Nobuyuki Takahashi’s blog

2010年 12月のアーカイブ

ルーを使わないカレー

2010年 12月 30日

今日は毎年恒例の餅つきに小原村に行く予定だったが、慧地くんのノロウィルスがほかにうつってはと、大事をとって自宅でゆっくりすることにした。それにしても残念。小原で世話になった方々、小原の子どもたち(っていうか、もう大人)に会いたかった。
その気を紛らわすわけでもないが、スパイスでカレーをつくる。昨年もこのブログでカレーをつくって小原に行ったって書いたっけな。
ターメリック、クミン、ガラムマサラ、カルダモン、シナモン、ニンニク、ショウガなどなど。これら香辛料は漢方薬になるものばかり。薬膳のようなものだ。慧地に食べさせて、早く風邪直さなくっちゃね。

大気を帯びた地球儀

2010年 12月 29日

昨夜遅くに長男慧地が突然嘔吐する。どうやらはやりのノロウィルスにやられたようだ。隣で寝ていた長女美朝はまともに吐瀉物を浴びたので私も妻も感染するのではと気が気でない。
朝、起きてすぐに慧地に声をかけるが、力のないか細い返事が返ってくるのみ。とても朝食が食べられる様子ではない。ゆっくりと寝かせることにする。
一方美朝のほうはいたって元気だ。私が終日家に居るのがめずらしく、彼女にとってみれば私を独り占めにするチャンス。どこに行くのでも私につきまとう。最近の美朝はまさに奈良美智さんのドローイングが正夢になったようだ。慧地が最近熱をあげている「ルパン三世」のビデオを見て美朝は 「峰不二子」の魅力に取り憑かれ、4歳児とは思えない甘え声で私にすり寄ってくる。ぷっと膨れっ面をした時の三白眼はぞっとする。

今日は家族全員で大掃除をし、夜は家族だけで妻の誕生日会をする予定だったが、慧地の体調不良のためすべてキャンセルに。私は昨夜書店で購入した書籍3冊のうち、一気に2冊を読んでしまい、500ページある3冊目に突入。読書の合間に遊び相手がいない美朝と遊ぶ。
これも昨日のことだが、旧友から我が家に小包が届いた。さっそく中身をひらくと子どもたちへのクリスマスプレゼントだった。昨年はギター製作キットや楽器類をいただいた。今年は関東方面で活躍している予備校時代の旧友が制作した陶器、木製のコマ、地球儀制作キット、アイドルCDが包まれていた。い つもありがとう。
美朝が「これ一緒に作ろうよ。」と私にしつこくせがむ。地球儀キットを組み立てようというのだ。折り紙状のパーツを手順通りに折ってゆきスリットに差し込みながら球体をつくる。 これが「地表」を貼付けるフレームとなっていて、接着なしで全て組み立てることができる優れものだ。かの友人はこの夏少ない休暇を使って大島まで来てく れた。そのときの文化会館で実施していた参加型プログラム「森をつくる折り紙Morigami(もりがみ)」にインスパイアーされたのか、人の手が加わっ て完成するキットをわざわざ探して私たちに送ってくれたのだ。心細やかな選択が彼らしい。
さて、地球儀は小一時間で組み立てが終わった。そこに私と美朝で色鉛筆を使って着色していく。紙の色調が土を思わせるアンバー系なのでどのような色を差し ても落ち着いた発色だ。球体は便宜上多面体で構成されていて天体の形状からはほど遠いが、地表に印刷されている陸地と海、国境の線がもっともらしく地球らしさを演出している。それらの境界線を境に塗り絵をするのがこの地球儀キットのねらいに違いないが、娘には大してこれらの境界線が目に入らないようでそれらにとらわれず縦横無尽に鉛筆を走らせている。その姿を見てふと思い出す。

