Nobuyuki Takahashi’s blog

2009年 9月のアーカイブ

インパクト

2009年 9月 29日

20年ほど前だろうか。私はキャンプ道具を自転車に括り付け、よく旅に出かけた。
長良川を河口から水源地まで遡上しながらキャンプをしたことがある。巨大な河口堰がある河口付近まで行き、そこからひたすら川沿いを登って行く。源流に近づくほど坂道は険しくなる。ずっと登って行くとやがて岐阜県と富山県の県境の分水嶺にたどり着く。頭にはタオル、膝下をぶった切ったジーンズにスニーカー。真っ黒に日焼けした当時の私の写真は独りの旅だったために残っていない。
さて、長良川の上流とはいっても川から直接水が飲めるところは限られる。上流に人が住んでいなくて、ゴルフ場などがないことが条件になる。できるかぎり川の水を飲みたいがために支流深くまで入って行って周囲を探索し、地図をよく確認してテントを張る。
食事はコッヘルで米を炊き、火元はホワイトガソリンを燃料にしたストーブと呼ばれるキャンプ用携帯コンロで調理する。水はすぐ傍らに流れる清流から拝借する。布一枚のテントで寝る夜はまた格別だ。
キャンプと言えば、大抵の人はキャンプ場を思い浮かべるだろう。そこにはかまどがあり、トイレがある。テントが張りやすいように山を切り崩し平らにしてある場所がほとんどだ。私はキャンプ場でテントを張ったことがない。便利だとはわかっていたが私にとっては魅力的ではなかった。
焚き火は自然に対してインパクトが強いために、携帯コンロなどを使うのが良いとされる。土の上に焚き火をすると、その跡は何十年も消えない。わずか10センチ程度の表土には様々なものを分解する微生物が生息する。その表土に穴を開けてしまうのだ。「ローインパクト」。文明生活をする人間には難しいことだが、一生物として自然環境に関わるということを考えさせられる。
お風呂につかる。温めのお湯にゆっくりとはいる。大きくゆっくりと息をし、全身の力をぬき、目を瞑る。私の身体は体温に近いお湯に溶けて行くようで、水中に浮いている手はその所在が自分でも判然としない。目を開けてみる。すると、湯船一杯のお湯が私の生物としての微量な震え、脈動を増幅し、波紋を創り出している。「私」という存在が小さな湯船のお湯という世界の一部になり全体が脈打っているのを確かに感じたのである。
存在することはその存在の大きさに関わらず、世界にインパクトを与える。換言すればインパクトを与えずして存在することはあり得ない。それぞれが存在することで発生するインパクトのネットワークが互いに影響し合いながら世界を創り出しているのではないか。もしかしたら、存在の前にインパクトがあるのかもしれない。私たちは日頃、事物の括りで世界を見ることに慣れてしまっているが、時にそうした既存の括りを越える冒険があってよいと私は思う。

妻有 再びやさしい家は樋口家に

2009年 9月 26日

やさしい家で最後の朝食を

やさしい家で最後の朝食を

7:00 起床。朝ご飯は昨日お疲れさま会を開いたお店のママがつくってくれたおにぎりをいただく。顔なじみになったパン屋さんのパンもいただく。
8:00 やさしい家の作品撤去、後片付けにはいる。大地の芸術祭最終日に時間がない中しっかりと後片付けしてくれていたおかげで、先は見えている。手分けしてすばやく作業して行く。
9:00 家主さんである樋口道子さんがやさしい家に寄ってくれる。昨日私が樋口さん宅にうかがう予定だったが隙間がなく、今日お仕事の前に立ち寄っていただいたのだ。
樋口さんがいなければやさしい家もない。快く貸していただいたおかげで私たちはどれほどの貴重な体験と、充実した日々が送れたことか。感謝の気持ちでいっぱいになる。名古屋の手みやげのほか、スタッフ井口の好意でモビールプラネット数点をプレゼント。とても喜んでいただいた。作業中だったメンバー全員を呼ぶ。皆で樋口さんに一礼「ありがとうございました!!」樋口さんは「やさしい美術は私の一押しの作品のひとつでした。」と、最高の褒め言葉。私たちにはもったいないですー。
片付けは気持ちがよいほどさくさく進む。機材の撤収と梱包、生活用具や道具などの撤収、配線関係の現状復帰、念には念を入れた掃除…。
12:00 驚くべき集中力とチームワーク片付け作業はすべて終了。昼食はことあるごとに食べに行っていた近所のそば屋に行く。
13:00 バスがやさしい家前に停まる。片付けたものをすべてバスに積み込む。かなりの荷物の量。これはもう立派な引っ越しである。荷物が無くなって行く「やさしい家」は 「樋口家」の空き家になって行く。メンバー全員がそのことに気づいているが、じっくりと正視できない。

