Nobuyuki Takahashi’s blog

2009年 12月のアーカイブ

今年最後の日

2009年 12月 31日

昨日久しぶりに小原村のスタジオに行く。荷物をおろすのと大家さんに年末のごあいさつをするためだ。スタジオチキンハウス(鶏小屋を改造してスタジオ兼住まいとしていたので)にはアカスズメバチの巣が4つも残っている。すでに宿主は見当たらない。息子の慧地が興味を持ったので、一つ軒下からはがして持って帰ってきた。
昨日まで、香川県庁や新聞社、瀬戸内国際芸術祭のサポートメンバーや大島青松園の職員さん、自治会長さんと連絡をやり取りする。年末までにまだまだやっておくことがある。
大晦日の今日、午前中は慧地と工作あそびの準備をしたり、美朝と遊ぶ。昨日持って帰ってきた蜂の巣を慧地とじっくり観察する。バスケットボール大の巣は紙のような材質感で積層された外壁で丸く覆われている。その中に何層もの蜂の巣本体がマンション状に並ぶ。緻密にして繊細、このような造形をだれがどのようにオーガナイズしているのだろう。そもそも誰に教わっているのだろう。「生き物は誰にも教えてもらわなくても体で知っていることがあるんだよ。」そう息子に語りつつも私自身、不思議でたまらない。つくづく思うが私が向き合っているこの世界は「どうして?」という質問には一つも答えてくれない。「こうなっている。」という事実のみが眼前に広がっている。
午後は家族全員で大掃除だ。普段あまり掃除しない天井や壁、サッシ、網戸を徹底的に掃除する。
洗い清められた我が家に冬らしい凍てつく風が通り抜ける。

