Nobuyuki Takahashi’s blog

2008年 8月のアーカイブ

シンポジウム 主旨文(転載)

2008年 8月 30日

11月29日(土)に同朋学園成徳館12階ホールにてシンポジウムを行なう。その骨子となる主旨文をそのまま転載する。
現代GPシンポジウム
やさしい美術 ―いのちの現場で育まれるアート・デザイン―
【主旨】
病院とアート・デザイン。一見重ならない領域の協働が今注目を集めている。病院は「医療施設」であるが、もはや「医療のみの施設」ではない。病院は地域とのつながりの中にあり、人が出会い集う場所である。病院は人々にとってなお特殊な場所であっても、そこには人のいのちの営みがすべてと言っていいほどつまっているのだ。こうした視点に立つと、「病院は地域に開かれているべきだ」「安らぐ空間であってほしい」という社会的要請はごく自然な声と捉えることができる。

一方、こうした場所でのアート・デザインの活動は歴史が浅く、社会的な位置付けが成されていない。関与していく手法も確立されていないのが実情である。それはアート・デザインが医療の現場で必要とされる科学的根拠(エビデンス)が強く求められ、大きなムーブメントに発展しにくい事情もある。とはいえ、医療に携わる人々から「アーティスト・デザイナーにもっと医療の現場に関わって欲しい」という要望が少なからずあるのも事実だ。

繰り返すが医療の現場とアート・デザインとの接点は少ないというのが一般的である。それは何故か。その問いは「アートとは何か デザインとは何か」という本質的な問いに還ってくる。
本シンポジウムの目的は、医療とアート・デザインとの関わりを様々なまなざしで捉え、アート・デザインという創造をいのちの営みと丁寧に重ね合わせること、そして日本の現代社会という広大なフィールドから、その存在意義を掬い取ってくることである。

第一部では「やさしい美術」プロジェクトの実践報告を糸口に、基調講演にはアートマネージメントの専門家である林容子氏を迎え、社会情勢や制度の異なる海外のアートプロジェクトや医療現場での取組みを参照しながら、日本で始まったばかりの医療現場とアーティスト・デザイナーとの協働の意義を問う。

第二部では、林容子氏に加えて、医療人類学から小林昌廣氏、生命倫理学から田代俊孝氏、医療の現場から足助病院院長の早川富博氏 各専門諸氏を招き、パネルディスカッションを行なう。医療とアート・デザインのコラボレーションを多角的な視点で立体的に捉えることを試みる。
(取組担当者)

プロジェクトらしい一日

2008年 8月 29日

13:00 プロジェクト教育研究委員会をひらく。当委員会はやさしい美術プロジェクトが全学的にそして組織的に取組むために設置した。事務の各部署、デザイン系、美術系、講義系の教員が集まる。プロジェクト活動は多彩な能力が連携し、それぞれの役割が際立ち協調しながら成果をあげていくのが特徴である。その場合に専門性が必要に応じて学生に獲得されていかねばならない。その際の相談窓口は当然の事、分岐している専門分野や工房に学生の相談をつなぐことが必須となる。そこでプロジェクト教育研究委員会が間をとりもつ。個人の取組みや作品、ワーキングチームによる取組み、円滑な運営に関する取組みなど、多層的に評価していくが、その際の評価委員会の人選やコーディネートも当委員会の大きな役割となっている。ここにきてシンポジウムの構成も固まりつつあり、会場設営から一般公開まで、文字通り全学的に組織立てていかねばならない局面。当委員会はシンポジウムの実行委員会もかねているので、詳細はここで徹底的に検討する。事務職も教員も積極的に発言する。それぞれの立場や視野が異なるうえ、参考になる意見がたくさんある。こうした活発な議論があるのは、皆さんがそれだけ真剣に取組んでいるという証だ。この緊張感は頼もしい。
気がつけば15:30会議終了。あわただしく打ち合わせた後、小牧市民病院へ。今日は小牧市民病院で展示している作品のメンテナンスを予定している。作品のひとつひとつのほこりを払い、丁寧に設置し直す。作品そのものも鮮度が蘇り、空間のシャープさも復活する。絶えず作品の入れ替えや設置、搬入、搬出を繰り返す私たちの活動にはなくてはならない営みの一つである。
メンテナンスを終了して撤収。おなかがすいたので帰り道にラーメン屋による。ラーメンをすすりながら今日の仕事をふりかえる。現場での仕事は夜9時10時なることは普通で、明け方の3時4時になることもしばしば。でも、なぜか、現場では皆元気で目の輝きは増すばかり、超ハイテンションだ。うまくいかないこともいっぱい。それをそこでなんとかする。リーダーの川島はこれを「現場力」と名付けた。的確。

