Nobuyuki Takahashi’s blog

2010年 5月のアーカイブ

大島 勉強会ー古い写真ー

2010年 5月 30日

6:00 となりの女子部屋がにぎやかだ。かなり早くから今日の勉強会のためにクッキーを焼いている。
7:30 朝食。張と天野が用意してくれた。井木と泉はカフェでのクッキーづくりに追われているようだ。先に失礼して朝食を済ます。
8:00 カフェ・シヨル(第二面会人宿泊所)に行き、簡単に掃除を済ませる。
9:30 勉強会参加者が桟橋に着き、AFG高坂さんに連れられて一行がカフェにやってくる。やさしい美術の5名を含め21名の参加。瀬戸内国際芸術祭で大島に一般来場者を招き、大島を全身で感じていただくためにガイドツアーを行う。カフェの専属スタッフとし食材の仕込みから接客までを行う。やさしい美術プロジェクト大島での取り組み{つながりの家}は周辺地域の人々の協力なしでは実現しない。大島が外の世界とつながっていくためのしくみは立派な建物や最新式の設備ではなく、ソフト、つまり人々の「やれることから着実にやっていこう。」という気持ちが交わり重なり合うことが前提なのだ。「大島ファンクラブの集いへようこそ!」と私が最初に皆さんに呼びかけたのはまんざら冗談でもないのである。

納骨堂の前で野村さんの話を聞く

カフェ・シヨルに荷物を置き、納骨堂へ行く。お線香をあげ、全員で手を合わせているとふと入所者野村さんがやってきた。「納骨堂を開けるかね。」とおっしゃい、私に納骨堂の鍵を渡された。私は鍵を開け、納骨堂の扉を開ける。勉強会参加者全員息をのむ。ここにおさめられているお骨は昭和11年から亡くなられた方たちのものだ。「戦時中の年代を見なさい。たくさんの方が亡くなられとるじゃろ。」一同固唾をのんで見つめる。圧倒的な現実感。戦時中の厳しい時期は一日に5人も6人も亡くなったそうだ。棺桶の木材が足らず、一枚おきに張り付け、隙間からご遺体が見えたそうだ。あまりにも過酷な暮らし。出口のない苦しみ。私たちは今、大島で生き抜き、最後の時を迎えた人々と対面している。八角柱の堂内それぞれの面にガラス張りのケースに鎮座するお骨…。ぐるりと目を渡すと、入り口近くの最後の面だけがぽっかりと空いている。「ここが残っているわしらの入るところじゃ。」野村さんの声が重く響く。
その後、「風の舞」へ。庵治の石工とボランティアによって建てられた魂のモニュメント。ここに火葬された方の残骨が埋葬されている。ここから眺める瀬戸内海は美しい。まるで自分の庭のように近く感じられる多島海の眺め。
カフェに戻り、やさしい美術プロジェクトの活動についてレクチャーする。今年3月に発行した「やさしい美術プロジェクト活動報告書平成19年度ー21年度」を勉強会参加者に配布し、これまでの沿革と活動の根幹が見渡せるよう解説する。やさしい美術が行ってきた主に病院で行ってきた取り組みはこの大島での取り組みにつながるものだ。大島は病院ではない。逆に言えば私たちやさしい美術は「病院アート」というジャンルの括りではなく、取り組みの場に医療福祉施設を選んだという話なのだ。人と関わることはその人のバックグラウンドになる地域と関わることになる。病院も人全体と関わると意識した時に、病院〜地域に開く〜という発想が出てきたのだろう。昨年の越後妻有アートトリエンナーレで取り組んだ十日町病院とやさしい家。空き家活用プログラム「やさしい家」は{つながりの家}に着実に受け継がれている。
12:00 勉強会参加者は各々持参したお弁当などで昼食をとる。私はメンバーがつくってくれたうどんをいただく。食べている間も質問がどんどん舞い込んでくる。積極性が感じられて大島ファンクラブ会長としてはこの上ない喜び。
12:30 入所者の脇林さん宅に行く。脇林さんが収集を続ける古い写真をお借りするためだ。午後は何名かの入所者にお願いしてお話を聞く機会を設けている。お話を伺う際に大島にかろうじて残っている古い写真を見ながら記憶を鮮明にし、大島の生活者として語っていただこうと思ったのだ。すさまじい写真パネルの数だ。カフェ中央に並べた長机に並べてみたが、隙間なく置いてもとても並びきらない。