生活感のなくなった台所

生活感のなくなった台所

13:30 再び空き家になった樋口家をあとにする。「やさしい家」は私たちやさしい美術プロジェクト、十日町病院の方々、来場いただいた方々の記憶の中に永遠に生き続ける。私は最後に脱帽して樋口家に一礼。「ありがとうございました。」
50日間、皆で助け合いながらやさしい家を運営した。滞在している人数が少ない時は代わりがいないために、無理がたたって体調を崩す者もいた。わざわざ時間を作って自費でやさしい家まで当番に来てくれたメンバーもいる。スタッフ井口や赤塚には私から無理を言って人数の少ないやさしい家の管理人をお願いしてなんとかしのいだこともある。スタッフ井口はそのため、1つも大地の芸術祭の作品を鑑賞しないでいた。私はそれがとても気がかりだったので、片付けが早く終わったことをいいことに、作品鑑賞に出かける。
14:00 妻有地域を北上してうぶすなの家、みしゃぐちを鑑賞。

名作「再構築」の部分

名作「再構築」の部分

15:00 行武治美さんの「再構築」を鑑賞。人が少ないためにじっくりと堪能する。すすきが銀色にたなびいて美しい。
15:30 名古屋に向けて出発。疲れと寂しさでバスの中では皆無口のまま帰路につく。
21:30 名古屋造形大学に着く。皆で一斉に荷物をバスからおろし、プロジェクトルームまで運び入れる。
22:00 春日井駅解散。
お疲れさまみんな。
しばらくはこの余韻にひたっていたい。皆そうにきまっているー。

妻有 涙のおつかれさま会

2009年 9月 25日

最後の妻有往復バス。
大地の芸術祭が終了して、今回のバスの運行はやさしい家の後片付けおよび現状復帰、十日町病院での研究会と作品回収が主な目的だ。
やさしい家は樋口さんからお借りしていたお宅である。今回の妻有行きですべての作品、機材、滞在に必要な日用品などをすべて引き払ってくる。樋口さんに一言ごあいさつ申し上げなければならない。

