Nobuyuki Takahashi’s blog

2010年 3月のアーカイブ

現代GP終了 スタッフ解散!!

2010年 3月 31日

私の使っているパソコンや周辺機器は4〜6年選手、酷使してきた機材たちは子どもたちの落書き攻撃などを受けてぼろぼろである。とっくにリースが切れているパソコンのデータをバックアップとるために外付けのハードディスクを買いに栄町まで出る。ついでにぶち切れてしまった靴ひもを買い、昼食をすませて大学へ。
13:00 まず、私の担当するアートプロデュースコース研究室に向かう。研究室職員鈴木と日比野准教授の尽力でほぼ研究室の引っ越しは終わっている。私の身がいくつもあれば…と何度思ったことか。大変お二人にはご苦労をかけてしまった。
14:00 プロジェクトルームへ。明日から新スタッフとして働く川島が今日までスタッフを務める4人に囲まれながら引き継ぎの続きを進めている。
15:00 コアメンバーの学生たちが集まりミーティングを始める。新メンバーの募集方法、広報について綿密に打ち合わせる。ポスターとチラシはすでに学内全体にわたって掲示している。張り紙では今のところライバルはいない。
16:00 ミーティングを早々と終わらせ、プロジェクトルームの外に出る。記念撮影だ。ここのところの冷え込みで咲き始めた桜はそのペースを緩めている。桜の前で写真を撮ることにした。撮影大会の後プロジェクトルームに帰ってきたら、サプライズが!学生メンバーがスタッフに花束を用意していたのだ。「おつかれさまでしたっ」リーダー古川のさわやかな声がプロジェクトルームに響く。花束を渡されたスタッフはうれしさとさびしさの両方がおそってきているようだ。
16:30 プロジェクトルームのミーティングテーブルを片付け、お茶会を始める。やさしい美術からおいしい美術に変身!!スタッフがそれぞれ持ち寄った果物やお手製のお菓子を並べ、わいわいと楽しく談笑。数々の伝説を生んだプロジェクトルーム。学生のぼけとスタッフのつっこみは名物のようになった。そのにぎやかさも今日で最後だ。
18:30 研究室に戻り残った仕事をこなしながらコンピュータにのこしてあるデータのバックアップ作業を再開。ところが、すぐにフリーズしてしまい、再起動をしようと試みたが液晶画面は真っ暗のままで起動画面さえでてこない。デジカメで撮影した写真がバックアップが終わっていない。こんなところでまさかのクラッシュだ。
20:00 スタッフをプロジェクトルームから見送る。スタッフ全員で中華料理を食べに行くそうだ。私はぎっしりと残った仕事があるため、プロジェクトルームに残る。クラッシュした私が使用しているパソコンも気にかかる。
しんと静まり返ったプロジェクトルーム。現代GP申請書に盛り込んだことはすべて実現した。イメージできるものは必ず実現できる。しかし、やさしい美術のように多様なかかわり方を受け入れた上で多数の人間がそれぞれの立場でかかわっている活動では自分の思ったとおりには事は運ばない。お互いの研究、制作は全く異なる中で、どこかで気持ちを一つにしなければならない。そうしたときにスタッフはそのバイタリティーと持ち前のキャラクターで雰囲気を作り出してくれた。気持ちの通った活動にはいつもスタッフの姿があった。「乗り越えてきたのは確かだけれど、どうやってこえてきたかおぼえていないなぁ。」
明日から心機一転スタッフがいないプロジェクトルームが新メンバーでみたされることを願って。
みんな、おつかれさまでした