モデリング

2008年 8月 27日

彫刻の世界では彫塑、塑像、肉付けする立体造形手法をモデリングと呼ぶ。私は浪人生のころ、自宅の近くに住んでいた彫刻家 原裕治氏から「モデリング」を教わった。朝5時前には原氏の自宅兼アトリエのある宅地造成地に行く。私はひたすら造成地のデッサンを描いていた。その後原家の飼い犬の散歩を終わらせるころ、原氏は制作にとりかかる。日中はほとんど彼の作品制作のお手伝いをするのが日課だった。日が沈みかける頃、原氏から時間をもらい、石膏像を造成地のど真ん中に置き、猛スピードでデッサンする。そう、日中は石膏像は白浮きしてしまい、とても描き留められるようなものではない。何度か試みたが紫外線で目が真っ赤になるのがおちだ。だが、夕方のまどろみのそのひとときだけ、かたちがはっきりと目の前に立ち現れてくる。ギリシャ彫刻の多くは石切り場から切り出された大理石を白日のもとに石工たちが鑿をふるったに違いない。その時間帯にほんの少しだけ、石工たちが見ていた日差しが感じられる気がするのだ。石膏像はアトリエの中の蛍光灯の光で見るのではなく、外に置き自然光で見るべきだろう。
私は木材や石材の中から形態を掘り出していくカービングよりも、何も無いところから肉付けしていくモデリングが好きだった。私は粘土によるモデリングで友人の首像制作に一気にのめり込んでいくー。そこにあるべきでない手前の一掴みの粘土を的確に取り出し、背後のあるべき場所に、その「量」を置く。手前と奥、下と上の対応に沿ってモデリングを繰り返していくと首像の表面をつかさどる 螺旋(らせん) のダイナミズムが現れて来る。対象の奥にひそむ別の法則をみつけるような高揚感がそこにはあった。
この二日三日、プロジェクトの様々な必要書類の作成に追われている。無理もない、シンポジウム、トリエンナーレの計画、空家プロジェクトの段取り、足助病院、小牧市民病院への対応、すべて同時並行で進んでいるのだ。
それらの書類作成はここを削ったり、あるところを盛り込んだりで、これもまさにモデリングだ。美しい書類というものもやはり存在する。
原裕治氏が亡くなってもうすぐ1年が経つ。あの人はモデリングの達人だった。