古い写真を見ながらお話を聞く

13:00 入所者の山本さん、脇林さん、野村さん、森さんがカフェにやってくる。施設見学に出ようとも考えたが、むしろゆっくりと歓談したほうが交流が深まる。勉強会参加者も質問する時間がとれてよいのではと判断し、カフェ・シヨルのみでの勉強会となった。写真とは過去の時間を切り取るものだ。入所者が忘れかけていたことが写真を介して鮮明に蘇ってくる。古い写真に写っていた無機質な建物が解剖室だとわかったのは、森さんが昔の地図を持ってきて写真と照らし合わせたからである。「入所者は自分が死んだ時に解剖してください、という承諾書に無理矢理判を押させられた。」という話も出てきた。ハンセン病療養施設は解剖天国と言われるほど、ずさんな解剖が行われていたそうだ。入所者が人間として扱われなかった事実を示すエピソードだ。野村さんらが入所したころは入所者が700名を越え、看護士ら医療従事者は20名に満たなかったと聞く。症状の比較的軽い患者が病棟に泊まり込み、昼夜問わず5名ほどの重篤な患者の面倒を看ていたという。療養所という名の収容所である。
山本さんは療養所の生活がようやく落ち着き、ケアがしっかりと施されるようになったころ、自分の生きがいが掴めない苦しみ、これが地獄のような苦しみだったとおっしゃる。仕事をして社会の役に立とうにも後遺症が重く何もできない。社会復帰を考えるには歳をとりすぎた。ただ、時間だけが目前に横たわっている。何をやっても「どうせ、何にもならん。」という自暴自棄に陥る。そんな時に陶芸と出会った。自分の技術、心の揺れがそのまま土に現れ、自分にはね返ってくる。それが心地よかった。その「向き合い」の時間を持つことで山本さんは次第に平静さを取り戻していった。表現の原点とは何かを考えさせられるお話だ。

大島焼のカップでいただくお茶は格別だ

仕上がったばかりの大島焼のカップでお茶をいただきながら、泉、井木が焼いたクッキーを食す。辛口の山本さんが「このカップ、かたちは良くないけど、飲み口がいい。口当たりが良いな。」とさりげなくお褒めの一言が響く。円座になって食べる。これが最高のコミュニケーションだ。
16:00 入所者と交流しながらのお話は尽きないが、ここで時間切れ。総まとめとして入所者の皆さんから瀬戸内国際芸術祭に対する期待の言葉で締めくくる。「大島のことを多くの人に知ってもらいたい。皆で大島のことを考えてもらいたい。」
大島ファンになる第一歩は大島で起きていることは自分の問題だと感じること。自分を救済するために大島に踏み込んでいく。語弊があるかもしれないが、「大島のことを、入所者のことを自分のこととして捉える」のである。
16:30 全員でせいしょうに乗り込む。勉強会には初めて大島を訪れたこえび隊もいた。どのように大島のことが伝わったのだろうか。割り切れない気持ちを抱いてもう一度大島を訪れてほしい。気にかかる何かから興味が生まれるのだ。
17:30 駐車場に停めておいたレンタカーに乗り、高松を出発。
終電終バスに乗ることができる時間帯に名古屋には着けない。今回のそれぞれのメンバーの自宅近くまで送り届けながら今回の大島行きは幕を閉じる。
0:30 私の自宅前に着く。泉、井木が豊田までレンタカーを戻してくれる。気をつけて帰ってね。