住人のいない巣を観察する。

住人のいない巣を観察する。下の方の小さな穴が内と外の世界をつなぐたった1つの出入り口だ。

小さな世界には私たちが体験できない重力と身体感覚が潜んでいる。

小さな世界には私たちが体験できない重力と身体感覚が潜んでいる。

大島 年末のごあいさつ

2009年 12月 28日

片付けがほぼ終了したSpace+。

片付けがほぼ終了したSpace+。

昨日は終日Space+で片付け作業。大方のものは整理がついた。大荷物が多く、重労働だったが、腰が痛くなるほどではない。夜は奥さんの誕生日会。近所の洋食店に行き、家族全員で食事。ワインをしこたま飲んだが、二日酔いするほどではない。
5:30 起床。奥さんも起きてきてパンを焼き、コーヒーを入れてくれる。外から微かに雨音がする。雨雲によって放射冷却が弱まったせいか冷え込みはなかった。
予定通り7:30ののぞみに乗る。10:25高松着。
船着場に行くと中学生が30〜40名ほど官用船を待っている。人権問題啓発のための社会見学だろう。挨拶がさわやかに飛んでくる。マナーがしっかりと身に付いている生徒さんたちだ。
11:30 大島に着くとさっそく青松園の職員大澤さんに連絡を入れる。ちょうど大澤さんのお昼休みにいっしょに昼食をとることになった。面会人宿泊所を間借りして2人で弁当をほおばる。これから瀬戸内国際芸術祭に向けて、どのように大島を開いて行くかを意見交換する。毎日大島で働いている人が感じる危機感や不安点を聞く。せっかく企画が進んで行ったとしても周りの状況や意識の共有がなければ成り立たない、そこに始まりそこに尽きるのだ。今後私たちが開催するワークショップもまずは足下から。青松園の人々にどのように開いて行くかが私たちの当面の課題である。
昼食後は大澤さんの紹介で入所者の一人に会いに行くことになった。大澤さんが捨てられたものからふと手にした見るからに古い放送劇の脚本。すぐさま大澤さんはその重要性に気づく。その脚本には亡くなられた入所者のお名前が記載されており、ご健在の方の名もあった。そこで大澤さんは面識のある入所者をたずねてお話を聞いたとのこと。
それはおおよそ30年前に現存していた入所者による劇団の脚本だった。放送劇の配役に名を連ねた入所者Aさんに会いに行く。放送劇の録音テープ全17巻をタンスの隅から出してきてくれる。これは大変な発見だ!なんとビデオテープもある。大澤さんの丁寧な説明で瀬戸内国際芸術祭での発表に向けてこれらの超貴重な音声資料一式をAさんからお借りすることができた。テープのすべてをデジタライズして再現することができればと期待は膨らむ。
その後は入所者自治会副会長の野村さん、陶芸室の親方山本さんに会いに行く。野村さんには先月かつおのたたきをごちそうになった時の写真をお渡しする。山本さんはご自宅に見えなかったので、陶芸室に行くとまさに作業中だった。「山本さん!」と声をかけると、ちょっと驚いた表情で振り向いて、その後はにっこり。何も連絡しないで大島に出てきたので少々驚かれたようだ。治療があるとのことだったので少し世間話して陶芸室を後にする。
今日はカメラをいつものように持参してきたが、新しい機材も持ってきた。それは録音機。PCMレコーダーと呼ばれる、小型高機能の録音機だ。先月畑の作業をお手伝いしたとき、入所者の大智さんと東條さんが畑を股に掛けて大声で掛け合いをしているのを目の当たりにして「これは、録音するしかない。」と直感した。音場をきっちり記録〜記憶し、畑が無くなって行ったとしても畑が聞いていた声は記憶することができるのではないか、そう強く感じた。今日は朝の畑仕事には出られなかったので試験的に録音機をまわしてみる。風が強いと、轟音と歪んだ雑音に覆われてしまう。マイク部にカバーをかければ幾分ましなようだ。録音をしていたら、大島メンバーの井木から連絡がある。遅れて着いた井木と合流。自治会室に行き会長の森さんに会いに行く。森さんも突然の来訪で少々驚きながらも「さあ、中に入って。」と自治会室の応接間に通してくれる。井木から2月上旬に行う「かんきつ祭り」の概要を説明し協力を要請する。大智さんほか入所者で畑仕事をしている方は4〜5人と聞いている。手の入った畑はめっきり少なくなってしまったが、今でも野菜や果物が大切に育てられている。柑橘系の果物もそこそこ収穫できることがわかり、柑橘系の果物をジャムやケーキに加工してカフェの一品としてお客さんに食べてもらおうと井木と泉が企画した。まずは「かんきつ祭り」と題して大島の中でワークショップを行いたい、と森さんに相談する。昔は蜜柑のジャムを作っている入所者もいたようだが、最近は食べることがなくなったとおっしゃる森さん。「園内放送をかけて参加を募集かけてもいいよ」とアドバイスをいただく。
15寮の様子を観に行く。掃除はほぼ終わっていて、今後、壁の処理や廊下の工事について井木と打ち合わせる。
来年はいよいよ瀬戸内国際芸術祭の開催年。準備はこれから本格的に始まる。
16:15のせいしょうに乗船して高松へ。風が強く波が高いのでもっと揺れるかと思ったが思いのほかゆったりと船は進む。
高松に着いてから井木と相談して近くのアンティークショップをのぞくことにする。カフェのインテリアのイメージは共有できているが、小物や家具、レジ周りの設えなどは実物を見ながら検討した方が早い。廃校になった学校からの出物だろうか、下駄箱として使われていた、やれた棚や足踏み式のミシン台、使われなくなったミルク缶、波ガラスの収納ボックスなどを2人で物色する。あれも欲しい、これも欲しい…。2人ともイメージが膨らみすぎて暴走気味だ。なんとかはやる気持ちをおさえて高松駅に向かう。いやー、危なかった。もう少しで衝動買いするところだった。
井木と南インド料理のお店に入る。なかなか美味。高松のおいしいものはうどんだけではない。おそるべし、高松。
名古屋までの帰路、断片的に録音したデータをヘッドフォンで聞く。あまりにも高音質で井木もびっくり。
23:45 帰宅。

