Nobuyuki Takahashi’s blog

Archive for the ‘大島’ Category

枝分かれプロジェクト

2013年 4月 1日

瀬戸内国際芸術祭2013が始まって10日が過ぎた。
展示の公開、カフェの運営、ガイドも軌道に乗って、一安心だ。
昨日は今回の芸術祭で初めての試みとなる「貯水池ガイドツアー」を実施。無事に来場者の皆さんをご案内できて緊張も解けてきた感じだ。
ハンセン病療養所大島の北部にある居住者寮のエリアを「北海道」と呼ぶ。入所者が小さな大島を日本に見立ててつけた愛称で、入所者のユーモアを感じる。その北海道エリアにある15寮と12寮をやさしい美術プロジェクトは展示で活用している。発掘した木造の舟を展示するために 15寮の一部は床下が大きく掘られている。来場者の方々から「掘った土はどこに行ったんですか?」と質問される。無理もない、ダンプ2杯分はゆうにある大量の土砂だ。

さて、それらの土はどこに行ったのか。種を明かすというほどのものでないが、土の行き場は2010年より海岸から引き上げられた、あの解剖台の土台と15寮前に均された土盛りだ。
昨日、入所者の野村さんと15寮前で雑談、この15寮の土盛りをどうしようかと。
「スイカでも植えるかのう。」「フルーツトマトもええぞ。」「スイカのあとはサツマイモはどうじゃ。」とアイデアがい次から次へとわいてくる。僕らが汗水たらして掘った大量の土砂はそのままで肥料をあげれば、野菜が育つとのこと。
芸術祭の作品から派生し枝分かれして現れた新たなるプロジェクト。そこから醸し出されるやわらかな空気は来場者にもじわりと伝わっていく。

解剖台の土台に使われた15寮の床下の土。

15寮前に均された土盛り。

たったひとりで貯水地の集水溝を切り拓く入所者の脇林さん。

瀬戸内国際芸術祭 いよいよ始まる!

2013年 3月 22日

展示を終わらせ、19日のレセプション、20日のオープニングに出て、昨日大島から帰ってきた。
何人かの方から「ブログを読んでますよ。」 「最近は書かれていませんね。」との指摘。
twitterで発信することが多くなった今日この頃。なんとか時間を作ってブログを更新しよう。
さて、大島の展示。これは来ていただくしかない。「写真アップして」「画像希望!」という声も多いけれど、見たいイメージをそのまま載せるというのがどうも抵抗がある。
やっぱり、大島に来てください。としか言いようがない。
ぜひ!