私は15年ほど前に地球儀を使った作品を制作していた。
日記や手帳にマークする目的のシールや商品のポップに使用する表示、多目的な付箋類 などありとあらゆる貼付物を白地図の地球儀に貼付けて日常生活と私たちの共通観念に浮かぶ「地球」とをレーヤードした作品。見るものの想像力を喚起する 装置のような作品だ。実際に目の前に地球を見たものは宇宙飛行士ぐらいしかいないのだが、地球儀はだれにとっても既視感があり、私たちの日常がその平滑な表面に張り付いている、と想像することができる。もう少しスケールダウンしてみよう。私たちは地図を見て行ったことのない目的地にたどり着くこと ができるし、交通網や情報網にアクセスして自身のポジションを客観的に定位することができる。同時に私たち自身の身体も高度にマッピングされている。解剖図はどこでも手に入るし、私たちの身体が様々な機能の連携で成り立つ機械であると解説可能だ。私たちは自分自身を輪郭を持った内容物として捉え、 地表に自身の位置関係をポイントすることができ、国境で囲われた一色のうちに自身を塗り込めることもさして難しいことではない。
次の瞬間ほとんどの人はこうつぶやくだろう。
「世界は、そんなんじゃない。そんな、簡単なものじゃないよ。」と。
地表に這いつくばり、些末な日常に没している私たちの像を投影できるのはこれらの観念と概念が描画した図ではない。妙にてらてらとした表面に覆われ、密閉された境界膜に閉じ込められていく世界。地球儀は世界を捉える一つの方向性を見事に可視化しているが、同時にその限界も露呈している。
私が日々感じている鬱屈とした抵抗感を出発点としつつも、その情操の様態をあらわに表現することを目指さなかったのは、作品がまるで対面する鏡のように自分から切り離されて自律しているという妄想が膨らんでいたからだ。しかし
当時の私の制作を振り返ると、自分の意図や情感をそぎおとすことによって作品化に向かうことと、私の内部でふつふつと現れては消える日常での情動とが馴染むことがなかった。制作という行為が名状しがたい矛盾を抱え漫然と苦しんでいたように思う。はからずもこれらの作品は分裂的な「私」が表現されてしまった。
1メートル×3メートルの大きな都市の地図に等身大の身体のアウトラインを投影し、その内部の道路のみを赤いペンで塗りつぶした。それはあたかも身体をめぐる血流が社会にみられる交通や流通と偶然に照合するかのように浮かび上がってくる。
陸地と海、国境を輪郭線で囲い、色分けされたごく一般的な地球儀に「雲」を描いた。観念的に色分けされた世界の上空を想像上の大気が流動する。天空のダイナミズムを描き込むことで平滑な地表に奥行きをつくった。

これらの私の制作は、何よりも以前に私自身が抱える「生きる」ための挑戦でなければならなかった。しかし、その多くの試みは観念の置き換えや切り貼りに終始しており造形的な遊戯に陥っていた。
「このままではいけない。」

私はなんとしても自己を投入する私の歩むべき道筋を見つけなければならなかった。また、その模索は私の安住の地である「アート」の領域内に見いだすことになるかどうかも白紙にしてのぞまなければならなかった。それまでの漫然とした矛盾が私の中で放置できないほど膨れ上がり、自らを救済してくれるはずの「制作」という営為に私自身が砕かれそうになっていたのだ。

少しずつ光が見えてきた試行錯誤の日々。道筋を自ら選びとったようでいて、その多くはまるで「宿命」とでもいいたげに逃れようもなく身辺で起きたあまりにも悲しい出来事が契機となったことをこのブログでも綴ってきた。

やさしい美術は、「アート」への信頼と不安、期待と無力感の間で往復する。ただし、それを遠くから眺めるのではなく、常にその振幅の中に自分を置き、そこで反応する自分でいようと思う。

やさしい美術の取り組みのエレメントはこの15年ほどの間にゆっくりと熟成されてきた。その向き合いはすでに私のみに起こっていることではなく、この取り組みに携わったメンバーたちのそれぞれに見合ったかたちで受け継がれ枝葉を広げている。