記憶の芯

2010年 3月 28日

大島に生えた雑草

「エターナルサンシャイン」を見た。5回目だろうか。大好きな映画の一本である。
あるカップルが些細な衝突に明け暮れた末、まずは彼女の方が、精神科のクリニックを訪れて彼についてのすべての記憶を消してしまう。昨日まで恋人同士だったはずが、今日から赤の他人になり、それに耐えきれない彼氏が今度は自分の中にある彼女の記憶を消そうとクリニックに依頼するがー。
記憶の中にいるもう1人の自分が、闇の中に崩れ去って行く記憶を噛みしめながら、消したくない輝かしい日々の記憶があることに気づき、消去作業の途中で「記憶の消去」から逃れる決意をする。記憶の中に生きている彼女の手を引いて彼女が知る由もない記憶の場所、心の深層に逃げ込んで行くのだ。
登場する記憶を消すクリニック院長の台詞が印象に残る。「記憶を消去するにはその記憶の地図をつくり、記憶の芯を確実に除去しなければならない。」
私は記憶とはハードディスクに記録された磁気的な情報だとは思わない。すぐに書換えができて、消去も一発クリック。そんな単純なものではないのだ。
雑草を抜くとその根の深さにおどろくことがある。砂礫を縫って有機的に伸びた根。その根にはびっしりと土がまとわりついている。きれいさっぱり根だけを引き抜くことは不可能と言ってよい。
大島に最初訪れた際、触れるもの見るものからは過酷で悲惨な強制隔離を見てとることはできなかった。強いてあげれば私の予備知識が、微々たる感情を揺り動かしたかもしれない。病院の病室はベッドが置かれている基本構成をのぞき、入ってくる者、出て行く者でその度に刷新され、洗い立てのシーツのように漂白される。むろん、そうでなければ病院は成り立たないのだが。
「記憶はあてにならない。」それも一つの見方。
「存在することの意味はその「意味」を取り去っても存在する。」果たしてそうだろうか。私が他の惑星からやってきた宇宙人だったとして、地球上にある事物を初めて見てどのように感じるだろう。制作を通して、「存在すること」の追求は、自ずと「自分が在ること」に突き当たるのは必然だった。「私」という存在とて、大地から引き抜かれた雑草のように土がついているのではないか。他者の記憶にも生き、場所にも記憶される。それが「関わり」の実体なのだ。
ふたたび、大島に話を移す。大島に通い始めてから約2年半、入所者の方々と出会い、人々の記憶に触れ、私自身の記憶の芯を深く手繰っていく作業でもあった。大島で起きていることは私たちにも起きていることである。足助病院、小牧市民病院、十日町病院、発達センターちよだ、そして大島青松園。やさしい美術プロジェクトの活動は記憶の芯をたずねる旅であり、それはこれからも続く。

引き継ぎ バトンをわたす

2010年 3月 26日

9:15 プロジェクトルームに行くとスタッフ泉と4月から次期スタッフを務める川島が掃除をしていた。川島は昨日の卒業式、その後の二次会で寝ていないけれど、心機一転さわやかに掃除をしている。
9:30 ここのところ、スタッフがそろって体調を崩している。せっかく早くから泉と川島がそろっているので、4月頭に行う小牧市民病院でのアンケートについて綿密に打ち合わせておく。
スタッフの気持ちも入っている。自分たちが行ってきた業務を確実に受け渡したい。
引き継ぎは一月ほど新旧のスタッフが一緒に仕事して日々起きてくる業務をその局面ごとにこなして覚えていくのが理想だ。現在いるスタッフが4名(3名/現代GP、1名/小牧市民病院)が一気に1名になる。不安がないわけではないが、状況に合わせて変えていくことは変えて行き、受け継ぐものは自らの振る舞いに叩き込んで行けば良い。幸い川島はリーダーを3年間務めてきた。その経験を忘れず保ち続けて欲しい。
3月31日。現代GP体制の解散は近い…。