ギャラリー15寮と愛用のカメラバッグ、ヘッドフォン

ギャラリー15寮と愛用のカメラバッグ、ヘッドフォン

片付けとミーティング

2009年 12月 26日

膨大な数の作品を梱包する。

膨大な数の作品を梱包する。

11:00 Space+に集合。「less was more」展で展示されていた作品の撤去とそれらを韓国に送るために梱包作業をする。+Galleryプロジェクト代表の平松、運営メンバーの冨永、私の3名でさくさく進める。昼食は近くのインド料理屋に行く。ナンがおかわり自由なので、2枚食べてしまう。おなかいっぱいだ。
食後もひたすら梱包作業。作品のパーツ、機材の数が半端でなく多い。
16:30 Space+を出発、瀬戸に向かう。大島での取り組みの計画をこの年末年始の間にまとめておかなければならないので、ミーティングをすることにした。
17:30 瀬戸に着く。泉と井木が先に着いて待ってくれている。待ち合わせの場所から移動してカフェへ。
18:00〜大島ミーティング。食事を軽く済ませたあとはじっくりと話し合う。大島を開いて行くために、必要な準備、カフェの運営の仕方、ギャラリーの展示内容とスケジューリング、瀬戸内国際芸術祭期間中の人の配置などなど…。ここのところ入所者との交流も深まり、それを活かしてどのように外につなげて行くかが課題だ。ゼロからの出発ではない。やさしい美術プロジェクトでやってきた経験が活きてくると思う。
この取り組みは私たちだけでできるものではない。換言すれば私たちだけで実施してはいけない。大島には入所者がいて、施設で働く職員さんがいる。青松園を運営している国、海を隔てながらも香川県が近くにある。大島にはそこに関わる人々のさまざまな念いが折り重なる場所なのだ。私たちやさしい美術プロジェクトは「つながりの家」と題して大島での取り組みを展開する。「つながり」を作るには周辺の人々の念いをひとつにして、協力し合わなければならない。
ミーティングで話し合っていると、前向きなプラン、元気のいい企画がどんどんわき上がってくる。このエネルギーは私たち自身の中からだけではない。この活動を支えてくれている、入所者の皆さん、青松園の職員さん、サポーターのこえび隊、行政の職員さん、取材をしたプレスの皆さんらのおかげだ。
23:00 ミーティング終了。やることはびっくりするほど山盛りだが、なんだか、やれそうな気がする。

プロジェクトルーム 仕事納め

2009年 12月 25日

足助病院の夕焼け。

足助病院の夕焼け。

例年に比べると早い仕事納めだ。大晦日まで病院で搬入していたこともある。28日は足助病院の仕事納めで餅つきをするのだが、私は3回参加している。もちろん、作品搬入があったからだ。
今日は久しぶりに終日プロジェクトルームで仕事する。スタッフ3人がいっしょだ。やはり1日居ると細かい打ち合わせができる。記録誌のこと、活動報告会のこと、プロジェクト情報誌のこと、メンバーの様子(体調とか、制作状況とか)病院との連絡の状況把握…。挙げれば切りがない。
新聞社からのインタビュー、妻有の記録誌を手がけるデザイン事務所からの問い合わせ、統計学ワークショップの相談などがある。スタッフにも業者などからたくさんの問い合わせがある。にわかに師走の空気がプロジェクトルームにたちこめてきた。
今月予定してたが家族のインフルエンザ罹患で大島に行けなかったので、全快を機に28日に急遽行くことに決めた。日帰りにしたのは、記録誌の準備、大島の計画、原稿の校正などに追われていて、仕事をしなければならないからだ。
猛烈な勢いで時間が過ぎて行く。プロジェクトルームは今日でしばらくお休み。

クリスマスイブ

2009年 12月 24日

教授会が終わり、大学を出る。
21:00 自宅に着く。と、子どもたちは歯磨き中。「早く寝ないとサンタさんが来てくれない。」と焦りを隠せない慧地くん。
そりゃそうだ、サンタさんがプレゼント置くすきをつくってあげなきゃね。
なんとか皆が寝る前に着けてよかった。
この季節外を歩いていると電飾で家を飾っている風景が目白押しだ。我が家の電飾は屋内。なんで外に飾るのか意味わからんし。