空家リサーチ

2008年 8月 25日

昨日24日から25日にかけて、一泊で新潟県十日町市に行く。
来年に開催される大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレでやさしい美術プロジェクトは十日町病院との協働で活動する事が決まっている。空家をサテライトスペースとして活用して病院での取組みを知らせ、トリエンナーレ来場者と地域住民、病院とが連携するプログラムを計画している。空家を探しているところで、急遽空家の家主さんとお会いできることになったので、十日町に向かった。
新幹線に乗っている間は大雨だったが、現地は曇りで時々霧雨が降る程度。家主さんとはその空家でお会いする予定だ。少し時間があるので、病院周辺を歩き、空家周辺も歩き回る。霧雨で潤った草花が美しい。ここ妻有で目にするグリーンは濃厚だ。何が違うのだろう、光?葉緑体の強さ?
空家の前で待っていると、家主さんらしき人がやってきて鍵を開けて窓を開けている。仲介役のアートフロントギャラリー柳本さんはまだ着いていないが、ぼーっと見ている訳にいかず、さきに挨拶する。ご挨拶までに名古屋のお菓子をお渡しすると緊張がとけて少しだけなごむ。ほどなくして柳本さんがやってきて仕切り直し。今回の経緯を家主さんに説明する。家主さんは親子でこの大地の芸術祭を支える「こへび隊」と呼ばれるボランティアスタッフである。トリエンナーレへの理解は深く、私たちの活動の内容をすぐ理解してもらえた。この空家の歴史を少しだけ語っていただいた。今はほとんど遺っていないが空家のすぐ近くには桜並木があった。家主さんが嫁いだ30〜40年前は地場産業だった着物の染め工場がたくさんあり、それはそれは活気があったそうだ。
この空家にはたくさんの荷物がある。家主さんや家主さんのご親戚、亡くなられたご親戚の荷物が未整理に積みおいてあるのだ。私は、小原村での経験があり、家主さんの家に対する感情をなんとなく察して、相談しながら整理整頓をしてゆきましょう、と声をかけた。冬の雪掘りはこの空家関してはプロにお願いしているとのこと。私たち素人ではとても無理だそうだ。かわりに現在お住まいのお宅の方をお手伝いしていくことにする。
次回トリエンナーレに向けてこの空家をお借りすることになりそうだ。これから正式な手続きをふむため、空家活用の詳細はあらためて報告する事にする。
家主さんに現在のお住まいを案内していただく。古くはないが、昔ながらの軸組で作られた町家である。欅をふんだんに使っていて、建具も装飾が施されている。聞けば、ここは着物の商談をまとめる部屋だったとか。トリエンナーレに訪れた人で宿がなくて困っている人や泊まるお金のない学生さんを幾度となく泊めたというお話をきく。家主さんのオープンなお人柄がしのばれるエピソードだ。また、すてきな出会いがあったことが本当にうれしい。
その晩はいつものホテルしみずに一泊。夜は妻有に来た時の行きつけの居酒屋「遊らく」へ。ここのタコの唐揚げは絶品。串は炭火で香ばしくうまい。
25日はプロジェクトの大事なミーティングがあり、予定を入れないようにしていたが、スタッフやベテランメンバーに任せる事にする。私は十日町から東京に出て、ハンセン病の関連、児童書の関連のリサーチをしてきた。また日をあらためて書く事にする。

発達センターちよだ 夏祭り

2008年 8月 23日

恐竜/高橋慧地

恐竜/高橋慧地

今日は午後に家族で名古屋市の中心街栄町に行く。息子が書道展に初出品で賞をいただいているからだ。私の母は私が生まれた年に師範をとり、長年自宅で書道教室を開いてきた。母は最近、子どもを教えなくなったが、孫は特別。
作品はなんと「恐竜」(8月15日「耐久戦」参照)。親ばかといわれようがなんだろうが、かっちょいい!しびれるぜぃ!
その後、やさしい美術プロジェクトが活動している発達センターちよだに行く。ここで私たちは月に一回障害のある学齢の子どもたちに造形ワークショップを開いている。今日は夏祭りということでやさしい美術プロジェクトもボランティアで「絵はがきワークショップ」で参加しているのだ。今回のワークショップの運営はプロジェクトメンバーにすべて委ね、私は家族で楽しむ事にしている。
17:00 お祭りがスタート。絵はがきワークショップも始める。発達センターちよだの職員と周辺地域の人々が力を合わせて活気のあるお祭りだ。通園している子どもたち、卒園した子どもたち、その親御さん皆が一体になって楽しんでいる。焼き鳥を食べ、太鼓や合唱などの出し物を鑑賞し、心行くまでお祭りを楽しんだ。花火があがらなくても、屋台がなくても、楽しいものは楽しい。絵はがきワークショップも盛況で、たくさんの絵はがきを集めた。集まった絵はがきは足助病院の各病室に設置されているマルチボックス絵はがきフレームに届けられる。
発達センターちよだと私たちやさしい美術プロジェクトの距離が、また近くなった。