近所の子どもたちが遊びに来たやさしい家も終わり

近所の子どもたちが遊びに来たやさしい家も終わり

14:00 まずはやさしい家に着く。わずか10日間ほどで、やさしい家に生活感が失われ、空き家の面影が醸し出されている。荷物を置き、十日町病院へ。
14:30 研究会の前に回収作品や10月まで展示している作品、寄贈作品のメンテナンスと写真撮影を行う。
15:00 研究会を始める。冒頭にサプライズが。病院からの感謝状をいただく。代表して川島が受け取る。
今回の取り組みの成果を振り返るために各自でまとめた報告書をもとに制作のプロセスから展示に至るまでを振り返り、どのような成果が得られたのか、各々の気持ちの変化はどのようなものだったのかを発表した。高橋事務長から「すばらしい成果報告ですね。先生の指導があってのことでしょうね。」とおっしゃる。私は今回の報告書には一切手を付けなかった。できるかぎり一人一人のことばできちんと報告してもらうことが大事だと考え、意識的にアドバイスを行わなかった。そのことを研究会参加者に告げ、「すべて学生とスタッフが自主的にまとめあげたものです。」
メンバーらの発表はそれぞれの成果を見つめ、それを自分がこれからどのように活かして行きたいかという情熱にあふれていた。それを、病院の皆さんは聞きたかったに違いない。
研究会を終え、観光交流館キナーレに行き、温泉につかる。
18:30 いつも懇親会を行ってきた、いつものお店に着く。今日は懇親会ではなく、お疲れさま会、打ち上げ会だ。看護師さん、ドクター、事務職員の皆さん十日町市役所の皆さんといつものように楽しく食べ、語らい、杯を酌み交わす。研究会で話せなかったこと、相談できなかったことが、このような宴の場で繰り広げられ、交流と親交は深まって行った。今日の席は一際皆さんの笑顔が輝いている。私の乾杯のごあいさつとして「前回の打ち上げ会の時は涙がとまらず、何もコメントできませんでした。実は今もその時と同じ気持ちです。この席をおわりでなく、始まりとしたいと思います。」
私は津島のお酒「長珍」と奥三河の「蓬莱泉」を持参。新潟の多くのお酒が水のような口当たりであるのに対して長珍は辛口でぴりっとした舌触り。なかなかの好評。
泉澤さんが中締めで「皆さんが名古屋に帰ってこころにぽっかりと穴があいたようです。」とコメント。見送られるよりも見送る方がずっとさびしいと思う。泉澤さんは電車の都合で会場をあとにする。
驚くようなスピードで一升瓶が空になって行く。芸術祭の50日間とその準備期間の1年間。いろいろなことがあった。ひとつひとつ思い出しては目頭が熱くなり、充血した目のメンバーもいる。
デザイン集団でんでんのメンバーとお酒を飲みながら話する。でんでんのチームワークの良さとギブアンドテイクの鮮やかさはこのブログでも書いたが、私のうかがい知れないところで紆余曲折あったようだ。ミーティングで「でんでんでデザインするとはどういうことか。」「やさしい美術に関わるとはどういうことか。」「でんでんとは一体なんなのか。」根本的な問題点に行き当たり、お互いの腹の内をぶちまけて話し合ったことがあったそうだ。一人泣き、二人泣き、皆で泣きながら過ごした日々。そんな日々が背景にあったとは。単に仲良しグループだったでんでんはお互いの個性をぶつけ合い、協調しながら大人のグループへと成長したのである。5年後、10年後、でんでんの何人かが再び出会い、仕事を一緒にする時がきっと来る。私の予想だ。
最後に高橋事務長と経営課井澤さんからごあいさつがある。
「ランニングでやさしい家の前を通ると、いつも家から聞こえてきたやさしい美術の皆さんの笑い声が聞こえない。夜にいつも見られた映像上映もない。とてもさびしい…。」とおっしゃる。
続いて井澤さんからのコメントは「事務長が挨拶してたら、こみ上げてたものがおさえられなくなりました…。」
堰を切ったかのように流れる涙。
印象に残ったのは、「皆さんは十日町の住民に受け入れられました。」という言葉だった。そう、私たちはたった50日間だが、ここ妻有地域に暮らし、仲間と1つ屋根の下寝食を共にした。ここで生活することで、私たちは受け入れられ人々に支えられてきたのだ。前回の大地の芸術祭で非公開で行ったプロジェクトはそれを礎にさらにその枝葉を伸ばし、地に根を張った。やさしい美術プロジェクトのメンバーはこの感謝の気持ちと充実感をけっして忘れないで欲しい。
私の涙は次にとっておくことにした。これは、始まりである。

何かつかんだのなら、教えて欲しい

2009年 9月 22日

9月3日、4日、5日の大島での活動がようやくブログにアップできた。内容が濃くてなかなか書けなかった。申し訳ないです。ご一読下さい。

後半の滞在で力みが抜けたスケッチ

後半の滞在で力みが抜けたスケッチ

さて、18日の足助病院へ行く車中でのこと。メンバー浅野と妻有での様々な出来事を振り返っていた。
12日の十日町病院での活動報告会は私は学務で出席できなかったが、川島、赤塚の二人でしっかり発表してきたようだ。その前日、川島と浅野は活動報告会で何を話すかを綿密に打ち合わせていたそうだ。川島が「この大地の芸術祭期間中で制作をし続け、何をつかむことができたのか。」という質問に、浅野はこう答えたそうだ。「毎日毎日、病院内で人々とコミュニケーションをとりながら、スケッチを描くことを続けた。病院周辺を歩き回り、地域住民の方々に声をかけてスケッチを描かせてもらった。実は毎日、辛くて苦しかった。でも、その日々を振り返り、自分が何をしてきたのかと考えると、それは 患者さんやその家族と会話をしている時に一瞬目を輝かす、表情が輝く瞬間がある。その一瞬に巡り逢い、それを描き留めたかったんだとわかった。」それが判った瞬間。涙が自然とあふれて来たと言う。
自分自身で選んだ道を貫き通すのは、気分でわがままを通すのとは全く違う。一度決めた道のその先にある何かをつかむまで、辛くても苦しくても前に進まなければ、何もつかめない。そこを通り抜けたからこそ、目標が見えることもあるのだ。浅野は確かにつかむものがあったのだろう。それはほんの入り口で、その自分でつかみとったものをさらに先へつなげて行くこと、持続すること。さらに深く探求することは、もっと難しいことだ。一夏の想い出で終わらせないで欲しい。

