Nobuyuki Takahashi’s blog

2011年 1月のアーカイブ

きれいごとではすまされない

2011年 1月 27日

「やさしい美術」という名称は、血の通った体温を感じ、人と人とがかかわり合うやわらかな空気感を伝えてくれる。その点では誤ったネーミングだとは思わないし、後悔はしていない。それどころか今ではその意味を問い続ける自らに課した刻印のように感じることさえある。しかしその甘美な響きの裏で、取り組む学生たちに葛藤の日々が待ちうけている。
私はいつも学生といっしょに病院に行き、そこで感じたことや向き合ったことから始めよう、と呼びかけている。ともかく彼ら彼女らが始めたことはすべて受け入れたい。でもそれは「なにをやってもいいよ。」と放任することとは異なる。各々の制作過程に立ち会い、悩みに付き添い、搬入まで見届けるのが私の仕事だ。制作過程で学生は様々な障壁を経験する。普段は隅において見向きもしないこと、できればその場から逃げたくなること、無意識下に葬り、浮かび上がってほしくないことと対峙することになるのだ。
病院に行き、病室をまわり、入院患者さんにお話をきく。時に出会った人から「生」への渇望が伝わってくる。また時にはその人に迫る「死」を感じることもある。目と目を合わせることでその向こうにある過酷な状況が自分の側に浸透してくる。現場で感得することのなんと多いことか。「病院」という薄っぺらな固定観念は現場で書き換えられていく。消毒液のにおい、汚物のにおい、絶えることを予感する呼気の臭気…。施されたガーゼにうっすらと血液と軟膏が滲んでいる、数々の点滴で青く固くなっている皮膚、のどからしぼりだされるかすれた声、長期の療養で暗く淀む歯間…。
この時点で「福祉に興味があるんです。」「人の笑顔をつくりたい。」「楽しみを与えたい。」「癒してあげたい。」とその場をとりつくろってきたきれいな言葉たちは根こそぎ吹き飛んでしまう。「アートで人を癒す」なんてとんでもない―。そんなこと誰が言えようか。自身でしかと握りしめてきたはずの念いははぎ取られ、丸裸になった自分がそこにいる。
自分のこれまで培った経験と感性を総動員して病院で時間を過ごす人々と接する。そこにいる人々に自分自身を重ね合わせる。重ね合わせるまででなくともその人の身になってその人の目線で周りを見渡してみる。それはどう感じられるか、どう見えるのか。
とても整理がつかない感覚の塊を携えて病院を後にする。「私に何ができるのだろう。」自己の深部に降りてゆき、そこで現れては消える声にじっと耳を傾ける。
向き合いたくないことに向き合うとは、どういうことか。
それは例えば、自分の肉体は他者と同じように脆く傷つきやすいということ。例えば、人生の歩みの先には病があり、死があるという現実。毎日を楽しく過ごしたい。でも遠く追いやっても蓋をして隠しても死は確実に、誰にも等しく訪れる。
もっと些末なことにもぶつかる。手間がかかって大変そうだ。プロセスが多くて面倒だ。自分のピュアな表現なんだから誰かに介入されたくない。課題を提出するのに目一杯でそんな余裕なんかない。好きな時に好きなことを自由に表現していたい―。
アートへの信頼感と対決することもあるだろう。「アートだから、人を癒す力がある。」「アートは活力を与えるから病院に展示しても良い。」
本当か。
それでいいのか。
悩んで当然だ。
そもそもこうした問いに真剣に向き合ったことがあるか、と言いたい。
見たくもない自分の一面を見る。己の弱さ、身勝手さ、汚らわしさに嘔吐する。むき出しの感情が自身の中で争いせめぎあう。無力感に苛まれ立ち上がれない。お前がやってきた表現って何なんだ。お前が作品と呼んでいるものに何ができる。今目の前にいる人に さあお前は何をするんだ―。