大島 身代わりになったインパクトドライバー

2010年 5月 29日

6:30 起床。
7:30 朝食。
8:30 野村ハウス(11寮)を出てカフェ・シヨルに行き、昨日運んだ荷物を確認する。
9:20 桟橋にまつかぜが着く。7人のこえび隊全員が大島リピーターで大島ファン。間違いない。
昨日に続いて快晴。こえび隊の皆さんの明るい笑顔で意欲がふつふつとわき上がる。
まずは全員で納骨堂でお参り。その後はせっかくなので大島焼の窯出しに行く。というのは今回参加していただいているこえび隊の皆さんの多くは大島焼でカフェで使う器をつくるワークショップに参加した人ばかりなのだ。
自治会事務所にいた入所者の山本さんに声をかけ、窯を開ける。
まず、上下の止め金具をはずし、ゆっくりと窯の扉を開ける。台車を引き出すと―1240°という高温の世界をくぐり生まれ変わった「大島焼」が姿を現す。一同歓声。
全員で窯から焼き上がった作品群を取り出し、作業机に並べる。すばらしいできばえだ。料理が映えるだろう。山本さんは「いびつだけど、ひとつひとつ違ってて味わいがある。そこがいい。」とおっしゃる。
皆で高台の接地部分に砥石をあてて、仕上げにかかる。底を擦る音が様々な音階となってハーモニーを奏でている。この活気のある様子を山本さんは微笑みながらじっと見ている。
底擦りをした大島焼を新聞紙に包み、箱に詰め込む。カフェに運び、明日の勉強会で使えればと思う。いよいよカフェの開店がイメージできる時期にさしかかってきた。梱包が終わり3人はそのまま陶芸室にのこり、まだ半分ほど残っている大島焼の釉薬がけをする。私たちはカフェに行き大工仕事だ。
カフェの飾り棚やテーブルなどを作り付ける作業だ。

新しく葺き替えたテラス屋根

私は独りテラスに出て、庇に屋根を葺く作業をする。
庇の垂木は古いもののまだ生きているが、その上に掛けてある胴縁は腐っている。まずその胴縁をはずし、錆びた釘をひたすら抜く。そこへ胴縁を張り替える。新しくなった胴縁の上にポリカーボネードの波板を傘釘で葺いていく。トタンの波板の場合はそのまま傘釘を打っていくが、ポリカーボネードは耐久性に富み、固いのでドリルで下穴を開ける。こういう作業は慣れている。
脚立の上に立ち作業をしているとバランスを崩したと同時に腰袋に差し入れていたインパクトドライバーが落下。握り部分からまっぷたつに折れてしまった。集中力が切れて一度屋根から降りることにする。

へし折れたインパクトドライバー

このインパクトドライバー。卒業したての私がなけなしのお金をはたいて買った道具のひとつだ。とあるギャラリーの内装工事を請け負い、それを機会にホームセンターのオープンセールに並んだ。それまではビスというビスは手締めかドリルにビットを取り付けた簡易的な方法をとっていたが、作業能率と勤務日を考えてのことだった。一週間働けばインパクトドライバー分は効率が上がった分で回収できる計算だ。
身を助けてきてくれたインパクトドライバー。学生にも何度か貸したことがある。そのたびに、その扱いの雑さに憤慨したものだ。人の生活を支えてきた道具をぞんざいに扱う者は信頼感さえ失う。借りた時よりもきれいにして、消耗品であるビットは新品を工具箱に入れて返すのが礼儀というものだ。職人さんのもとで働くと、そうしたマナーは叩き込まれる。下手するとどやされ、なぐられる。近頃は怖い先輩が減ったものだ。
普通あり得ないような折れ方で臨終したインパクトドライバーは私の身代わりになってくれたのかもしれない。この道具でこなしてきたたくさんの仕事、制作、現場が走馬灯のように現れては消える。一生使おうと思って買ったインパクトドライバー。すこし早い寿命だったけど、僕を陰で支えてくれてありがとう。
こえび隊の皆さんのおかげで大島焼の釉薬がけは全て終了して窯詰めまで完了。カフェの内装は大工仕事ははかどらなかったけれど、漆喰塗りの細かい仕上げやトイレ内の装飾が完了。皆さんの協力に感謝!
19:00 三分の一を残し、屋根の工事をいったん終了。日が暮れるまでの作業になった。私が鎚を振るう音が大島全体にこだましていた。その響きは私にとって忘れられないものになった。