我が家は落書きもOKなのです。

我が家は落書きもOKなのです。

統計学(アンケート調査)ワークショップ

2009年 12月 22日

統計学ワークショップの様子

統計学ワークショップの様子

9:15 プロジェクトルームに向かうとすでに泉、赤塚が準備作業をしている。今日は名古屋大学から川口潤教授と北神慎司准教授を招き、アンケート調査の分析方法や分析結果の編集などのコンサルティングをお願いしている。
足助病院、十日町病院、小牧市民病院から1600件以上のアンケートを集めた。それらを病院、性別、年齢層、外来、病棟、外来職員、病棟職員などの属性に分けてエクセルデータに打ち込んである。今日はそれらデータの分析方法を検討し、分析結果の読み取り方などにアドバイスをいただく。
ここで、この統計学ワークショップの経緯をまとめておきたい。
やさしい美術プロジェクト創設時より約6年間足助病院と小牧市民病院で断片的なアンケートを行ってきた。足助では患者さんに直接お話を伺う機会を得ることができ、作品に関する感想ややさしい美術の取り組みが院内に浸透しているかを探るアンケートを行った。小牧では各作品の傍らにアンケートボックスを設け、作品への感想と取り組みに関する所感を自由記述で集めてきた。「断片的」と言ったのは、これまでとってきたアンケートは作り手側が「ダイレクトに自分たちの取り組みについて意見を募る」という目的のほかは、統計的に、定量的に捉えられなかったことに他ならない。私たちの取り組みは一般的に見られるコミッションワークのように依頼ー制作ー設置で完結するものではない。むしろそれぞれの作品や企画が着地点を見たと同時にそこを出発点に次の取り組みに向かっていく。言わば着地点のない営みを繰り返し刷新しながらそこに居る人々の意識を変化させ、また作り手側も現場と密接な関わりを持って変化して行く、そんな取り組みなのだ。創設から5年ほど経った頃から、私は取り組みを継続をしていくための何か基準、指標になるものが必要だと感じるようになった。病院内で協働している病院職員の皆さんは院内のアート・デザインの取り組みの有用性を実感しているけれど、それを裏づける根拠(エビデンス)はどこにもなかった。一言でまとめれば「アートは病院に必要か。」という問いに私たちは答えられるのか、ということである。
平成19年10月から始まった現代GP選定事業に選定され、すぐさま私は「病院でアート・デザインの取り組みを行うことにより、人々の意識にどのような変化があり、心の動きが見られるのか。」ということを定量的に示すことのできるアンケートを実現したいと考えた。しかもそのアンケートは継続的に実施可能で、地域、特性の異なる病院でも統一したフォーマットで調査し様々な属性に照らし合わせて感性的な傾向を比較することのできるアンケートをめざしていた。大きな目標を掲げたものの到底私の手には負えず、名古屋大学の茂登山清文教授を介して心理学の専門家である川口先生と北神先生に「統計学コンサルティング」を依頼し、年に2〜3回のワークショップを行ってきた、というのが一連の経緯である。
今日のワークショップはアンケートの実施方法が決定し、実際に調査を敢行し、その調査結果のデータを文字通り「分析」するクライマックスを迎えた。
つぎつぎの明るみになる分析結果。私たちが予測していたこともあるが、全く予測していなかったことも次々にあぶり出されて行くー。
この分析結果は2月24日(水)13:00〜開催する活動報告会にて発表する。もちろん、現代GP選定事業として最終年度を迎え、年度末に発行予定の記録誌に詳細を掲載する予定だ。学会での発表も視野に入れて行きたい。
お楽しみに!

