Nobuyuki Takahashi’s blog

2011年 12月のアーカイブ

瑠璃色の和舟発掘 境界のない世界

2011年 12月 17日

大島で暮らす入所者の皆さんからたくさんのお話を聞いた。その多くは同じ人間とは到底思えない扱いを受けたことの辛さ、情けなさ、怒りだった。でも海に出た時の話は違っていた。いきいきと語り、饒舌になるのだ。厳しい生活のためとはいえ、釣りや貝獲りのわくわくした感じ。箱眼鏡をくわえて銛でたこを突いた話。引潮時に漁に出て、満ち潮時にはぷかぷか浮いて海流に乗って帰ってきた話。今も大事に育てている盆栽の松は大島の岩場にあったものも多いが、近くの兜島へと舟を漕ぎ、素性のいい松を採ってきたというお話。
そう、海にまつわるお話は明るい話題が多いのだ。「海には境界がないからな。」とおっしゃる。大島内でも職員と患者のエリアは「有毒線」によって分け隔てられていた時代があった。官用船の船室も職員用と患者用が分けられていた。唯一海だけは、海にいる時だけは一切の分け隔てもなく、自由にいられたのだという。
入所者の皆さんから海の思い出を聞くと私の心も踊る。ぴちぴちとした新鮮な日々、陰のない光に満ちた空間をありありと想像できるのだ。
なんとはなしに舟小屋に和舟があるぞ、というお話を幾人かの入所者から伝え聞いていた。すでにご高齢のこともあり、舟で海に出る入所者はいない。舟小屋も荒れ放題だ。私のような者がたずねない限り、入所者の皆さんの頭から海は離れてしまっているように思う。だからこそ、私はこの瑠璃色の和舟、島内唯一遺る木造船を掘り起こし、明るみに出したかった。
掘り出す私の意識は昨年の解剖台引き上げと展示の時とそれほど変わらない。でも、この瑠璃色の和舟は多くの入所者に喜びを持って迎えられ、たくさんの記憶が想起されるのではと思う。
とても美しい舟だ。コールタールをよく吸い込んだ舟底が砂の中から現れた時はそのあまりにも艶かしい手触りに驚嘆した。「この舟、まだ生きてる。」そんな言葉が自然と口からこぼれた。





手描きっていいね 七ヶ浜町仮設店舗オープン

2011年 12月 11日

12月11日
宮城県七ヶ浜町の仮設店舗「七の市商店街」がオープンした。
オープンセレモニーが行われ、豚汁の炊き出しがあり、餅つきでのふるまい、ソーラン節の踊りなどが披露された。500人ぐらいの来場があったとのこと。にぎわい、はなやぎの場。今後の仮設店舗の成功を多くの人が願っている。
私はハンセン病療養所大島にて島で唯一残された木造船の発掘作業や定例検討会のディレクションに追われていたので失礼してしまったのだが、オープンセレモニーにはスタッフ林をはじめ、表札作り以来仮設店舗のワークショップに携わってきたメンバーら5名が現地に駆けつけた。
セレモニーでは完成した看板が燦々と光を浴びていたのはもちろんだが、惜しくも選定されなかった他のデザイン原画も仮設店舗壁面に展示され、多くの人々が心を寄せながら作られた看板であることが表現されていた。
しかし、この短い期間でよくできたものだ。この看板には表に現れない多くの人々の手の間を通ってきた。主役であるデザイン画を制作した被災地域の住民たちやボランティアは言うまでもなく、土台の木を黙々と製材した大工さんやデザイン原画からパスデータを作成したデザイナーたち、吊り看板のデザインと配色をしたメンバーたち、トレース作業をかってでてくれた人々、設置作業をお手伝いしたボランティア、まだまだこの欄には足らない多くの人々の支えがあってできた看板たち。本当に皆さんお疲れさまでした。そしてありがとうございました。
仮設店舗はオープンしたばかり。今度はいいお客さんとして見守って行こうと思う。私は後日、ゆっくりと現地を訪れる予定だ。




ひかりはがき たった一日だけの断念

2011年 12月 3日

このところ毎日「ひかりはがき」が全国からやさしい美術プロジェクトのもとに届いている。一枚ずつ切手を貼って送られたもの、複数枚封書にまとめて送られてくるもの、様々である。
私が絵はがきを描きはじめたのは3月11日の翌々日。はじめたもののそれらのはがきのほとんどは破いてしまって手もとにない。思い立った本人がこの体たらくだ。災害に遭われた人々に向けて絵はがきを描くことはとんでもなく難しい。批判されるまでもなかった。もう一つ自分に厳しく課したことがある。それは「自分は災害に遭われた方々を前にして、このはがきを手渡しできるだろうか。」という問いかけだった。「手渡し」は個々の心の内にある被災者と向き合ってはがきを描くために絶対に必要だった。
本格的に手描きの絵はがきを募集し、被災地域で手渡しする活動は3月18日に立ち上げた。後になって私はこの取り組みを「ひかりはがき」と名付けた。
震災直後の加熱した空気の中で批判と疑問の声にもまれ、肝心な「ひかりはがき」は遅々として集まらない。絵はがきのブースキットを設置してもポストにはお菓子の紙くずや落書きが放り込まれるしまつ、せっかくそろえた画材は心ない人に盗られてしまった。
私はほとほと疲れてしまい、4月11日とうとう「ひかりはがき」の取り組みを断念した。震災から一月のこと。もともと私がはじめたことだ、原点にもどり1人で「ひかりはがき」を描き、被災地域へ手渡しに行こうと心に決めた。
しかし、どうしたことか、集めるのを止めてしまったその日からぽつりぽつりと「ひかりはがき」が私のもとに寄せられはじめた。ブースキットでも少ないけれど絵はがきを描く人の姿を見るようになった。卒業生からも送られてきた。実はスタッフの林治徳が陰ながら丁寧に声をかけてくれていたのだ。寡黙にそれぞれが何を表現するかを考え、悩み、ようやくかたちになりはじめた、それに一月かかったということだろう。

4月12日、「ひかりはがき」を再開。
今振り返ると自分の気持ちの弱さが恥ずかしい。私は当初自分に近しいところではなく、自分からできるだけ遠くのところに大きく響く取り組みであってほしい、そうでなければ意味がないと強く思い込んでいた。つまりは自分の足下が視界に入っていなかったのだ。最初から大きく広がった波紋などあるはずがない。自分自身を広大な水面(みなも)に投げ込み、その一点からしか波紋は広がらないではないか。そんな単純明快なことが見えていなかった。私が悶々と苦しんでいる傍らで大きな声もあげず、よりそって悩んでくれていた一番身近な人々が「ひかりはがき」の最初の賛同者となったのである。
今ここで書いたことは「ひかりはがき」の取り組み前夜のこと。この取り組みがいったい何だったのかの検証や批評は別の機会に譲り、今は当時の葛藤を語っておきたいと思った。
「ひかりはがき」の波紋はゆっくりと、そして確実に大きく広がりつつある。今や基点など知らなくとも、「ひかりはがき」は描くことができる。でもその一石を投じた時の念いを一瞬垣間みることはこれから描き継がれる「ひかりはがき」の新鮮さを保つのに無駄ではないだろう。
「ひかりはがき」は「行動」だ。私の言う「行動」とは、例えば大切な人を看取る時に誰しも手をにぎる、あの瞬間のことである。