大島 ため歳の船長

2010年 5月 28日

4:30 起床。
6:00 始発の地下鉄に乗り、栄町に集合。泉と井木が朝早くからレンタカーを借りに行き、荷物を載せてここまで来てくれている。おつかれさま。
今回の大島行きは初めてのレンタカー。高橋、泉、井木、天野、張の5人でレンタカーに乗り込む。今回はカフェの整備のための資材、什器類を運ぶのが大きな目的なのでレンタカーは商用車バンである。ここ一番という力仕事の時にいつも男子がいない。こうして私の周りの女子たちは逞しくなっていく。
運転を交代しながら高速道路名神、山陽、鳴門を抜けていく。

絶品の肉うどん(大)

12:00 2回の休憩をはさんで約6時間で高松に到着。高松駅近くでうどんをすする。
12:30 とりあえず桟橋に行き、名古屋から積んできた荷物をいったん置く。でないと、これから回収、購入してくる荷物が車に載らない。
ここで二手に別れる。井木は張を連れてそのままレンタカーで今橋に行く。こえび隊の1人から使われなくなった喫茶店のテーブルと椅子をわけてもらうためだ。
13:00 私は泉、天野とレンタカーを借りる。私たちのミッションはホームセンターで注文しておいた資材、木材、波板、ガラスショーケース、タイコ(電線を巻く木製のリール)などを積み込んで桟橋に運ぶ。ここからはまさに秒単位の勝負だ。13:55発の官用船まつかぜに間に合わせて載せなければならない。離島である大島に材料を運ぶには官用船の協力なしでは不可能だ。そのために事前に運ぶ資材、物品等のリストを作り、どのように荷物を回収してくるかをシミュレーションしてきた。
運転はあくまで慎重に。ガラスケースが割れてしまっては意味がないし、事故をしたらもともこうもない。
13:15 ホームセンターで3人で役割分担をして買い出しに走る。
13:30 ホームセンターを出発。
13:40 アンティークショップでガラスケースを積む。荷物が多いため工夫しないと載せきれない。ホームセンターで積んできた資材類をいったんすべて降ろし、積み直す。汗だくだ。
13:50 桟橋近くで信号待ち。桟橋にはまつかぜの船影が見える。無理かー。
13:55 桟橋に入りまつかぜのもとへ。まつかぜのタラップが8割がたあがっている。やはり間に合わなかったか…。
停車。すると跳ね上がりかけていたタラップが降り始めた。「ウィーーン」
降りてきたタラップの向こう側には船長が厳しい表情で立っている。タラップが再度桟橋に架かる。船長を先頭に一斉に官用船の乗組員、作業部の職員らが降りてくる。私たちのレンタカーに群がり、ものすごい手際の良さであっという間に官用船に荷物を積み込んでいく。全く息をつく暇もない。荷物を積み終わり、私は船長にお礼を言おうとしたけれど、踵を返した彼は大きな背中を揺らしながらそのまま乗船してまつかぜは大島に向かった。
新田船長。ありがとう!
大島で泉と天野が荷物を降ろし、カフェ・シヨルまで運ぶ段取りだ。
まつかぜを見送る間もなく、私は空になったレンタカーを運転し、井木たちが荷造りをしている今橋に向かう。おっと、地図を泉からもらうのを忘れた。井木に電話して道を教えてもらう。
14:30 今橋の閉店した喫茶店に着く。大島メンバー井木、AFG高坂さんをはじめこえび隊の方々お二人がガラスのコップ類を梱包中。喫茶店に使われていた椅子はすでにレンタカーに積み終わっている。私が運転してきたレンタカーにはテーブルや食器類を積む。
15:00 2台のレンタカーに荷物をすべて積み込み、喫茶店を出発。