今、私の目の前で4歳になった我が娘が友人のプレゼントである地球儀に手を入れている。彼女のたおやかなストロークは地球儀に記されているどんな境界線よりも美しかった。

仕事納め

2010年 12月 28日

10:00 プロジェクトルームに出勤。大学はすでに事務休止しているので学内はいたって静かだ。先に大島カフェ担当の泉がプロジェクトルームに着いている。ざっくりとミーティングをして、私はひたすらデータの整理をする。整理が終わったらバックアップをとる。今年は大島の取り組みがあったため、作成した書類も膨大だ。
年明けの大島の取り組みのため、行程表、日程表を大島青松園と自治会にファックスする。おそらく青松園も今日が仕事納めだろう、ご挨拶もかねて電話をすることにした。
「15:00に確認の電話をします。」とファックスに追記しておいたが、先に事務長の稲田さんから私の携帯に電話がかかってくる。着信音を聞き、時計をみると14:46。電話をとると、稲田さんの声。次回検討会の概要と日時の確認ののち、自治会に内線をまわしてくれる。電話口に出たのは入所者自治会長山本さん。検討会の日時を確認し、了解をいただく。
「来年もかわらなくおつきあいください。」とおっしゃられたのは山本さんの方だった。私は自分が言うべき言葉を不意をつかれて先手を取られてしまった。けれど、山本さんの口調がここ最近になく柔和だったのが私の心を和ませた。自治会長は常に入所者を代表し、国の管理下にある園と本省とのやりとりのなかで心休まることがない重責の座。年の瀬ぐらいはその箍をゆるめたいのが人情というものだ。
19:30 名古屋市の東部にある藤が丘で大島カフェ担当の井木と泉とでとあるカフェで待ち合わせてミーティング。今後の予定を確認し、問題点の洗い出しと改善について話し合う。
12月17日〜19日(20日は島内限定営業)のカフェの営業について報告を受け、その内容に呆然とする。なんと累計109名がカフェを訪れたというのだ。芸術祭事務局のweb通じての広報とメディアによる報道が大きな要因だが、島内の職員さんや入所者の利用も着実に根付いていることは確実だ。今後の推移を見守りたい。

プロジェクトルーム 大掃除

2010年 12月 27日

昨日のやさしい美術プロジェクト忘年会は焼き肉。20代の学生たちでも食べきれないほどのコース料理だった。それに加え、当日こられなくなったメンバー一人分も上乗せだったので、肉の洪水に溺れ、敢えなくノックダウン。
40代の私はもたれた胃を抱えてプロジェクトルームへ。
10:00 今日はプロジェクトルームの大掃除
書棚から作品や素材を保管している大棚まですべて引っ張り出して整理し直す。分散していた重要書類、未整理のまま放置されていた素材や金具類、梱包をし直したり、道具類が出しやすいように配置をかえるなどの大掃除を敢行。ついでに学生やスタッフがこのプロジェクトルームにある備品類、書籍が把握でき、今後活動する際も無駄がなくなるだろう。
スタッフ川島は今日で今年の仕事納め。例年はこの時期に搬入が何件も重なっていることも珍しくなかった。今年はいつもよりちょっとだけゆったりとしたプロジェクトルーム。
19:00 途中でお花を買って自宅に帰る。今日は奥さんの誕生日だから。お祝いはお気に入りのレストランで、ということになったが、今日は残念ながら定休日だったので後日パーティーをすることになった。でもしばらく肉はいいや…。

自宅ワークショップ

2010年 12月 26日

昨日撤去したFLAXUSのディスプレイ。12月18日、19日とワークショップを行ったのだが、私は大島滞在中で参加できず、学生にお任せ。搬出作業の際にワークショップの残った素材をもらう。「先生、お子さんのために持ってかえってあげてください。」
今日は子どもたちとワークショップを自宅で再現。素材は昨日もらっているのであとはやるだけだ。慧地、美朝とも集中して制作。記念撮影は「でっかい尻のサンタ」の前で、とはいかなかったが、なかなか楽しかった。
午後は自宅近隣に流れる天白川に行く。粘土が採掘できる場所をついこの間見つけたのだ。子どもたちと土の粘り具合を体感しながら地面を穿る。その後は川の水面に石を投げ込んで遊ぶ。飛び石をやってみせると子どもたちが何度飛び跳ねたかカウントしてくれる。石の形状が円盤状になっているものほど水面を這うように細かい跳躍を繰り返す。子どもの頃に体で覚えた感覚が呼び覚まされる。
あわせて1キログラムほどの粘土を採集してきた。自宅に戻りこれを徹底的に練る。採りたてほやほやの土をよく観察すると、様々な不純物や層状になった成分がマーブル模様を描いている。とっても美しい。それを練り込むと模様はゆっくりと溶け込みほのかにオレンジ色を帯びた粘土となる。子どもたちも練れば練るほどに粘りが出てくる粘土の感触に夢中だ。それで恐竜を作ったり、おだんごを作ったり、ロボットのキャラクターを作る。自宅ワークショップは楽しい。
さて、夕方からは金山駅近くの焼肉屋にいくことになっている。やさしい美術プロジェクトのメンバーで集まって忘年会だ。ではでは、行ってきます!