そこが出発点だ。

やさしい美術の実態はどろどろの活動なのである。

もう一歩踏み込む

2011年 1月 23日

私はフィルムで写真を撮っているので、写真の出来映えを見るのには現像を待たなければならない。写真はとある現像所に郵送し、現像済みのフィルムとスキャンデータを返送してもらっている。
最近撮った写真をチェックする。現像を待つ間に撮影当時の意識が冷め、客観的になる。フィルム写真ならではの楽しみの一つと言ってよいだろう。じっくりと一枚一枚の写真を吟味する。すると自分自身のその時のまなざしがよみがえる。
私は大島に行くたびに、少しずつではあるが入所者の皆さんを写真に撮っている。「ハンセン病回復者の今」を切り取るというよりは、そこで暮らす人々、仲良くなったおじいちゃんおばあちゃんを撮っているという感覚である。思い返せば3年前初めてカメラを持って大島に入った時はそんなではなかった。大島でカメラを持って歩いているだけで、撮りたいという自分の欲求と撮ることが何になるんだと問い返す自分が葛藤した。「それでも写真に撮りたい、撮っておきたい。」という気持ちの歩みがこの3年間の写真にのこされている。
一瞬の躊躇がある。ぐっと踏みとどまりさらにもう一歩前に出て皆さんの姿を写真に撮りたいのだが。撮りたいという欲求を被写体である入所者の皆さんの前にさらけ出しているようでその迷いが拭いきれない。そんなことでは踏み込んだ写真は撮れない。いっそのこと撮らなければ大島に来ていることの身の潔白を証明できるじゃないか。否そんなところで立ち止まってはいけないんだ。ではなぜ撮るのか。撮らなければならないのか。私が踏み込めない一歩についてずっと考えている。その一歩は物理的な距離ではない。私と大島の人々との間柄の深度かもしれない。土足であがり突き破るのは私にはできない。扉をノックし、玄関で挨拶し、お部屋にあげてもらってお話をしながらゆっくりと近づく。すると初めて気づくお互いの感情の質感と温度。
私の撮る写真はまだそこまでたどり着けていない。

臨床するアート 東京セッション

2011年 1月 19日

アーツ千代田3331の外観

この日、アーツ千代田3331にあるエイブルアートスタジオにて「臨床するアート」東京セッションで講演を行った。コーディネーターは慶応義塾大学のグローバルセキュリティー研究所/教養研究センター特別研究講師の坂倉杏介さん。
全6回行われるセッションの初日を仰せつかり、約1時間の実践報告とその後の1時間で参加者の皆さんとディスカッションした。
まず驚いたのは、参加者の皆さんの関心の深さだ。発表をしている間にも会場全体からまなざしがまっすぐ自分に向かってくるのがわかる。参加者の多くは医療関係者や医療福祉の現場と密接に関わる様々な仕事をされている人々だ。募集人数が満たされ参加募集は早々と閉め切られたそうだが、それほど人が集まるのは、ひとえにエイブル・アート・ジャパン、たんぽぽの家のネットワークの広さ故だ。そこでお話しする機会をいただいたこと、大変光栄である。
そして印象に残ったのは、参加者の皆さんから本質を射抜く鋭い質問が寄せられたことだ。それは私が発表の時間の関係上、割愛した教育プログラムとしての運営についてや、運営資金についてなど、つまりはこの質疑応答によって私が補わなくてはならないところが引き出されたかたちだ。また、すでに私と同じように現場と連携して発展的に活動している者が抱える共通課題、たとえば医療福祉にアートデザインが存在する根拠はあるのか、地域や運営形態の異なる全国に散見される取り組みが一つのムーブメントになりうるのか、またその活動のうねりが社会にどのような影響を与え、制度上の変革にまで至ることがあるのか、そうした疑問や質問の声があがった。どの課題も今すぐに解決できるものではないが、その問題意識が共有できることがなによりも意味がある。そうか、なるほど。今回のセッションのねらいの一つが見えた気がした。
2時間のセッション終了後も多くの方々が会場に残り、私に話しかけてくださった。2009年新潟県立十日町病院の傍らで運営した「やさしい家」に来ていただいた方もいた。私が取り組んできたことが人々の心に少しずつだけれど何かをとどめている、その臨場感に満たされた。できればそのまま二次会に行き、車座になってとことんディスカッションするというのもありじゃないかなとさえ思った。きっと会場にみえた皆さんも同感じゃないかな。
お集まりいただいた皆さん、ありがとうございました!

会場となったエイブルアートスタジオの片隅に置かれた使い込まれた筆や絵の具たち

講演、フォーラム登壇の予定

2011年 1月 18日

ご報告が遅れて申し訳ありません。いくつか外でお話しする機会をいただきました。取り組みを多くの方に知ってもらうのはとてもありがたいことです。会場には様々な活動をされている方も見えると思いますので、そうした方々と意見交換、情報交換ができること、とても楽しみです。

明日東京でお話をします。すでに予約が満席で申し込みは閉め切られましたので、こちらはお知らせまで。
日時: 2011年1月19日(水)19:00〜21:00
会場:エイブルアート・スタジオ(アーツ千代田3331 地下1階
定員:40名(※すでに定員に達したため受付を閉め切らせていただいております)
主催:財団法人たんぽぽの家
協力:アートミーツケア学会、エイブル・アート・ジャパン
平成22年度文化庁芸術団体人材育成支援事業

