がある。松は大島の南の山や東隣の兜島に船を漕ぎ出して採ってきたものだ。大島の松を入所者が育てる。そしてその松を大島にやってきた来場者が鑑賞する。2代にわたって育てているものもある。つまり亡くなられた入所者から受け継いで育てているものだ。盆栽は入所者同士をつなぐバトンにもなっている。
ギャラリーで掃除をしていると、入所者の脇林さんがやってくる。昨日届いた展示ケースを見に来てくれたのだ。入所者の何人かは墓標の松の出土品を見せたいと強く願っている方々がいる。青松園の歴史はたかだか101年。墓標の松は800年を越えるといわれる。歴史の重み、時間の広がりが小さな大島を掬いとり、包容している。そのことが入所者を元気づけるのだろう。
来場者のなかに50年前に慰問のための野球の試合に大島に来たことがある方がいた。当時小学生で社会のハンセン病に関する理解がない時代。世間での刷り込みもあっただろう、島に着くまでと島内の様相(有毒地帯と無毒地帯が分けられていた状況など)が目に入って来て、大島が怖い場所という記憶だけがのこってしまった。60歳を過ぎた今、訪れようと思い立ち、大島にやってきたのだそうだ。
このようになかなか大島に来られなかった年配の来場者がここのところ増えてきている印象がある。芸術祭での一般公開はボディーブローのように大島に脚が向かなかった人々へも利いているのかもしれない。

大島にもどる

2010年 9月 17日

7:00発 松山行きの高速バスに乗る。
12:20 高松駅着。
13:55 まつかぜに乗船。
墓標の松展示ケースについて青松園稲田事務長と相談。郵送した展示ケースが明日午前中に届く予定なので、現物を見て検討に入る。
ところが、私が事務長と検討している間に庵治の方から荷が届き、泉と井木がギャラリーオフィスに入れておいてくれた。
17:00 展示ケースの開梱。幸いガラスも破損していないようだ。

展示ケース

2010年 9月 16日

授業の傍ら 大島、GALLERY15の企画展「松展」の準備に追われる。
墓標の松の根元から出土した人骨や刀剣を公開するために、展示ケースを用意する。板ガラスが部材に含まれているため梱包を厳重にしておかねばならない。
プロジェクトルームはメンバーでごった返している。というのも、25日の足助病院病院祭でA2パネルで活動の内容を広く伝える機会を与えられ、そのパネル作りをメンバー総出で行っているのだ。解説文が担当者から提出され、それをメンバー全員で徹底的に検討する。文体や誤字脱字だけでなく、掲載内容が一般客に伝わるものになっているか、見極めなければならないのだ。
私は作業を任せ、大島で行っているMorigamiの立てるダボを切り出し、梱包する。
オープンキャンパスのための展示「やさしい美術展」の搬入作業にそのまま流れ込む。作品写真はフィルムから大きく引き延ばしたもの7〜8点を展示。プロジェクトの活動内容を伝えるパネルも展示している。
雨が激しく降ってきた。梱包が終わったものから順に自家用車に載せて行く。
22:00 帰宅。
A3のプリンターを梱包し、明日の大島行きに備える。準備をしていたら時間があっというまに過ぎて行く。
3:00 就寝。

現像写真

2010年 9月 14日

この7、8月の写真の現像があがったので、一部掲載する。

あやまって感光させてしまったフィルム