カフェ・シヨルの2人のママが初めて舟を観る。

震災遺構と解剖台

2012年 7月 1日

石巻の車道の真ん中に流れ着いた「巨大缶詰」の解体、撤去が始まったそうだ。私も石巻に行った際、この巨大な缶詰を揉んだ自然の脅威を前に呆然と立ち尽くした。
水産加工会社「木の屋石巻水産」の魚油タンクだった、「巨大缶詰」は同社の看板商品である「鯨大和煮」のデザインをそのまま拡大したもので地元では名物だったという。それが、津波で約300mも流され、中央分離帯に横倒しになっていた。
保存を求める声が多く寄せられたそうだが、被災した当事者からは「思い出したくない」という声も少なくなかったという。移動して遺す案も浮上したが、高さ10mを越える「巨大缶詰」を運ぶには電線を切ってはつなぎ直す大工事が不可欠となる。費用も莫大にかかるだろう。解体した「巨大缶詰」の断片は今後テーブルや椅子にリメイクされ、同社の新工場敷地に置かれるそうだ。
こうした震災遺構と呼ばれる場所や事物は今後急速に姿を消していく。そうしたなかで「遺す」選択をした所もある。
遺すか、遺さないか。
とても多数決で決まるものではない。議論の末、正論に沿うとしても、「正しさ」は立ち位置によって異なる。答えは、ない。 有識者の提言に基づいたり、行政の強力なリーダーシップにより「遺す」に至るのも理解はできる。しかし忘れてはならないのは、「震災遺構」とは、都市の傷であり、そこで暮らす人々にとっては「痛み」そのものなのだと思う。自分から遠くにある傷口に興味本位で反応することはあってはならない。心理的な距離のみでなく、物理的な距離を縮め、肉薄して体感しなければ、その「痛み」の澱みに身を投じて土地の人々と共有することはできない。
「遺す」ことをその当事者たちが決断することは、自らの傷口に問いかけるようなものだ。遠くから見守る人々が「ひとごとではない」と関与するのも人としての「痛み」の回路に従うもの。組織や集団に属した場合と個人との見解が異なることも不思議ではない。その大きなブレが描くグラデーションに決断の楔を穿つ。簡単なことではないし、それを安易に「判断の正しさ」に還元してはならない。
ハンセン病療養所大島で2010年の夏、瀬戸内国際芸術祭直前に海岸に打ち捨てられた解剖台が発見された。島内で実際に使われていた、解剖台である。再発見からわずか1週間の間に解剖台を引き上げ、今は使われていない一般独身寮15寮前に設置した。いきさつは複雑に絡み合って直線的ではないのだが、私が入所者自治会の皆さんに解剖台の引き上げと設置を提案したのは事実だ。島内外で当時吹き荒れた感情の渦を何かに喩えることは難しいし、体感したものを私が喩えて表現するのを、許されるかどうか…。一つ確実に言えるのは、「私は何者で、どこに立っているのか」突きつけられ、立っているのも危ういほど揺るがされたということ。遺されたという事実、遺されたものが私たちの前にある。そこから出発するしかない。

私が見た石巻の巨大缶詰

大島の解剖台

つきぬける風

2012年 6月 20日

ハンセン病療養所大島での取り組みの、現在の主軸はカフェ・シヨルである。
先日、自治会長の山本さんがおっしゃった。
「大島の一番の課題は今をどう生きていくか。」
もちろんその言葉の背景には人として生きる尊厳を奪われた入所者の皆さんが今現在をいかに充実したものとするか、ということに他ならない。
その意味でたとえ将来構想が立てられたとしてもそれは今の入所者の暮らしと地続きでなければならない。
カフェ・シヨルは今の大島に深く関わり、並走しているプロジェクトだ。
人々からは「奇跡の島カフェ」と呼ばれている。

冬野菜の大島 雪解けの妻有

2012年 4月 7日

少し経つが、3月に撮った大島での写真と、妻有(新潟県十日町市)の写真を載せる。



瑠璃色の和舟発掘 境界のない世界

2011年 12月 17日

大島で暮らす入所者の皆さんからたくさんのお話を聞いた。その多くは同じ人間とは到底思えない扱いを受けたことの辛さ、情けなさ、怒りだった。でも海に出た時の話は違っていた。いきいきと語り、饒舌になるのだ。厳しい生活のためとはいえ、釣りや貝獲りのわくわくした感じ。箱眼鏡をくわえて銛でたこを突いた話。引潮時に漁に出て、満ち潮時にはぷかぷか浮いて海流に乗って帰ってきた話。今も大事に育てている盆栽の松は大島の岩場にあったものも多いが、近くの兜島へと舟を漕ぎ、素性のいい松を採ってきたというお話。
そう、海にまつわるお話は明るい話題が多いのだ。「海には境界がないからな。」とおっしゃる。大島内でも職員と患者のエリアは「有毒線」によって分け隔てられていた時代があった。官用船の船室も職員用と患者用が分けられていた。唯一海だけは、海にいる時だけは一切の分け隔てもなく、自由にいられたのだという。
入所者の皆さんから海の思い出を聞くと私の心も踊る。ぴちぴちとした新鮮な日々、陰のない光に満ちた空間をありありと想像できるのだ。
なんとはなしに舟小屋に和舟があるぞ、というお話を幾人かの入所者から伝え聞いていた。すでにご高齢のこともあり、舟で海に出る入所者はいない。舟小屋も荒れ放題だ。私のような者がたずねない限り、入所者の皆さんの頭から海は離れてしまっているように思う。だからこそ、私はこの瑠璃色の和舟、島内唯一遺る木造船を掘り起こし、明るみに出したかった。
掘り出す私の意識は昨年の解剖台引き上げと展示の時とそれほど変わらない。でも、この瑠璃色の和舟は多くの入所者に喜びを持って迎えられ、たくさんの記憶が想起されるのではと思う。
とても美しい舟だ。コールタールをよく吸い込んだ舟底が砂の中から現れた時はそのあまりにも艶かしい手触りに驚嘆した。「この舟、まだ生きてる。」そんな言葉が自然と口からこぼれた。