卒業式 贈られた花

2010年 3月 25日

今日は卒業式だ。9:00大学着。卒業生の名簿を確認する。私はコースを代表して学生名を呼び点呼する。
式が終わったあとに十日町病院とやさしい家での取り組みで広報チームを担当したでんでんのメンバーたちが記念撮影しましょう、と声をかけてくる。皆、スーツに袴、特に女性はきれいにお化粧をしていてとってもすてき。まぶしい、照れくさい、うれしい、さびしい…。なんかよくわからない感情がふつふつとわき起こる。
コース別の卒業証書の授与を終え、すぐにプロジェクトルームへ。できあがった活動報告書を卒業生たちに渡すためだ。越後妻有アートトリエンナーレ2006に初めて参加した時、彼らは大学一年生。越後妻有アートトリエンナーレの話をしても、そこで展開した活動を語っても全く無反応だったのは、知らないだけでなく、アートやデザインへの関心も薄かった。それが越後妻有アートトリエンナーレ2009では4年生になり、活動を牽引したのである。20歳代前半、成長の伸びしろは限りない。そしてこの年代で経験し、鍛え上げられた感覚は一生忘れない。
夕方から私の受け持つ交流造形・メディア造形コースの謝恩会に招待されたので春日井駅近くの居酒屋に行く。そこで学生から花束を渡され、感激。コメントください、と学生に言われたが、何も言えなかった。学生には日頃の授業、相談の時間で私はできうる限りアドバイスをしてきた。言いたいことは全部言ってきた。それが私の仕事だから。
花って贈られる側に立つと、うれしいもんだね。4年間お疲れさま。ありがとう。
謝恩会会場に行くためスクールバスに乗る

大島見学ツアー 茶色い残像

2010年 3月 24日

7:15 名古屋駅新幹線口に集合。高橋、リーダー古川、陶芸部川田、元スタッフでMorigamiのデザインを手がけた井藤さん、ロゴのデザインをお願いした溝田さん計5名で大島に向かう。泉、井木はすでに前日から大島入りしている。あと一人、卒業生家さんが相生から参加、高松で待ち合わせることになっている。
7:30 あいにくの雨の中新幹線に乗り込む。岡山、高松とも雨。強烈な雨女と自称する泉の仕業か??
11:00 相生から無事に家さんが合流し、総勢6名で官用船まつかぜに乗り込む。
船には社会見学の中学生がぎっしりと乗っている。外は冷たい雨。窓ガラスが曇り、外の風景が臨めない。
11:20 大島に着く。桟橋に入所者の野村さんが見学の中学生を迎えるために待っている。「雨のなか来たか。」と声をかけられる。今日初めて大島を訪れた人々を野村さんに紹介する。
そのままカフェ・シヨル(第二面会人宿泊所)に行くと畑の作業を終えた泉と井木が迎え入れててくれる。雨と冷たい風で体感温度はぐっと低く凍える寒さだ。畑の草抜きをしたというがさぞ寒かっただろう。
一行はカフェ・シヨルにあがり、進行中の計画を説明する。