フラクサス ディスプレイ搬出

2010年 12月 25日

昨日のクリスマスイブは家族でマクロビオテックのケーキと生春巻きでパーティー。
朝、子どもたちの歓声で起こされる。子どもたちが枕元に置いたサンタさんへのお手紙がなくなり、その代わりに山積みのプレゼントがどっさり。
8歳になる長男慧地が「サンタさんの正体、だれなんだろ。」とつぶやく。
「あ、このプレゼント、こないだ売ってたのと同じだ。」
売ってたものだからといって、サンタさんからの贈り物であることはかわりない。子どもたちの笑顔がまぶしい。

18:30 上小田井にある ショッピングモール「ワンダーシティmozo」に行く。mozoの中でもひときわ大きい店舗「ライフスタイルショップFLAXUS」(株式会社ワールド)に展示中の二つのディスプレイの撤去作業のためだ。産学共同プロジェクトとして私の運営するアートプロデュースコース3年次学生が核になって他コースからも多数参入。
20:00 まずは脚立を使った高所作業や大掛かりな作業以外の撤去を始める。
22:00 閉店と同時に一気に撤去作業。作業分担は学生が取り仕切り、うまくはかどっている。共同作業、連携する仕事のおもしろさ、難しさに気づいたのか撤去作業に参加した10名の学生の足取りは軽い。
23:00 予定通り撤去作業が完了。good job!

0:00 大学で積み降ろし作業。気温もぐっと低くなり暗い中の作業だ。けがのないように慎重にかつ迅速に進める。学生の親御さんに3トンの幌トラックを出していただいたのでとても助かる。実はクリスマスのこの時期、レンタカーは業者におさえられてしまっていることがわかった。こうしたハプニングからも学ぶことは多い。
0:30 積み降ろし作業終了、解散。お疲れさまでした!
1:30 帰宅。

クリスマス会

2010年 12月 21日

やさしい美術のクリスマス会。
お好み焼きをホットプレートでつくることになったけれど、なんとマシントラブル。電源がはいらなくなってしまった。
気を取り直してたこ焼き機で作ることにする。中身は「闇」状態。
早いものだ。あっという間の一年を振り返る時期がきたようだ。

卒業制作

2010年 12月 20日

ここでは私が大学で担当しているコースの授業や制作の様子は少しふれる程度にしている。やさしい美術プロジェクトの活動がメインのブログだから。今日は制作が軌道に乗って来た卒業制作にちょっとだけふれてみたい。
今日、午前中にスタッフ川島と今後のスケジュールについて打ち合わせ。その後はコースの授業に集中。
卒業制作でアトリエの活気がすごい。制作は二の次で盛り上げるために鍋をする者もいる。この時期、卒業制作になったとたんに大きなものをつくったことがない学生が唐突につくりたいと言い出す。本来は失敗しながら自分で編み出していくものだが、すでに残された時間が限られたりサポートがなければ仕上がらないものもある。その時は極力その人の力でなんとかやれる方法を探してあげる。例えば金属のフレームをつくるとする。手っ取り早く溶接という方法もあるが、その場合は私たち教員や工房の職員が学生に代わって作業のほとんどをやってみせることになる。これでは実感がわかないし、本人に身に付くことも乏しい。業者に発注するのも良いのだが、学生にはその経験が少ないので頼み方を知らない。私はそのような相談があった学生には「わからないことはわからない、と業者の人に話して一度叱られてきなさい。」と突き放す。たいてい「そんなことも知らんのか。」と叱られながらも業者のおじさんがやさしく教えてくれたり、ほかの業者を紹介してくれたりで何か必ず収穫があるものだ。自分でぶち当たって得たものって自信につながるもんだよ。