官用船せいしょうを待つ

15:30 高松港の桟橋に着き、荷物をすべてレンタカーから降ろす。井木が運転したレンタカーは明後日まで高松に駐車しておき、また私たちが運転して名古屋に戻る。私は高松で借りたレンタカーを返却しに行く。
次の便が高松発の官用船最終便だ。今回は少しゆとりがあった。船長にお礼を言う時間もとれるだろう。しばし山になった荷物の傍らで体を休める。荷物はパレットに載せておく。最終便の船はせいしょうなのでクレーンで吊ることができる。皆で手運びする必要もない。
16:45 せいしょうが高松に着く。2つのパレットに載った荷物がクレーンに吊られて載せられていく。ここでサポートしてくれたこえび隊の皆さんと別れる。おつかれさま。本当に皆さんのおかげです。
途中、船長が船室から出てきて、「先生、桟橋にはトラックが2台つけてあるので、それに荷物載せて運んでください。」と大島到着後の段取りまでぬかりがない。
17:15 クレーンから直接トラックに荷物を載せる。私は2台のトラックをクレーンのアームが届く範囲に移動する。ここでも船長自ら荷物の積み込みを率先して進めてくれる。庵治に向かう職員さんたちがせいしょうに乗り込む。せいしょうはこのあとも庵治まで人々を運ぶ。私が運転するトラックのバックミラーに出航する官用船せいしょうのシルエットが映る。
今日のミッションはすべて終了。
さすがに全員に疲労感がただよう。食事をつくる元気もない。そこで職員食堂に行くことにした。おばちゃんがご飯を炊いて待ってくれている。野菜炒めを頼んだが、「今日は暑かったし、冷しゃぶにするかね?」と思いもかけずおばちゃんのスペシャルメニューにありつけることになった。ラッキーに次ぐラッキー。
事故もなく、けがもなく終えた一日。ほっと胸をなでおろす。

すっきり あとは現場で

2010年 5月 27日

昨日、大島で準備を進めているGALLERY15の展示に使用する機材が届いた。ほとんどの機材はインターネットやオークションで買いそろえているが、スピーカーだけはオーディオ店で試聴しまくって購入した。今朝、それらを組み上げ、音だしをしてみると…。これはうまくいきそうだ。あとは現場でじっくりとセッティングすればいけるだろう。
10:00 すっきりとした気持ちで出勤。
明日から大島だ。

ふせん はなぜ生まれたか

2010年 5月 25日

授業後、定例のミーティングでやさしい美術プロジェクトのフローを新しいメンバーに説明。それでもなかなか実感がわかないだろう。来週は研究会の様子を録画したものや、NHKで取材を受けたときの映像を皆で鑑賞する予定だ。スタッフ川島の提案で、発達センタちよだのミーティングも定例ミーティング後に続けて行った。すこしでも興味のわいているメンバーがミーティングに参加できるよう配慮した。ミーティングは高橋、スタッフ川島、そして卒業生の浅井。浅井は平成15年、つまりやさしい美術プロジェクトが発足してから2年目からの付き合いだ。彼女はデザイン研究チームの立ち上げから活躍しその大きな成果として、「絵はがきフレーム付きマルチボックス 私の美術館」が実現した。3年以上をかけて病院職員と共同開発に取り組み、病院内のニーズに合わせたデザインを追求した。絵はがきフレームは入院する病院利用者の一番身近にある美術作品となる。

浅井がまとめた発達障害についてのマトリックス

さて、浅井は卒業後就職したが、現在は事情により退職し、教育関係の仕事につくための研究をしている。こうして忙しい合間にミーティングに参加するモチベーションの高さは比類のないものだ。
ミーティングには新しいメンバー3名が加わった。ぜひ子どもたちにも会いたいという。ゆっくりとスタートしたちよだの取り組み。
8:00 学生たちはまだプロジェクトルームに残っているが、卒業生メンバー浅井を連れて大学を出る。通勤ルートに浅井の住まいがあるので、ちょうどよかった。
9:00 子どもたちは起きている。それもそのはず、今日は長男慧地くんの誕生日。昨年と同様にマクロビオテックケーキを作って私が帰るのをいまかいまかと待っていた。背骨がぼきぼきいうぐらいぎゅっと抱きしめる。
慧地、おめでとう!ハニーのところに生まれてきてくれてありがとね。
※私は我が家ではハニーと呼ばれている。

慧地が誰に教わるでもなく発明した”ふせん”

小牧市民病院の取り組み準備

2010年 5月 24日

先週回収した小牧市民病院の職員向けアンケートの集計の取り方をスタッフ川島と相談。定量化する材料にはならないが、今年度、どの部署、どこの場所と協働するのかを判断する材料とする。
一年間あるいは2年間になるかもしれない協働のための根拠が必要である。
アンケートの回答からいかに小牧市民病院が忙しい病院で、アートの取り組みまで気が回らないということがよく伝わってくる。回答だけを読んでいると、病院にアートは必要ではないのでは、とまで思えてくる。500床を越える急性期病院の現実は甘くはない。
私たちは小牧市から助成を受けて活動している。病院利用者に届いて行くアートの試みを行っていくのが私たちの使命なのである。だからこそ、日々相談し、連携していける担当部署の選定は大切だ。