ろっぽうやき試作と金時人参のケーキ

12:00 野村ハウス(11寮)に行き、昼食をとる。泉が作った「ろっぽうやき」の試作と入所者の大智さんの畑で採れた金時にんじんのケーキをいただく。とってもおいしいが、入所者の皆さんが記憶しているろっぽうやきにどれだけ迫れるかが勝負。20年ほど前に亡くなられたある入所者がお菓子職人だったそうで大島の住人はその方がふるまったろっぽうやきは語り継がれている伝説のお菓子だ。親交の深かった岡山県長島の愛生園の入所者も大島に訪れる際はかならずお土産に持たされたと聞く。今は入所者の記憶にしか残っていない「ろっぽうやき」を復活させることは記憶をかたちにする作品である。泉はろっぽうやきを取材し、再現するのみにとどまらず、ろっぽうやきをめぐるエピソードや人々の暮らし、当時の空気感を作品で表現するプランを構想中だ。
13:00 納骨堂を参拝し、風の舞に足を運ぶ。火葬場近くで公園を整備中の福祉室作業部の皆さんと会う。職員の大澤さんも紺色の合羽着用で作業まっただなかだ。風の舞から西の浜へ。風が身にしみる。止まぬ風が容赦なく吹き付ける。
14:00 自治会事務所に立ち寄る。2月から会長に着任した入所者の山本さん、副会長の大智さんとしばし談笑。畑の作業のこと、ろっぽうやきの味はいまいちだ、泳いできたイノシシの噂がおもしろいだの、猿か何か茶色い残像を見たなど、話題はつきない。初めて大島に来た4人も話の輪に加わり楽しいひとときを過ごした。山本さんには明日の発行に先立ち、できたての「やさしい美術プロジェクト活動報告所平成19年—平成21年」をお渡しする。越後妻有アートトリエンナーレで展開した「やさしい家」で展示した、山本さんの陶芸作品が掲載されているためだ。
14:30 陶芸室に行くと職員の土橋さんが陶芸室で入所者の作品の手直しをしているところだった。私たちが制作したカフェで使用する大島焼も窯詰めがあらかた終わっている。私たちがやらなければならないところをいつもカバーしていただいていて、恐縮してしまう。
15:00 入所者の森さん、野村さん、脇林さん宅に寄り、活動報告書を手渡す。脇林さんは山本さんと同様「やさしい家」で写真作品をDVDに編集した映像作品を上映した。その記録が掲載されている。
15:30 最後にギャラリー15(15寮)に行く。集めた「古いもの、捨てられないもの」を見せて、一つひとつの事物にはり付いて離れない記憶について解説する。
15:45 野村ハウスで荷物をまとめて桟橋へ。
16:00 見学者や訪問客を見送るために野村さん、森さんに私たちも見送られながら大島を出る。
16:30 AFG高坂さんと高松で今後の活動について打ち合わせる。こえび隊の要請についても検討事項がいくつもある。大島に来た来場者をご案内するために研修や勉強会も必要になってくるだろう。大島は確かにほかの島と事情も歴史的背景も異なるため知っておいてもらわなければならないこともたくさんある。
17:30 せっかくなので全員で兵庫町商店街に行きセルフうどんでうどんを食す。私は釜たまうどん。和製カルボナーラだ。茹で立ての麺が最高においしかった。
18:40発マリンライナーで帰路につく。車中私はぐっすり寝てしまったが、初めて大島を訪れた組はかなり熱く語り合ったそうだ。よかった。
19:40 こだまに乗る家さんと別れる。「また絶対大島、行きます。」私たちはのぞみに乗る。
最近、合い言葉は「また、大島に行きたい。」定着しそうだ。

あしたのジョー

2010年 3月 23日

隠された表紙の反射、わかりますか?