リベット留めでアルミのフレームを製作

けっこう大きなものも軽く、頑丈につくることができる

大島 青いインクのスケッチ

2010年 12月 19日

よもぎを摘む井木と大智さん

8:30 まつかぜに乗船。メモと企画書を持って高松へ。北川フラムさんとミーティングだ。
10:00 北川さんが直島から高松に着く。ターミナルビルの実行委員会事務局でミーティングする。北川さんはソファーに腰を下ろすなり背広のポケットからチョコレートをテーブルに差し出す。以前名古屋市美術館で打ち合わせした時も北川さんのポケットからおまんじゅうが出てきた。さしあたって私から大島での検討会で議論されている今後の展開について経過報告する。大島の取り組みのディレクターは私、芸術祭や行政とのリンクする大枠のプロデューサーを北川さんが担当することになっている。私が自身で作成した企画書を見せて説明していると北川さんからふいに「これは、高橋さんが描いたんですか?」とたずねられる。私がわら半紙に万年筆で描いたラフスケッチのことだ。「描けるんですねぇ。…」と賛辞をいただく。恐縮。「この高橋さんがつくられた企画書、すぐに3部コピーしておいて。」と同席していたAFGの高坂さんに指示が出る。2013年次回の芸術祭に向けてゆっくりと歩みを進めている。
ミーティングを終わらせて11:00の便で高松から大島にもどる。香川県の今瀧さんもプライベートでカフェ・シヨルにランチしにきてくれた。朝も10人以上の来場者があり、大島はいつもより少しだけにぎやかだ。今日ガイドとカフェを担当してくれたこえび隊は大阪から来てくれている山本くんと中島さん。もちろん、大の大島ファンである。芸術祭期間中初めて大島に来てやがてリピーターに。そうこうしているうちに気がついたらこえび隊でガイドを務めていた。
お昼はまったりとカフェ・シヨルで過ごす。
16:15 愛用のリュックとアコースティックギターを持ってせいしょうに乗船。一路名古屋へ。高松に着き少し立ち話。今日の大島を振り返り話が途切れない。AFGの高坂さんは今日が一応の大島の仕事納め。様々な調整、事務的手続きなど本当に親身にお手伝いいただいた。こえび隊のサポートが望めない時は率先してガイドを担当、まさにアドミニストレーターとして取り組みを影で支えてくれた。それぞれの立ち位置は異なるけれど高坂さんの大島への思いはこえび隊、やさしい美術プロジェクトと変わらない。まだ、関わってもらう可能性を残しつつもまずは「お疲れさまでした。」
私は商店街でうどんを食べたあと、夜行バスの出発の時間まで時間をつぶすことに。いつもはパソコンで仕事したり、スケッチブックにプランを書き付けたりして過ごすのだが、今日は読書しようと心に決めていた。第一大きなギターケースを持ち歩いているのでは動きがとれない。書店に行き何気なく物色していると一冊の本に目がとまった。姜尚中さん(かんさんじゅん)の著作「オモニ」。日曜美術館で司会を務める姜さんは大島に来る予定だったが、どうしてもタイミングが合わなかった。私がNHKのラジオビタミンに出演した日の翌日に姜さんが出演。どうしたことかいつもニアミスで会えない。会ってみたい姜さんの小説を読むことにする。
22:10 夜行バスに乗り込み、名古屋へ。小説「オモニ」は一気に読んでしまった。