デザインの間の特徴的な天井

デザインの間の特徴的な天井

午後は3年次の授業の一環で、「デザインの間」ディスプレイプロジェクトの新メンバーで名古屋市千種区星ヶ丘にある「デザインの間」に見学に行く。館長の計らいでアテンダントスタッフが丁寧にガイドしていただいた。前回のプロジェクトに参加していた1人を含む4人の有志のモチベーションがぐぐっとあがる。

16:30 大学に戻ってくる。必要書類の作成、様々なプロジェクトの準備、膨大なメールの返信、コースカリキュラムの作成、シラバスの作成、非常勤講師の方々の授業依頼に追われる。
昨日同様2:00帰宅。

小牧市民病院 協働することとは

2009年 12月 21日

毎日時間を見つけて仕事をこなしていたわりには、仕事がどっさりたまっている。大学に着くと学生からじゃんじゃん制作や課題について相談がある。なんでも力に任せてやってしまう悪い癖が出て、学生が持参した機材を壊してしまう。本当にごめんなさい。
夕方、学生の相談から解放(?)されて17:00プロジェクトルームに行くと、プロジェクトルームでは明日の統計学ワークショップの準備、資料整理で大わらわだ。僕がいないあいだもスタッフたちがしっかり取り組んでくれている。GPの恩恵は私の分身=スタッフ(失礼!)が周囲に気を配り、病院にまで配慮が行き届くことだ。ほんとうに助かっている。

5点展示したうちの2点

5点展示したうちの2点

私は川島と小牧市民病院に向かう。私が制作した写真作品「light」を設置するためだ。ディレクターの私が制作にかかっていてはいけないのだが。以前小牧市民病院へ搬入を約束していたアーティストが年度中に完成できないと言って来た。小牧市民病院とは委託契約を結んでおり、契約違反だ。困ったすえに私が作り貯めてきた写真作品を急遽展示することになったのが、実のところこの写真作品を展示するはじまりだった。
今回展示した写真の多くは私が飛び回って撮って来た写真で、妻有、大島、佐久島、自宅など私の日常の一場面を切り取ったものだ。
展示場所の食堂に行き、まずは梱包を解いて壁に沿って仮置をしてみる。川島も的確に意見をくれる。配置が決まり、展示用のワイヤーを壁面に掛けて行く。高さの調整、作品同士の間合いも大切だ。最後のところは定規ではかるのではなく、目見当で決定する。それが一番正しい。ちょうど展示作業をしているとき、小児科外来の看護師さんが食事をとりながら私たちの作業の様子を見ていた。私が軽く挨拶をすると「作品の配置や並び順も検討して展示するんですね。」と感心される。私たちにとってみれば当たり前のことが病院で働く人々には新鮮に映ることもある。

花環と背骨のリングが交互に提がる商店街での作品展開 ※撮影:怡土鉄男

花環と背骨のリングが交互に提がる商店街での作品展開 ※撮影:怡土鉄男

もう15年ほど前だが瀬戸市の商店街のアーケードに作品を展示したことがあった。人の背骨(型取りした模型)を環にした作品をアーケードに提げるプランを提案し、瀬戸市から助成金をもらって展示したものだ。展示作業は商店街の若い衆が総力を挙げて手伝ってくれた。すべて展示が終了したかにみえた夕暮れのことだ。私は全体を見渡し、すべて展示の配置を変更することを決めた。このときの若い衆の空気はすごかった。私への懐疑心と怒り、疲れによるいらだち、終わらせたい威圧感で相当に重い空気が立ちこめた。その時の私の心境は(独りでも、やるって言ったら やる。)「最後まで付き合って下さい!!」半分の人は帰って行ったが、後の半分はしぶしぶ私の指示に従って作業を再開。ぜったい妥協しなかった。アーティストの制作を着地させるのは、その人本人にしかできないこと。折り合いを付けていてはぜったいダメ。
なぜだろう。作業の後半に入って手伝ってくれる人たちの息が私と同調するようになって来た。私が思ったことが細かく言わなくても伝わるのだ。私の臨場感が他の人々に乗り移って行ったのである。
こうして作品は完成した。その日の夜、お疲れさまを兼ねて打ち上げの飲み会を商店街の皆さんが開いてくれた。
宴の席での酔っぱらいの会話。
商)「俺、正直途中で高橋さんタコ殴りにしようかと思いましたよ。」
商)「なんかね、こいつ、ぶっつぶしてもぜったい立ち上がってくる。それが伝わって来たんで。手伝うしかないでしょう。」
商)「でもね、仕上がった作品見て、これは、こうとしかありえないってのが、なんかわかったんだよね!」
商)「そうそう、俺もわかった!高橋さん、あと3センチ右、とか下に2センチ、とか言うでしょ、どうでもいいじゃねーかと思ってたんだけど。でもやってみると、ここじゃなければだめってのが、なんかわかった。」
商)「俺は、正直言って、ここまでやってくれるとは思わなかった。こんなぼろい商店街のためにさ。仕上がった時はほんと、うれしかったよ。」
協働という言葉をまだ知らなかった時だ。
当時、短い人生でそんなにたくさんできる経験じゃないな。と思っていたけど、やさしい美術の活動をやっていると日常茶飯事になってくる。なんか、体の芯から元気が出てくるんだよっ!