やさしい美術プロジェクト活動報告書平成19年—平成21年 の印刷があがり、今日納品された。待ちに待った完成。現時点でベストをつくした記録誌。正確には3月25日の発行である。私たちには活動の終わりを待って報告書を作成するほど予算的な余裕はなかった。補助事業期間内にプロジェクトの総力を結集して作った報告書だ。よくやれたと思う。こういう差し迫ったときに何故かほかの問題も重なり、がんじがらめになる。それぞれの事情でそこに出くわした人々は感情を私にぶつけてくる、私の力の至らなさを詰る。そんな時私は足を踏ん張り、ぐっとこらえて一つひとつ解決していくしかない。特に人の気持ちは思い通りにはならないのだから。
ボクサーは自分がパンチを繰り出すことばかりでなく、パンチを受ける側でもある。未体験の強いパンチをうけることもあるだろう。おのれの体がみしみしと悲鳴をあげるのを聞き、おどろき、おののく。意識が遠のくぎりぎりのラインで持ちこたえることによって、次に同じ強さのパンチを受けても倒れることはなくなると言う。ダメージの大きさはきっと変わらないけれど、体が知っている痛みを「経験している」ことによってそれを冷静に見ることができるという違いなのだろう。鍛えられるというのはこういうことかもしれない。
今日、プロジェクトメンバーを募集するためのチラシを古川、木谷、芳賀が遅くまで作っていた。チラシに目を通しながら、ディスカッションする。作業が終わり帰路、私の自家用車に古川と木谷を乗せて春日井駅まで送る。「4月に入ったら、やさ美男子だけで「男子会」やるかー。」「いいですねー。飲みにいきましょう。やさ美に男子、少ないですからね。」
古川と木谷に新しいメンバーがなかなか集まらなくても気にするな、と話す。「やさしい美術に興味があります。」「福祉に興味があります。やさしい美術いいですね。やってみたいです。」という声はたくさん聞く。学内では知らない人はいないほど認知度も高い。それでも年度当初に説明会を開いても20人中2〜3人程度しかメンバーに定着しない。
それぞれの事情があり、優先順位があるのだろう。参加したくてもできない人もきっといるはずだ。だから、学校が始まる混乱の時期に存在感を知らせておくことが大事だ。人はすぐ忘れるのである。
学内の授業の成果を出すことは学生の義務である。しかし、責任はない。学外に出て社会の中で実践するには社会的な約束が生じる、つまり責任を負うのだ。学生はそのことを良くわかっていると思う。ほとんどの学生がアルバイトを経験し、私たち教員の思っている以上に社会の荒波に揉まれている。社会活動でもあるやさしい美術の活動は学生特有の楽しさ、気楽さからは遠く、垣根が高くて、重すぎるのかもしれない。
現場に行き、実際に実践してみると、「やさしい」という言葉に甘く酔いしれている場合ではない、と気づく。現場では受け入れられないこともあるし、誤解が生じたり、感情のぶつかり合いもある。自分の信念やこだわりを無惨にへし折られることもある。でもそれに耐える強靭な心をつくるなんて私にはできない。
「折れない心を保つのではなくて、心が折れたら折れたでまた自分から立ち上がっていくことのほうが大事じゃないかなぁ。」古川と木谷に語る。
己の強さではなく、もろさ、不甲斐なさを見つめる。みしみしと悲鳴をあげる自分の心をもう1人の自分が見る。謙虚に、そして情熱を持って。

久々のパパ業

2010年 3月 21日

※2月23日(活動報告会前夜)、2月24日(活動報告会)、2月26日(発達センターちよだワークショップ)、2月7日(かんきつ祭2日目)、2月8日(大島住民説明会)、大変遅くなりましたが、ブログアップしました。ご覧ください。

このあと崩壊!!

長男慧地の髪を切る。実はとっても得意なんです、髪切るの。だから自分の髪型は人に切らせるととにかく気に入らなくって、結局坊主かぼうぼうの長髪になってしまう。
子どもたちとジェンガで遊ぶ。大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレ2009に参加し、空き家活用プログラム「やさしい家」を学生とともに運営したのだが、一時期私の家族も滞在した。慧地、美朝ともずいぶんと学生たちのお世話になった。特に「HIMMELI」を制作した岡村は「ジェンガマン」と子どもたちに呼ばれ、なついていた。その想い出のジェンガ、先週私の手元に送られてきた。あの夏の日々を思い出しながらジェンガで勝負!
美朝の右手に注目。メジャーを持って色々なものを測るのがマイブーム。「45センチー」と叫ぶので、「え、二桁の数字わかるんだ。」試しに色々なものを測ってもらう。すべて「43センチ」と「45センチ」うーん、でも正しい気がする。(そう思うのは私だけ??)
岡村さん、工藤さんをはじめ、子どもたちのしつこいお誘いに乗ってくれたみんな、ありがとう。こんなで家族たのしく元気でやってるよ。またいつかジェンガで(いやジェンガじゃなくてもいいけど)いっしょに遊べる日があるといいね。