足助病院 光を透過する絵画 ディサービスちよだ再開

2009年 9月 18日

今回展示できなかったけれど。

今回展示できなかったけれど。

12:10 午前中の授業を終えたメンバー7名とともにレンタカーに乗り込み足助病院に向かう。ほぼ同時にスタッフ赤塚が学生を乗せて発達センターちよだに出発。今日は10月からの活動再開に向けて子どもたちとお母さま方、施設職員の皆さまにご挨拶することになっている。
13:30 足助病院に着き、早速搬入作業にとりかかる。メンバー古川が制作した作品「天駆ける鯉」は足助病院内科処置室の天窓を覆う絵画作品。試行錯誤の末、今日の搬入に至ったが、水簸絵の具で描いて行くうちに布地が縮んでしまい、設置不可能であることが判明。誠に残念。
この作品のポイントは天窓の光がまぶしくない程度に透過しながら、絵画空間を楽しめる作品に仕上げなくてはならない点だ。光を透過する絵画。つまりバックライトで絵を観るのだ。もちろん室内には照明があり、自然光の反射もある。外と内部空間の狭間に皮膜のように顕われるイメージを描くことは、想像するだけでも難しい。足助病院でも展開中の森をつくるおりがみMorigami(もりがみ)はやはり大人気だ。私たちが前回の研究会で持参した折り紙はすでにゼロ。補充し、キャプションを添付する。足助病院内のMorigami並木道は成長の途中だ。この調子で増えて行けば、ほんのひと月先にはすべて植樹が終わるかもしれない。
メンバー芳賀が「はてな?クッション」の3作目を搬入。夏休み中、ずっと悩み続けて制作したという。無理もない、参考にするにも前例がないし、制作経験の少ない芳賀にとっては試行錯誤の連続だったに違いない。でも、確実に完成度は上がっている。実際の利用者に聞かなければわからないが、造形的なバランスが子どもたちの興味を引くものになっているし、縫製も安心感のあるしっかりとしたものになってきている。
メンバー天野は「コトバノみくじ」と「コトバノツブ」の作品補充。帽子型のオブジェの中に、天野がセレクトした元気になる言葉の断片が詰まっていて、だれでもそこから持って帰ることができる。みくじの方はよりくじ引き的な要素を高めたもの。とても人気で3年以上も補充を継続している。中身が補充され続ける作品スタイルはありそうで、見かけたことがない作品だ。おもしろい。

Morigamiは足助病院でも成長中。

Morigamiは足助病院でも成長中。

プロジェクトとは

2009年 9月 16日

ディスプレイの試作品

ディスプレイの試作品

私の運営する交流造形コース、メディア造形コース(現行:アートプロデュースコース)の3、4年次の有志で名古屋市名東区星ヶ丘にある「デザインの間」ディスプレイプロジェクトを進行中。
今日はそのデザインの間を経営している中部電力の社員さんらが制作状況を視察に来ることになっている。
残念ながら、まだ企業とタイアップして行うプロジェクトの重みを学生達は理解していない。そのことを伝えるには、言葉でなく、体感するしかない。だからこそ、社会的使命を帯びる、プロジェクトの教育的意義がある。
インターンシップを体験してみたい、社会とつながって勉強したい、と言う者はたくさんいる。しかし、実際に動き出せば、「ゴッコ」では済まされない。楽しい、気分がいい、やってる気がする、なんてことでは困るわけだ。そうした気持ちになってもらうプロジェクトだとしたら、それはプロジェクトのその先にある人々や地域や社会に届かない、閉じた遊戯である。
正当な理由として「気分が乗らない」からできない。「飽きたから」やらない。そんなことがまだ罷り通っている。それではどこまでいっても自分の問題から抜け出せず、自分の中で完結することになる。「何も起きない」「何も変わらない。」「何もできない。」という結果だけが影を落とすだけだ。そのことに気づいて欲しい。
プロジェクト型の授業とは逆治療法なのかもしれない。教員である私が口を酸っぱくして言い続けても見向きもされないことが、実際に社会で働く人々と接し、一緒に働くことで、がつんと体感させられるのだ。言い訳はいらない。やるかやらないか、それだけ。
やさしい美術プロジェクトには10〜20人、多い時で30人ぐらいの学生が、「福祉に興味があります。」「アートやデザインで役に立ちたいんです。」と言って説明会にやってくるが、最終的にメンバーとして活動するのは3〜4人だ。人にあえて話すこともない自分自身の問題意識と向き合い「自分に何ができるのか。」と行動に移しているメンバーと「興味がある。」と言う人の差は実はとても大きい。