発達センターちよだでのワークショップ

発達センターちよだでのワークショップ

シンポジウム準備 その2

2008年 8月 22日

昨日に引き続き、シンポジウムの準備について。
スタッフの伊東と自家用車を走らせて大垣の情報科学芸術大学院大学(IAMAS)へ。
14:00 医療人類学者で同大学教授の小林昌廣氏と会う。小林さんはシンポジウムのパネラーとしてお招きする事が決まっている。この日私は小林さんと初対面であったが、全くそんな気はしない。相手に気を使わせない気さくな人柄にひきこまれる。小林さんを知る経緯は、伊東が学生時代に小林さんのレクチャーを豊田市美術館で聞いたことにはじまる。伊東は当時創設時のプロジェクトでリーダーを務めていた。それが7年後にはシンポジウムにお招きすることになるとは想像もできなかった。基調講演をお願いしている、アートマネージメントアドバイザー林容子さんも私たちにとっては憧れの人である。こうした機会に恵まれた事に感謝している。
小林さんの著作「病い論の現在形」を読む。医学にまつわる身体、病い、生命について、文学から哲学、宇宙論などの広大なフィールドを飛び石のように渡り歩き、ひも解いている。私は私自身の事でもある自分のいのち、身体というものをこのように立体的に観るまなざしに初めてふれた。
前日にお会いした田代さんから、そして小林さんにも、「横断的な視点が提示できたらいいですね。」との心強いお言葉をいただく。
パネルディスカッションのパネラーには足助病院院長の早川富博さんもお招きする事になっている。足助病院はやさしい美術プロジェクトを最初に受け入れてくれた病院で、いまもなお、協働を継続し、交流を深めている。私たちにとっては「原点」である。11月29日(土)のシンポジウム、乞うご期待。

シンポジウム準備

2008年 8月 21日

11:00 スタッフの伊東と二人で同朋大学に向かう。シンポジウムのパネラーをお願いした田代俊孝教授に会いにいくためだ。
まず、シンポジウムについて。やさしい美術プロジェクトは平成19年度に文部科学省現代GPに採択され、申請書の事業計画にはシンポジウムの開催を盛り込んでいる。やさしい美術の取組みは医療、福祉、美術、デザインなどのいくつかの領域にまたがり、社会や地域との連携も深い。こうした定型化しがたく、いまだ社会的に 位置付けがされない活動は、これからどのような可能性を切り拓いていくか。様々な視点で考察し、議論していく機会がこのシンポジウムの目的である。昨年より、基調講演者やパネルディスカッションのパネラーを探すリサーチを重ね、ようやく人選が決まった。田代先生は先月にパネラーの一人として出席していただくことを承諾いただいたのだ。
あらためて田代先生にパネラーをお引き受けいただいたお礼とシンポジウムのねらいをお話しする。田代先生はホスピスでのカウンセリング、真宗学(親鸞上人の教え)をもとにしたデスエドゥケーションや生命倫理に長年とりくんでおられる。「死そして生を考える」というテーマには重さとそして前向きさが同居した響きを感じる。
「がんになったらがんのまま死んでゆく。」「人のいのちは長ければ良い、とだれがきめたのですか。人の一生の長さは誰も決める事ができないのです。」という田代先生の言葉が印象にのこる。「宗教の力は本来、お守りなどの神頼みには本質はありません。病気になったら病気である自分が気付ける事に気付き、人生の儚さとすばらしさをありがたくいただく。そうした価値観の転換が宗教の力です。」
では、医療の現場には今、何が必要なのか。美術と宗教には重なるところが多いと直感した。
シンポジウムでのディスカッションを楽しみに。

入賞 おめでとう!