大学に戻ってまだ一仕事ある。川島を誘って、搬入ラーメンをすする。
※搬入ラーメン:搬入後に食べるラーメンのこと。スタッフ泉が名付ける。

子どものこととなると

2009年 12月 19日

昨日の夕方、ちょっとしたパニックだった。
娘美朝が大量の鼻血と激しい嘔吐で倒れた。
救急車を呼ぼうとなぜか110番してしまう。
奥さんに「救急車は114番でしょ??」と言われ、さらにパニック。(正しくは119番です。)
血まみれの我が子を抱きかかえ、近くの病院時間外窓口に駆け込む。
窓口のお兄さんがもたもたしているので、あからさまにいらつく。(きちんと冷静に対応してもらいました。)
救急の処置室前に待っている間に美朝がぐったりしてきたので、慌てて看護師さんに気持ちをぶつける。
ドクターがきて「お父さん、大丈夫です。落ち着いて下さいね。」とぴしゃりと言われてようやく落ち着く。
自分自身、いろいろな体験をしてきているが、3歳の我が子のこととなると、自分のもろさにびっくり。私以外全員インフルにかかって、我が家はここのところどんよりしていて、気持ちがマイナスに働いたのかもしれない。いずれにしてもこういう時こそ、どっしりと構えなければ、と反省。
幸い血液検査を見る限り、美朝は特に異常は認められなかった。入院もせず今は我が家ですやすや寝ている。
皆さん、ご心配なく!

あなどれない インフル

2009年 12月 17日

連日の沈む話題で申し訳ないです。
今日でインフル日記を終わりにしたい。
1週間熱が続くと言われ半信半疑だったが、我が家の元気な子どもたちがお昼の一時期は小康状態にはなるけれど、熱はすぐにあがる。おまけに奥さんも罹患…。最後の砦が私ということになった。家族全滅は阻止したいのだけれど、子どもたちがどれほど言って聞かせてもマスクをすぐにとってしまい、部屋中にくしゃみと咳で菌をまき散らす。
見てろよ、奥さんから教えてもらったヨガとキラさんからもらったジンセンで吹き飛ばしてやっからな。

せめて慧地の絵で元気を出そう

せめて慧地の絵で元気を出そう

じっとしていられない

2009年 12月 16日

奥さんにもいつも言われるのだが、ほんとにじっとしていられない性格だ。子どもたちの様子を見て午前中仕事、お昼近くは子どもたちが寝ていたので台所の掃除を始める。そうしたら、もう止まらないー。冷蔵庫に手が伸びた時点でやっと我にかえる。
午後は奥さんが用事で出かけたので子どもたちといっしょに過ごす。子どもたちのインフルエンザの症状が薬の影響からか、熱が上がったり下がったりを繰り返す。特に美朝は熱が高いので、座薬で熱を下げる。今日かかって来た電話は10本以上、かけた電話も同じぐらい。
寝静まった今も子どもたちの熱が心配だ。どうも、奥さんもかかってしまったかも。私だけはなんとかインフルを振り切らねば。