職員から寄せられたアンケートは3分の2の回収率

発達センターちよだ見学 ホットケーキ

2010年 5月 21日

※遅ればせながら5月14日、15日、16日の大島の取り組みを更新しました。どうぞ、ご覧ください。
午前中は実技・学外実習(やさしい美術は課外授業として年間1単位を習得することができる)の書類手続きや大島青松園への連絡、入所者への連絡に追われる。
13:00 私とスタッフ川島、ワークショップメンバーの村田、浅井の4名で発達センターちよだに向かう。新年度をむかえ、まだ子どもたちと会ったことのないメンバーがいるため、まずは顔合わせを兼ねてちよだの取り組みを見学させていただくことにした。
14:00 ちよだに到着。子どもたちが来る時間まで一時間ほどあるので、近くの生協に行きドリンクを買い子どもたちを待つ。
15:00 私以外はピンク色のつなぎに着替える。平成19年の10月から取り組みを始めた時、やさしい美術のメンバーをおぼえてもらうために行ってきた工夫だ。
子どもたちには見学でもワークショップでもどちらでもいいことだ。私たちは構えずに子どもたちと遊ぶ。
遊ぶ子どもたちを見守る藤棚 Kくんは園庭の土場に水を溜め、泥遊びに興じる。全身泥だらけだ。Sくんはひたすら穴堀に集中。Aちゃんはすぐに着替えたかと思ったら、いきなり絵画の取り組みの部屋に行き、画板に貼ってある画用紙に絵の具を塗りたくる。Mちゃんは車椅子でお母さんの手にひかれてやってくる。いつもより人が多いためか、少し緊張気味だ。
おやつの時間ではホットケーキを焼くことになった。自分の食器を持ってくる、ネタをかき混ぜたり、ホットプレートの上で焼く作業を皆で手伝う。子どもたちが積極的に関われるよう雰囲気を作っていく。
Mちゃんは手先の力が入らない。でも、人一倍積極的で自分でやれることを自分でやろうとする。それを皆で見守る。彼女は自分の分のホットケーキをフォークで一口サイズに切っている。とっても時間がかかるけど、途中であきらめたりしない。「はい、どうぞ。」と私に差し出す。「僕にくれるの?ありがとう。」私は手のひらにのったホットケーキをありがたくいただく。ホットケーキのかけらはとっても美しい形をしていた。
気温は30°近くまであがっただろう。子どもたちは絵画の取り組みより外で遊ぶことに夢中だ。画板を園庭に持ち出したり、空き箱の底に画用紙を置き、箱の側面にぶつけながら描くストロークを楽しむ。
毎回ちよだに来て思うのだが、職員さんの細やかな対応に学ぶべきことがたくさんある。きっと日々職員同士でミーティングを重ね、子どもたちそれぞれに何が必要で、どのような声かけをしていくかを綿密に打ち合わせなければできないことだろう。それに加えて送迎にくるご父兄への心配りである。さりげなく最近の子どもたちの様子を聞き出し、今日の取り組みの成果をきちんと見てもらっている。微細な変化、成長を見逃さず、親御さんと分かち合う。
他者と他者が関わる場において何かが響き合うこと。そこに何とも言えない肌合いが自身の中に染み込んでくる。これは実際にそこで経験しなければ分からない感触だ。
17:00 子どもたちのお母さん方が迎えにくる。
18:00 片付けをして職員の皆さんと今日の感想や子どもたちの様子を語り合う。ちよだではこの反省会を「ケース」(ケーススタディー)と呼んでいる。この時間は次回の取り組みにフィードバックするための大切なプロセスだ。
18:30 発達センターちよだを出る。次回の取り組みが楽しみだ。
19:15 本学に到着。片付けと連絡業務を終わらせる。
19:30 本学を出発
20:30 名古屋市昭和区吹上のとあるカフェで井木、泉と待ち合わせる。ほどなくデザイナーの溝田さんがやってくる。定食をがつがつ食べたあと、溝田さんから大島の取り組み{つながりの家}、カフェ・シヨル、GALLERY15のロゴデザインが提案される。すばらしい仕上がりだ。このあとブラッシュアップして6月上旬には完成する予定。お楽しみに!
23:30 帰宅