生まれてくる理由

2009年 9月 15日

山川冬樹さん愛用の楽器

山川冬樹さん愛用の楽器

今日、横浜からあの人がやってくる。
山川冬樹さんにレクチャーをお願いするようになって4年ほどが経つ。
毎年、同じ内容をお願いしているが、山川さんも進化しているので、その探求の深度が前年よりも確実に深まっていると感じる。
山川さんはホーメイの歌手であり、アーティストである。彼の言う「音」とは反響と共鳴を引っ括めた「声」のことである。
前年のこのブログにも書いたが、彼が「声」にこだわり続けるのは、彼のお父様の存在がベースにある。今日、そのことが初めて山川さん自身から語られたことが、私には新鮮だった。
釜山ビエンナーレで発表した作品は、ニュースキャスターだった父、山川千秋氏が登場する、映像と音響のインスタレーションだ。それは父へのノスタルジーがきっかけで制作されたものではない、と山川さんは断言する。声と身体への即物的な興味、身体の連綿とした記憶や形体に刻まれた、動きようのない「遺伝子」を表出させ、遺伝子で声を発すること=父の声でパフォーマンスすることを彼はこのインスタレーションで試みている。
作品の概要、概観を説明するのはむずかしい。私が唯一言えることは、「時間軸の逆流」。
食道がんで声を失い、懸命な闘病もむなしく亡くなった山川千秋氏の遺したものはメディアにのった声であり、膨大に記録されたカセットレコーダーによる録音テープである。その声が発せられた当時には幼い山川冬樹さんがいた。もちろん、父、千秋氏は息子が歌手になるとは想像もしなかっただろう。録音テープには単純な音声のみでなく、感情までも記録しているはずだ。それを読み解いたり、感慨にふけるのではなく、純粋に遡った遺伝子=自分の声=父の声としてあぶり出しをしているようにも感じる。
ナットキングコールの娘、ナタリーコールが亡き父の声とデュエットした「アンフォゲッタブル」という歌がある。これも時間軸の逆流。
現代のメディアであるからこそ実現できる、時間軸上の往復は、過去のものとのコラボレーションを可能にするが、その重みを忘れてはならない気がする。
山川冬樹さんの作品にはその重さが感じられたのが、とてもうれしかった。
生まれてきた理由はどこまでいっても語られない。それは見えるかたちで説明するものとして目の前に現れることはないだろう。死ぬまで「私」という存在にくっついて離れず、自身とともに向こう側に持って行くものかもしれない。感じるとしたら、それは「私」ではなく、他の誰かであり、周辺に起こる、些細な現象の中で時折ふと香るものなのだろう。

モビールプラネット ミーティング

2009年 9月 14日

試作を検討する

試作を検討する

新潟県立十日町病院と地域との連携を目指した空き家活用プログラム「やさしい家」の企画展で「モビールプラネット」を展示した。それらの作品は実験的ではあるが、小牧市民病院小児科病棟の病室内に展示する予定である。
さて、現実に病院に展示する場合、どのような検討事項があるのか、デザインをお願いしている井口(やさしい美術のスタッフでもある)、溝田さんとミーティングする。
二人とも色彩感覚が抜群。その色使いは大胆かつ繊細。私の心がつかまれた理由だ。病院内の光、反射光、天井や壁の色などが関わってくるので、より精度の高い色の選択がのぞまれる。グレイトーンに彩度を落としたり、ビビッドな色使いを避ける、といった消極的な色使いではなく、成長していく子ども達に完成度が高い大人の色使い、時には強い色を選び、元気づけるものを作ろうということになった。設置の方法、モビール自体の動きの研究も必要だ。患者さんの気持ちの寄り添った選択システムを構築することも視野に入れて行く。