2008年 8月 19日

はなのはなし/泉麻衣子/新潟県立十日町病院にて

はなのはなし/泉麻衣子/新潟県立十日町病院にて

泉麻衣子がASYAAF(asia student & young artists art fair)に参加し入賞者7名の一人に選出された。
泉はやさしい美術プロジェクトに1年生から参加し、卒業後はスタッフ兼アーティストとしてプロジェクトを支えている。
もう少しASYAAFについて説明しよう。
ASYAAFとは世界11ヶ国105の大学で選抜された学生及び若手作家 777名、約1500作品を一挙に展示するマンモス展覧会で、朝鮮日報社と文化体育観光部主催のもと、8月6日から同月17日までの間、韓国ソウル市のソウル駅旧駅舎内で開催された。
規模と多様性で前例を見ない今回のASYAAFに対して、留学中の作家を含めた韓国、日本、台湾、シンガポール、インドなどアジア5ヶ国の若い画家達に加えて、アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、オ ランダ、 ニュージーランドなど欧米6ヶ国、総勢2050名がポートフォリオによる厳正な事前審査を受け、選ばれた有望な現代美術作家らが洋画、東洋画、彫刻、 メディアアートなど幅広いジャンルの作品を一同に発表した。
泉は立ち居振る舞いに現れるアーティストらしさ、エキセントリックな強さを見せつけるアーティストではない。むしろ、静かに佇み、話口調はふんわりと柔らかく、おとなしいタイプである。でも、あなどってはいけない。彼女の空間に向ける眼差しは誰もがおいそれと届くようなものではない。無味乾燥な病院の空間にもわずかな壁に遺る痕跡、時間とともに変化する光、柱にある凹みや配線のダクトなど、コミットする微細なきっかけを見逃さない。その微々たる空間の調子をうまく利用して泉は作品をつくる。ある時は自作の一輪の花が空間の色調に変化を与え、ある時は空間との関わりを人々の関わりまでに拡張し、ワークショップに発展させる。一点に没入するのでなく、どこまでも浸透していく表現なのだ。
アートフェアの参加は泉の制作姿勢からすれば困難が伴っていたと思う。泉の作品はそこに空間が在ってこそ成り立つインスタレーションなので、作品本体を品物として扱うアートフェアには明らかに向かない。本人が現地に行けず展示作業を現地スタッフに託すため、苦労して展示指示書を作成していた。そうした指示書でアーティストの意図する世界観を伝えなければ、作品は本来の魅力を発揮できないであろう。今回の展示を直接観た者によれば、比較的良いコンディションで展示されていたようだ。
ASYAAFの入賞者3名に贈られるのはビエンナーレツアーだ。500万ウォンの賞金でシドニービエンナーレ、光州ビエンナーレ、上海ビエンナーレ、シンガポールビエンナーレ、横浜トリエンナーレのうち3ヶ所を選び2週間程度のツアーを光州ビエンナーレのオフィスが手配してくれている。
泉さん、おめでとう!ツアーを何処に行くかきっと迷うだろうけれど、いい経験になると思うよ。気をつけていってらっしゃい!