わかる人にはわかる

2010年 5月 18日

10:00 スタッフ川島と軽く打ち合わせ。
10:30 大島チームの泉がプロジェクトルーム来訪。次回の資材、什器の搬入の段取りをする。それらのワークフローを泉が図にまとめてくれる。
16:00 授業を終えたところである企業の来客がある。産学共同のプログラムを模索中で、わざわざ説明のために本学まで来ていただいた。プロのプレゼンテーションは淀みがなく、ポイントを押さえていてとても理解しやすいものだった。学生にとってはこれだけでも充分刺激的だったろう。私が参考までに昨年度末に発行した「やさしい美術プロジェクト活動報告書平成19年ー21年」をお渡しする。アンケート調査分析のページをご覧になり「こうした定量化の仕事は大変ですが、社会的成果として認めてもらい、継続していくにはとても重要ですね。解析ソフトを駆使し、外部のコンサルティングを入れてしっかり取り組んでおられますね。感心しました。」とうれしいコメントをいただいた。わかる人にはわかる。
17:30 新しく参加するアートプロデュースコース1年次の二人を連れてプロジェクトルームに行く。すでにミーティングは始まっている。今日は平成19年より続けている、絵はがきワークショップの設えのガイダンスと絵はがきの制作を行った。
参加している学生の緊張感がやわらいできた。質問や意見交換も活発になってきている。
プロジェクトルームはいつもメンバーでいっぱいだ。

小牧市民病院 四季色さんぽ道搬出

2010年 5月 17日

5:30 名古屋駅着。高松からの夜行バスを降り、自宅へ。
今回の大島も本当に濃密な日々だった。(後日本ブログにて報告します。)
6:30 帰宅。子どもたちも奥さんも皆起きている。コーヒー一杯クロワッサンを流し込んで、荷物の後片付け。
8:00 出勤。
10:00 スタッフ川島が来たところで軽くミーティングする。大島で出会ったこえび隊の人々、入所者との交流の様子を話す。こえび隊で何度かお手伝いしていただいた方が名古屋にお住まいで、大学にくるかもしれないと話しておく。
11:00 研究室で仕事をしていたら、プロジェクトルームから電話がある。なんと、午前中話していたこえび隊の小坂さんがプロジェクトルームを来訪!昨日まで大島で一緒にギャラリーを掃除していた人が、ここにいるなんて。
なんでも香川から電車で名古屋駅に着き、その脚で中央線に乗り換えて荷物を持ったまま大学まで来てくれたのだ。
小坂さんは社会学が専門の研究者の卵。大雑把には「他者の痛みに共感し、行動につながること」が研究テーマだそうだ。やさしい美術の活動や大島での活動はまさにそのテーマと重なる。これまでに身体、現象学などを研究し、文献を読みあさってきたが、研究に深度を与えるために現場に赴くことを決意し、こえび隊として大島の活動に参加している。私は歴史的文脈、各専門分野からの視点からやさしい美術プロジェクトの活動がひも解かれていくことを恐れない。私たちが進めている社会実践は柔軟性に富み、人の営みのあらゆる側面にも連なる普遍性を帯びていると直感している。活動の形式や領域の位置づけを固定化していないところも私たちの活動の強度だ。やさしい美術プロジェクトは人の素直な情動を受け止め、発展させる要素を多分に持っているのだ。小坂さんのように共鳴してくれる人がいることがとてもうれしい。
四季色さんぽ道の撤去。処置室にも作品を展示している。 16:00 授業を終え、スタッフ川島と小牧市民病院に向かう。今日は約一年間展示し、四季折々のモビールを展開してきた作品「四季色さんぽ道」を搬出する。
17:00 小牧市民病院に到着。総務課の吉田さんに会うと、以前お願いした職員向けアンケートを手渡される。今後このアンケートをもとに今年度の活動を共に進めていく部署を決定していく。
自家用車にみっしりと作品を積み込む 4病棟と言われる4階に行く。小児科病棟ではあるが、子どもさんばかりではない。点滴をした患者さん、手術を終えたばかりの患者さんも多く見かける。胸がきゅんと締めつけられる。小牧市民病院を初めて訪問した頃を思い出す。患者さんの表情やご家族の様子を見て、「何かを始めたい。」と思った。あれから丸6年がすぎた。初動機は失われてはいない。
早速作業にとりかかる。設置には多くの労力を要した。設置後もモビールの入れ替えで何度も当病棟を訪れた。搬出はあっけないものだ。約2時間で搬出完了。その後は作品のコンディションを見回り、アンケートボックスをチェックする。
19:30 作業を終え、小牧市民病院を出発。途中「搬出ラーメン」を食べる。
※搬入、搬出をしたときに食べるラーメンのこと。特に搬入ラーメンの味は格別だ。
20:30 研究室にて明日の授業の打ち合わせ。
22:30 帰宅。