あおぞら市 大島にて

2011年 10月 20日

10月10日。ハンセン病療養所大島にてあおぞら市というマルシェ型のイベントを行った。このようなイベントが大島で行われるのは初めてのことだが、何もかも初めてづくし。島外の人々と共催することもそうだ。ゲストに田島征三さんとおおたか静流さんを招き、歌に合わせてライブペインティングをして大いに盛り上げていただいた。
あおぞら市は大島の入所者と周辺地域とがものづくりを通じてやわらかに交流できたら、という想いから始まった。この小さなきっかけが原動力となり、こえび隊が中心に芸術祭実行委員会が積極的に企画運営を進めた。
また同時期に豊島の人々との交流も始まり、今日この機会に豊島の皆さんもあおぞら市にかけつけた。入所者の皆さんは陶芸や七宝焼きなどを出店、高松からは和三盆や張り子のオブジェなどの参加があった。イベント開始から多くの人で賑わい、入所者の皆さんもたくさん訪れた。これまで準備してきたこえび隊の皆さんの目がうるむ。
この感動は身に覚えがある。昨年の芸術祭期間中私が企画した名人講座。入所者が講師となり、写真や陶芸などのワークショップを開いた。島内に子どもたちのはしゃぐ声が響き、笑顔に包まれる場が紡ぎだされた。隔絶されてきた大島で手と手を取り合う情景に熱くこみあげるものがあった。そう、あの時の感覚だ。
あおぞら市にはもう一つ大きな意義がある。それは、遠くから来た私たちではなく、庵治や牟礼、高松などの大島周囲に暮らす地元の人々が自ら動いたことである。近くて遠い周辺地域の人々が大島を支えて行くということがどれほど入所者の皆さんを力づけることか!
大島での取り組み{つながりの家}を立ち上げた2年前に入所者の皆さんと一緒に思い描いたことが少しづつ実現に向かっている。この身震いする様な感覚を、参加した全員が共有できたと思う。
あおぞら市が終わったあと、豊島の皆さんと入所者との懇親会が行われた。そこではサプライズがあった。豊島の自治会長さんが自ら綴った般若心経が野村自治副会長に手渡されたのだ。これまでに無念のうちに亡くなった入所者を弔い、これからの大島の未来を祈念しての心のこもったメッセージだった。
痛みを分かち合い、楽しいことは皆で楽しむ。大島とその外にある見えない壁が溶けて行く。触手の枝葉が相互に紡ぎ合わされつながって行くのを感じる。この場にいられること、関われることの深い喜びがわき上がる。飛び上がりたいぐらいだ!皆さん本当にありがとう。そしておつかれさま。このつながりの輪、大事に育んで行きましょう!