大島 ゲートボールと飲んだくれ

2010年 12月 18日

6:00 起床。昨日の鍋物とベーグルサンド、フルーツと野菜の生ジュースを食す。夏のように窓を開け放つことはないが、窓の磨りガラスを通して朝日が拡散され部屋に送こまれてくる。さわやかな朝だ。井木と泉は昨日23:00過ぎに野村ハウスに戻ってきた。二人とも食事がのどを通らない。疲れが出てきているのか。それでも二人はカフェのオープンに向けてすべてをかけて集中している。
9:30 朝一便の船が桟橋に着く。顔なじみのこえび隊、芸術祭中に警備員やアートナビを担当した皆さんが一般来場者とともにやってくる。お客さんとして来て責任もなく、リラックスムード。皆さんは大島に着くなりに友人となった入所者の安否を気遣う。入所者の平均年齢は80歳。昨日元気だったけれど、今日はわからない、そうしたことが起きないとも限らない。「あの人は元気ですか。」
さて、一般来場者だが、9時便に乗ってきた方は11名。そのうち8名が2〜4回大島を訪れているリピーターである。入所者とすでに顔見知りになっている方もいて、会うのを楽しみに来たとおっしゃる方もいる。芸術祭後も公開を継続しているほかの島にはない現象だ。大島ならではと言ってもいい。
午前中、野村ハウスの隣人で10寮にお住まいの安長さんと立ち話。久しぶりに夜、いっしょに飲むことになった。
11:00の便にもこえび隊を務めた人々が乗っていた。大島に着くなり皆方々に散らばって入所者の皆さんに会いにいく。
13:00 ランチも売り切れ、カフェのお客さんも一段落。私はカフェの奥の席についてまったりとギターを弾いていると、お客さんの声、立ち寄った職員さんの話、入所者と語らう様子がどこからともなく風に乗ってくる。こうした雑多な物音が「にぎわい」というものなのだろう。普段の大島にはない。私は目を瞑り、耳をすます。
一時経ち、お客さんとお話ししようかと思いギャラリーに向かう。途中ゲートボール場の横を通り過ぎると、こえび隊の石川さん、小坂くんが野村さんと大智さんと大声を出しながらゲートボールをしている。なんかめちゃ楽しそう。ということで私も早速参戦。そこへ高校生のお客さんをご案内していたこえび隊の平井さんがそのままなし崩し的に合流。ルールがわからないまま、紅白組に分かれてゲーム開始。途中入所者の森さんも加わり大騒ぎのゲーム展開となる。とにかく右も左もわからない私たち。力一杯ボールを打てばいいというものではなく、頭脳戦あり、テクニックも必要で、やってみるとなかなか奥深い。入所者の皆さんがやさしく教えてくれるので、ゲームを進めながら少しずつルールが見えてきた。入所者の皆さんのゲートボール歴は30年ほど。外すはずのないボールを私たち初心者は平気で外すので、その度にずっこける。吉本新喜劇状態だ。ほんわかぱっぱでにぎやかなゲートボール!石川さんは森さんに要所で手ほどきを受けて、急激に腕をあげる。大智さんが「石川さん、今日は大島に泊まって、明日補欠で一緒に行くか。」と冗談をとばしている。明日は庵治町でゲートボールの試合があるそうで、今日はその練習だったのだ。高校生の男の子も「まさか、大島に来て入所者の皆さんとゲートボールをすることになるとは。」と思いもよらない出会いに興奮気味だ。彼は学校から大島へ一度見学にきたけれど、一般公開が継続されることを知り、大島に興味もあったことから単独で足を運んだ。入所者の皆さんにはうれしいお客さんだ。
ゲートボール場をあとにして、カフェに行きしばし談笑。今日もカフェ・シヨルには金色の西日が部屋の奥まで差し込む。
16:15 高松最終便まつかぜを見送る。芸術祭会期中の一般公開の緊張が解け、来場者とそれを迎えるボランティア、そして入所者の立場がゆるやかにあいまいになって、ゆったりとした一日が過ごせた。どのような理由であれ大島を訪れ大島を味わう。そんな開放感があった。