妻有 大地の芸術祭閉幕

2009年 9月 13日

12日、13日と名古屋造形大学のオープンキャンパス。
私が運営するアートプロデュースコースにて、やさしい美術の絵はがきワークショップを実施している。今日、ある方がワークショップの会場にやってきた。聞けば、その方のおばあさまが足助病院で入院されているとのこと。足助病院で作品を見て、やさしい美術プロジェクトのことを知った。お嬢さまが大学受験をひかえているそうだが、密かにこのやさしい美術プロジェクトがある名古屋造形大学の名前が心に浮かんだと言う。こうした出会いもやさしい美術が長い間足助病院との協働を継続してきた証であろう、なんともうれしくなる。
今日は大地の芸術祭最終日。やさしい家は少し早めの16:00にクローズ。
7月26日から9月13日。やさしい家への来場者は約2300名ほど。私もそのうち数百名の方々をご案内したことになる。皆さまのご意見や激励の言葉を受け、やさしい美術プロジェクトが盲進してきた道を逆に教えられた気がしている。十日町病院の皆さまほか、たくさんの方々の支えがなければ、とても乗り切ることができなかった日々。この恩は、これからこの体験を活かし、各々の意義ある活動に導いて行くことで返して行こうと思う。関わったメンバー全員同じ気持ちだ。
私はこの夏、ほとんど家に居なかった。それでも帰ってくると、私の家族は私をいつもぎゅっと抱きしめてくれた。帰って来るところがある。なんてすばらしいことだろう。
これは終わりでなく、始まりだ。
ひとまず、皆さん。おつかれさまでした。そしてありがとうございました。

妻有から帰る

2009年 9月 11日

私は名古屋に帰らなければならない。
4人のメンバーで活動報告会、いくつもの打ち合わせ、写真撮影の立ち会い、機材準備、プレゼンテーション準備、来客の応対、食事の用意…。いつもより慌ただしく、隙間がない。こういう時こそ私が指示をしっかりとしていかないと。
10:00 やさしい家オープンと同時に十日町病院に川島と活動報告会の機材リハーサルをしに行く。記録用のビデオカメラをプロジェクトルームから持参したが、昨日故障が発覚。川島はそのため昨日はほとんど寝ていない。
10:30 機材の確認を川島に任せて、私はやさしい家に戻る。菓子折り、ヤサビのイト最新号、そして井口が用意してくれた礼状を持ってご近所に挨拶に行く。「あっという間でしたね。おつかれさま。」と皆さんに声をかけていただく。皆さんに支えていただいて、この大地の芸術祭を乗り越えることができた。
やさしい家に戻ると、浅野、赤塚は仕事に追われているため、私が会場当番する。私は会場の写真撮影をする予定だったが、仕方がない。途切れなくお客さんの対応に追われる。

料理デビュー。包丁の持ち方、なんとかしなさい!

料理デビュー。包丁の持ち方、なんとかしなさい!

12:30 ここで会場当番バトンタッチ。5分で食事を済ませる。リーダー川島が料理デビュー。野菜炒め、おいしかったよ!
午後1から予定の十日町病院での写真撮影に立ち会うために大急ぎでイメージスケッチを描いておく。3カットしか撮ってもらえないので、カメラマンに理想のアングルを伝えておかなければならない。こういう時にスケッチ力がモノを言う。
13:00 十日町病院入り口で、大地の芸術祭オフィシャルの写真撮影隊と合流。早速事務所に向かい、打ち合わせ。スケッチを見せて撮影の段取りをする。撮影のあと、事務長、事務長補佐、経営課主査と今後の打ち合わせをする。
15:00 やさしい家に戻ってみると、3人のメンバーがまったりとしている。これではいけない。檄を飛ばして気を引き締める。お留守だった近所のお宅を挨拶まわり。
16:00 クローズした後に行う予定のやさしい家での活動報告会の設えをする。皆のボルテージが復活してくる。それで良し!
17:15 私は荷物をまとめて、やさしい家を出る。「リラックスしろとは言ったけれど、だれて良いとは言ってない。気を抜かずやり通しなさい。来場者は100人でも1人でも二人でも一緒。丁寧に心を配りなさい。」と言い残して出発。
彼らならしっかりと活動報告できるはず。大丈夫。
17:43 十日町駅を出て名古屋へ向かう。
23:00 自宅に到着。道中気持ちの切り替えはできている。明日からオープンキャンパスだ。