元サッカー小僧 集結

2008年 8月 18日

昨日は高校時代のサッカー部OB会に出席してきた。
二十数年前、グランドで一緒に汗を流した先輩、後輩、同級生が集まった。高校生当時、練習が厳しくて有名だった道家さんにサッカーを教えてもらっていた。道家さんはグランパスエイトのコーチに、後輩には同チームの選手になったものもいる。
13:00に母校グランドに集まり、17:00までボールを追いかける。当時やんちゃだった高校生は今は40過ぎのちょい悪おやじ。変わらずの毒舌が飛び交う。知らない人が見てたら、柄の悪いおっさんが喧嘩してるようにしか見えないだろう。皆、足がもつれるほどへとへとになりながらも終始笑顔が絶えない。
その後、場所を変えて宴会。お互いの近況報告や仕事の事などを話す。大手保険会社に勤めている先輩、独立してプロダクションを率いている社長、大工の棟梁をしている同級生、循環器系の医者をしている者…職業は皆ばらばら。共通点は、ばかみたいに体動かして、ボールを蹴るのが大好きだということ。
医者をしている同級生が、私が高校卒業後、美術の世界で作品発表や企画などをしているのを見て、「何を気楽な事やってるんだ。」と当時は思ってみていたらしい。好き勝手な事をやっているのが、うらやましいという感情もあったそうだ。好き勝手に見えただろうけど、正直、私は10年ほど前まではOB会に出られなかった。宴会に行くお金さえ工面するのが難しかったのだ。アルバイトで稼いだお金は生活費と作品の材料代で消えていったから。その同級生は「でも、今は美術とか芸術ってすばらしいと思う。」と話してくれた。
サッカー部にいた別の同級生が自分の子どもの事を話してくれた。彼の息子は小学6年生で自閉症とのこと。2歳の頃に障害が判明し、その時は混乱と不安で奥さんは毎日泣いていたそうだ。今は障害者や障害者の親のコミュニティーに積極的に参加し、様々なお手伝いをしているとのこと。私からはやさしい美術プロジェクトで発達センターちよだで造形ワークショップをしているという話をした。二人で一致したこと。「子どもたちの笑顔は、最高にかわいい!」

呼吸するフレーム1

2008年 8月 17日

私たちの活動は1つの枠組みではもはや捉えることはできない。だからといって「なんでもあり」ということではないと私は考えている。自分の制作や取組みが何をベースに展開しているかは常に自ら問い続けなければならない。その指標の1つとして自分の専門分野がある。
私は現代美術のアーティストである。その専門は彫刻である。極端に聞こえてしまうかもしれないが、私の感覚ではコミュニケーションも造形と捉えている。日本で一般的に彫刻と認識されている、実材を用いた造形表現は、物質感として自分にはね返って来る探求のかたちだ。たとえ、物理的なやりとりでなくとも、実材と深く関わった経験は活きているというのが私の持論である。
「関わる」ということは「関わろうとする主体」と「関わる対象」の双方が変化することだ。自分自身を含めてすべての物事が固定的だとするとコミュニケーションは生まれない。お互いが重なり合う場所がないコミュニケーションはコミュニケーションではないと思う。
彫刻に取組み始めたときは、自分の意図やイメージ、造形的センスに忠実に実材を造形することを目指した。技術の問題か。ビジョンの不明確さなのか。厳密になれば厳密になるほど、実材は思うようにかたちになってくれない。試行錯誤して掘り続けた木彫はすべて木っ端になることもしばしばだった。造形するとはひとつひとつの行為の可能性の枝葉を見極めながら選びとっていく作業でもある。その道は険しく、アスリートが自らの身体をモニターし、完成度を高めていくのと似ていると思う。自然素材を制作者のおもむくまま単なる素材として扱ったならば、私は永遠に素材を破壊しつづけたことだろう。素材の方からこちらに語りかけてくることがあると気付いたとき、私の中の「造形」がぐっとひろがりを持ち始めたのを覚えている。自分の感じ方、自分の考え方、自分の世界観。それらは常に外部との接触にさらされ、呼吸している。換言すれば呼吸とはつながりのことである。
やさしい美術のプロジェクトメンバーは様々な美術分野、デザイン分野の有志で運営されている。病院と言う現場を得て、それぞれの専門性が必要に迫られて高められていく。一方で専門性を横断し、時にはグループワークで企画されるものが生まれている。
プロジェクトは様々な能力が呼吸し、やわらかに関わりあう。