大島 亀の手とゴウヤ

2010年 5月 16日

6:30 起床。朝食は昨日の鳥の胸肉のいためものとご飯を食す。10:00〜14:00が停電と聞いたので、炊飯器にあるお米でおにぎりを作っておく。有に二人分があるが、こえび隊のどなたかに食べていただければよいだろう。
9:00 大島の教会、霊交会に行く。日曜日は必ず神父さんが高松から来て礼拝をするのが習慣だ。その際霊交会の鐘が鳴るのを知っていたので、録音機をセットする。
9:30 録音機を置いたまま、桟橋に行く。5名のこえび隊の方々がやってくる。今回もお二方が初めて大島を訪れる。納骨堂と風の舞の定番コースを歩き、風の舞からGALLERY15(15寮)に向かう。昨日お磨きし、整理した入所者から預かっている「古いもの、捨てられないもの」をこえび隊の皆さんに解説する。お手伝いをしてもらう際ギャラリーとしてどのように使うのかイメージしてもらうことは大切。
12:00 あっという間にお昼だ。野村ハウスに行き昼食。私はうっかりしていて、停電のことをこえび隊の皆さんにお伝えするのを忘れていた。電子レンジが使えない。そこへ青松園職員の大澤さんがやってきて、「発電機、今使ってないから、持ってきたげるよ。」とおっしゃる。いつも大澤さんは絶妙なタイミングだ。ありがたく使わせていただいた。

東條みかんを味わう。

13:00 作業の前に東條さんから許可をいただいたみかんの収穫に行く。すると、農作業をしている大智さんが草刈り機を振り回していたところだった。大智さんと東條さんの威勢のいいかけ声が谷にこだましている。体の芯から元気になってくる声。
14:30 GALLERY15で作業していると入所者の浜口さんがご自身で採ってきた亀の手(と呼ばれる、海鞘

亀の手に見えるね、これは。

の一種)を湯がいて持ってきてくれた。堤防にもたれながら皆で亀の手を食する。なかなか美味だ。ふと堤防の南方を見やると野村さんがいた。私はすぐさま野村さんのところに走り寄ると「ゴウヤの蔓が伸びよるから、支え棒を結わえてほしいんじゃ。」とお願いされる。いや、正確にはお願いされたのではなく、夏中大島に滞在する私たちのために植えていただいたのだ。それと入所者の多くは手が不自由なので結わえたり、雑草を抜く仕事を手伝うととても喜ばれるのだ。「これで、あんたたちはゴウヤを食べる権利はできたのう。」
午後はあまり作業がはかどらなかったけれど、ゆったりとした時間の流れの中で入所者と交流が深まったのはとても良かった。
16:00 GALLERY15の作業を終了し、掃除道具類を片付け、ゴミを処理する。
16:30 高松便最終のまつかぜに乗船。

高松駅には大きなバナーが出現

16:45 高松着。こえび隊の皆さんと別れる。
夜行バスまで時間がある。早めの夕食をとり、アンティークショップに行き、カフェで使える金具類を探す。井木、泉も言っていたが、こうした探し物は真剣に探し始めるとなかなか見つからないものだ。
21:30 着替え、歯磨き、寝る前のヨガでいつでも寝られる体制だ。
22:10 名古屋行きの夜行バスに乗り込む。
おやすみなさいー。