解剖台の断面

2011年 9月 4日

昨年7月に大島北西の海岸にて発見された解剖台。引き上げと展示を決め、大島青松園の作業部の男たちが不可能と言われた引き上げ作業に取り組んだ。
解剖台は大島で使われていたものだ。30年近く前に不要となり、火葬場近くの岸壁から打ち捨てられると同時に、人々の記憶からも姿を消した。
7月頭のこと、大島の入所者であり写真家の脇林清さんが引潮時に姿を現したコンクリートの塊を写真に撮ったのが引き金となった。入所者にしてみれば、誰から見ても一目瞭然、解剖台だった。
引き上げられる際に真っ二つに割れてしまった解剖台。無理もない、解剖台には芯材が入っておらず、そのまま移動することは困難だ。このコンクリートの塊は大島の外で作られたのではなく、おそらくここ大島で作られそのまま据え置かれたものだ。

二つに割れてしまったからこそ引き上げることができた解剖台。ひょうたん型の周縁部も大きく破損してしまったが、断片は残さず回収して保管した。
拾い集めた断片をひとつひとつパズルのようにつなぎあわせる。解剖台の修復をしながら、その断面を心に刻む。どのような色をしていたのか、どのような質感だったのか…。

修復しながら私が撮った写真をここに掲載しておく。大島を訪れた際にこの解剖台を通っていった人々のことを思い起こしていただきたい。きっと解剖台は私たちの心の内を鏡のように映してくれることと思う。

解剖台再発見時 写真:脇林清氏

解剖台の設置の様子

修復が終わった現在の解剖台


いのちをつなぐ

2011年 8月 28日

長年強制隔離に耐えてきた大島で暮らす人々。水道が来る前は南の山を取り囲むように集水溝を掘り、貯水池を設けてなんとかしのいできた。入所者の皆さんにとっては過去の遺物である。別の見方をすれば、貯水池は入所者のいのちをつないできた象徴と言えるし、雨水が山の斜面をたどり、生活用水になっていたことは自然のダイナミズムの一部に人が組み入れられていた痕跡とも受け取ることができる。ここで何かができそうな予感がしている。

現在の貯水池

修復を重ねてきた集水溝。この部分は比較的新しい遺構だ。

薮へと化した集水溝

20〜30年人の手がはいっていない集水溝

遺すことのスパン

2011年 8月 24日

夕方、ハンセン病療養所大島でカフェ・シヨルを運営する井木、泉とミーティング。私たちは月に一回必ず話し合う時間を持っている。私も大島での取り組み{つながりの家}を運営する上で悩んでいることがあれば、率直に二人に話している。
私たちの取り組みは瀬戸内国際芸術祭の土台があってのものである。芸術祭やイベントの開催は季節ごと、あるいは1年というスパンのリズムで動いていく。一方で大島で暮らす入所者の高齢化は進み、大島で暮らす人がいなくなる時がいずれ、やってくるという現実を、私たちは意識せざるを得ない。それぞれの療養所で将来構想が立てられ、準備が進められる。しかし、大島は離島であるため、将来構想の道は事実上頓挫している。芸術祭の時間の流れとは異なるリズムで大島時間も刻々とその状況を変えていく。
私たちの取り組みは直接将来構想に関わるものではないが、取り組みの内容を入所者の皆さんと相談しながら組み立てていくと、自ずと将来構想に触れることになる。どのような取り組みを行うにしても、時間のスパンを考えざるをえないのだ。

カフェ・シヨルの二人から微笑ましいエピソードを聞いた。私たちが行ってきたワークショップの場で入所者と周辺地域の子どもたちが出会い、その後文通したり、定期的に島で交流しているという。 子どもをのこすことを許されなかった入所者にとって、どれほど心が和むことだろう。私は思わず入所者の皆さんの笑顔を思い浮かべ、うれしくなった。
ふと思う。たとえ近い将来大島で暮らしてきた人々が人生を全うし、誰もいない島になったとしても、今入所者の皆さんと心を通わす子どもたちの世代は入所者の皆さんのことを絶対忘れないだろう。せめて、子どもたちがやがて大人になり、子どもを連れて大島に行った時にも入所者の皆さんが生きてきた証を感じ取れる島でなければならない、と。
これまで漠然と考えてきた「遺す」ということのスパンを考える上で、大きなヒントが得られた気がする。