総仕上げ

2010年 3月 19日

※3月6日〜11日大島焼ワークショップのブログアップしました。ご覧ください。

今年度の活動が終わり、これから文部科学省に提出する報告書の作成、文化庁助成金の報告書に追われる。むしろ私の仕事はこれからが本番。調書と対応した実践報告と学生への教育効果をまとめなければならない。膨大な文章を一気に書き上げていかねば。まだまだ夜が寝られない。
今日1日をかけて今年度支出し、伝票に起票されたものを科目別、使用目的に落とし込んでいく作業をする。活動の全てを見渡しているのは私一人。丁寧に確認しながら進めていく。昨年まではこの作業を平松が行っていた。
今年は現代GP補助事業の最終年度。ぎりぎりまで経費処理の調整は続く。事務所の協力も不可欠だ。
スタッフは活動報告会報告書などの編集に追われている。一時期の猛烈な仕事の量ではないが、3月末まで仕事はきっちりある。
来週にスタッフ総出で近くのお店でランチをすることにした。少しずつクールダウン。

小牧市民病院 活動報告会

2010年 3月 17日

活動報告会の様子

昨日深夜になんとかレジュメのデータを仕上げた。
今日は年度末ごとに開催している小牧市民病院での活動報告会だ。泉も3年間のスタッフ業務の総まとめとなる。
13:30 プロジェクター、スクリーン、PCを車に積んで大学を出発。
14:00 小牧市民病院に到着し、総務課に行くと事務職員の担当者が会場となる8階大会議室まで丁寧に案内いただく。
荷物が多く、テーブル、椅子を並べたりと開場時間まで忙しく準備する。男手が欲しかったところだが、なんとか私と泉で準備できた。
15:00 末永院長が忙しい中かけつけてくれる。「高橋先生の取り組んでおられるこのプロジェクトは全国的に広がっている美術と医療の協働プロジェクトのさきがけですね。これからもお願いしますよ。持続することが大切ですね。」とありがたい声をかけていただいた。
レジュメとスライドを見せながら、今年度の活動、作品を振り返る。昨年度から継続した研究と実践、季節感の創出をはかった作品の提供、アンケート調査の分析結果の発表など40分程度で解説する。
質疑の時間を設けて末永院長をはじめ、様々な現場で仕事をしておられる看護師さん、事務職員さんから意見や感想をいただく。どのご意見も医療従事者として積極的な意志に満ちていて、私も手応えを感じる。
平成16年から続けてきた小牧市民病院での活動も6年が経つ。5年を過ぎたあたりから「継続は力なり」を地でいく地道だが本質的なテーマ(病室の天井の環境整備や中待ち合いや処置室の装飾など)を展開してきた。病院サイドの窓口となっている総務課職員の吉田さんと年度をまたいで進められたことが良い結果を生んだと実感。そして私のパートナーとしてサポートしてきてくれたスタッフ泉の活躍によるところが大きいと思う。
泉さん、3年間おつかれさま。まだ細かい仕事が残っているけれど、小牧市民病院での今年度の事業はこれで幕を閉じる。

絵本のちから

2010年 3月 16日

田島征三作「とべバッタ」は名作

昨日、田島征三さんから絵本が届いた。2月8日(まだ、ブログアップできていませんが…)に北川フラムさんと大島に見えた時に田島さんをご案内したのが縁で「名刺代わりに」送っていただいたのだ。すべてに直筆サインがはいっている。我が家の家宝にしよう。
今日、いくつもいろいろなことが重なり、1日中体のなかを怒りと迷いと恨みがのたうちまわっていた。何も悪くないのに一緒にプロジェクトルームで仕事をしていたスタッフたちに不快な思いをさせたかもしれない…。
仕事はまだたくさんあるが、一足先に自宅に帰ることにする。息子慧地にどうしても今日伝えなければならないことがあった。大島に行ったことのある慧地にもう少し大島のことを説明しなければならなかった。慧地はとてもよく理解していた。
先ほど田島征三さんの「ガオ」という絵本を読んだ。私の中をのたうちまわっているどうにもならない心がすうっとしずかになって行くのを感じた。