安長さんの手

18:30 野村ハウス(11寮)の隣人入所者の安長さんを飲みに誘う。11寮のドアをノックするが返事がない。玄関を開けて声をかけると眠気眼の安長さんが引き戸を開けて出てきた。
「お、寝とったわ。」
「安長さん、これからつまみを作るんでウチで飲みましょう。」
「ん。」
子持ちししゃもをグリルで焼いて、えのきと豚肉、焼き豆腐、ほうれん草で炒め物を作る。
安長さんはいつものように焼酎のお湯割り。私は日本酒を嗜む。
ほろ酔いになってお互い雄弁になって来たところで、私から安長さんにいくつか率直に訊ねた。
「安長さんが長野で働いていた時(安長さんは社会復帰をして土建業に携わっていた時期がある)、一緒に働いている人たちに安長さんへ差別的な言葉を浴びせるような人はいなかったんですか。」
「それは、おらんかったよ。社長が毎日(安長さんの)部屋に飲みにきよった。社長が「おれが嫁さん探すからずっとここにおったらええ。」と言ってくれてな。とにかく仕事はきつい土方仕事だったから、帰って来たら酒を飲んですぐ寝てしもた。次の日もあるからな。」
「(ハンセン病の後遺症で)手の感覚が麻痺しているから仕事は大変だったでしょう。」
「手は今よりもずっと良かったからな。」
「感覚の麻痺は…」
「感覚はまだあったよ。ないところもあった。手がごついと皆に言われてな。」
安長さんの手は石の礫のごとくばんっと塊感がある。数々の重労働を経て来た無骨な手はハンセン病のため、指がなくなってしまっているところもある。私は安長さんの手をにぎった。少しひんやりとしていてすべすべしている。安長さんの手は私の手のひらには収まらないほど大きい。
「たくさんの仕事をしてきた手ですね—。」

私が昔の大島の様子をいくつか伺っていると、安長さんはこうおっしゃった。
「そんなん昔のこと、掘り出して、ほじくり返して何になる。大島で暮らして来た人はおまえたちの想像もつかん苦労をしてきとる。それを知って何になる。」
こうもおっしゃった。
「歴史の表を書いて、昔のこと並べて、いったい何になるんだ。」
私はこの言葉を受け止めつつその重さをはかりかねていた。いや、むしろ外からやってきた私がストレートに言葉を浴びせられたことのうれしさが勝っていた。言葉そのままでは受け取ることができない、様々な感情が綯い交ぜになった言霊を私はようやくぶつけられたような気がした。
「そんなことして何になる。」
乱暴な言い口ではねつけられるのではなく、その深遠な響きが私のなかに染みこんでくる。
「今を生きている人は今を精一杯生きたらええ。」

入所者と私。そういう構図ではなく、酒を酌み交わした男同士の語らい。以前にも感じたことのある懐かしさで私は包まれていた。
私は小原村(現在豊田市)の「北」という集落で暮らしていた頃、寄り合いに出ると、お年寄りからたくさんお話を聞くことができた。あるおばあさんは15を過ぎてすぐに嫁に出る。戦争に出た夫は戦死し、女手一人で子どもたちを育てる。あるおじいさんは予科練にいて多くの戦友が靖国に入っているという。そのおじいさんにこう尋ねた。
「戦後生き残り、今生きていて、どう思われますか。」
しばらく沈黙の後、その方はこう返した。
「生きてきて、よかったのか、悪かったのか。…わからんなぁ。」
私はお年寄りの体験してきた当時の空気も価値観も一つとして体験していない。でもそれらのエピソードが今の自分に連なる連綿とした人の営みであることは理解できた。その言葉が、声が、肌合いを伴って私の心を撫でていくのを感じた。

「どうですかね、この大島で自分が生きてきた、生きてきたんだという証を残したいという気持ちはありますか。」
「それは、ある。それはある、な。」
視線を深く下に落として安長さんは答えた。
今回、大島の取り組み{つながりの家}の原点は入所者の心情であり、人間としての普遍的な叫びだと私は考えた。その「証」というのは資料的価値におかれる事物のみではなく、uncollectible(収集保管不可能な)な現象、情景、心の動き、文化などを総じて人々が見つめることを差している。その人々に私も含まれるのだ。

「また飲みましょう、安長さん。」
「こないだの焼酎。あれ、うまかったな。」
打ち上げ会の時に私が持参した愛知県産の焼酎のことだ。
「今度買って持ってきますから。」
「よし、今度は人生論を語り合おうかの。」
「はいっ!」
夜の帳が下りて、それにつれ私と安長さんの酔いも深まっていく。
深く真っ黒な瀬戸内海を見つめてみるが焦点が合わない。酔いのためだけではない気がした。