全6回の東京でのセッションで初回でお話しさせていただきます。
詳しくは下記アドレスでご確認ください。

http://popo.or.jp/info/2011/03/post-32.html

第1回 1月19日(水)
開かれた病院を創出する―アートとデザインの力
「患者、家族、そして働く人にとって、病院という空間、コミュニティはどうあるべきか。医療の現場で、一人ひとりがその人らしく生きるために、美術やデザインは何ができるのか。さらには、美術系大学が地域の課題にどう取り組むことができるのか、そのマネジメントについても考える。」

高橋伸行
名古屋造形大学アートプロデュースコース准教授、やさしい美術プロジェクトディレクター。病院や発達障害支援センター等へのアートの導入に取り組む。2010年には瀬戸内芸術祭の一環として、ハンセン病の療養所に滞在し展覧会を実施。

今後も2月23日に高松、3月5日に福岡、3月12日に横浜でお話しする機会をいただいています。詳細は後日当ホームページにてお知らせします。

うねり

2011年 1月 16日

7:00 島内放送では、朝一便の官用船は出るが、それ以降は欠航になる可能性もあるとのことだった。天候も気にかけなければならないが、やはりわざわざ大島に足を伸ばしてくれた一般来場者への対応に集中しなければならない。高松側にいるこえびネットワークの笹川さんと電話で連絡を取り合いながら、対応策をその都度立てる。
海上へ出なくとも大島の桟橋で風の強さ、シケの激しさは十分体感できる。海全体が沸騰しているかのように大きくうねる。波頭は白く、そこをさらに風が煽り霧吹き状に拡散する。海上の視界を阻むのは霧ではなく、この噴霧状の海水が宙を舞っているからだろう。それでも数名の一般来場者が大島にやってくる。心配されたが終日船がとまることはなかった。こえび隊でガイドやカフェスタッフを担当した皆さんが旦那さんをつれてきてくれたり、友達と連れ立ってきてくれたりと、親密なネットワークで「大島ファン」を増やしている。そしてほとんどの方がリピーターになり複数回大島を訪ねてくれる。そんななか、芸術祭終了後のカフェの役割はますます重要になってきている。寒い季節柄室内で落ち着く場所が求められるのは当然だが、単に落ち着くというにとどまらず、大島を味わうことができる要素がふんだんに用意されていることにある。冬の食材は入所者がつくった野菜。それらの魅力を余すことなく活かす。その創意工夫が訪れる人々をなごませる。今回の一般公開日ののちには「出張シヨル」と題して第二面会人宿泊所=カフェ・シヨルから離れ、大島会館で入所者と職員を招く。そうした開かれた姿勢が人々の心を動かしている。カフェを運営している井木、泉の二人は一切合切を心から楽しんでいる。それがカフェ空間の穏やかさに拍車をかける。
外ではあいかわらずとめどなく風が吹く。激しい海のうねりとは対照的にカフェ・シヨルの店内は「凪」である。

16:15 こえび隊の藤井さんと高松行きの官用船まつかぜに乗船、名古屋へ向かう。桟橋から見ていた海が実際に漕ぎ出てみるとずっと激しいことを実感する。船首が波を切るたびにしぶきが視界を覆う。海岸から見えていたうねりは実は末端であり、そのいくつかを束ねたもう一段階大きなうねりに包括されている。船はこの大きなうねりにはなす術もなく、辛うじて末端の波を切って進むのだ。この様子をながめながら、スタジオジブリ製作の「崖の上のポニョ」の1シーンを思い出していた。嵐の海のシーンが今目の前に繰り広げられる情景を忠実に描写しているのだ。どんなに大きな船もうねりには身を任すほかない。かの映像では船は木の葉のように儚かった。世界有数の内海である瀬戸内にこんな荒ぶれた一面があるなんて思いもしなかった。
高松について間もなく奥さんからメールが届く。「名古屋は吹雪いているよ。」これを聞きつけ、夜行バスを断念する。バスは運行しているようだが、雪のため高速道路が寸断される可能性が高い。予約を解除して電車で帰ることにする。岡山までは順調だったが、新幹線のダイヤは大幅に乱れている。下りが1時間30分ほど遅れがでているのは理解できる。京都―米原間でのろのろ運転。しかし私が乗るのぼりも1時間の遅れが出ている。こちらはマシントラブルのようだ。ホームは長蛇の列。満席のうえ廊下も隙間なく人と荷物で埋め尽くされている。京都―米原間は雪でさらに遅れる。結局1時間30分遅れで名古屋着。なんとか地下鉄の最終に間に合う。

床の音

2011年 1月 15日

一般公開日。朝からすでに風が強い。大島の季節風は抑揚がほとんど感じられない。途切れることなく吹きすさぶ風は私たちの体温をいとも簡単に奪う。ガイドを担当するこえび隊の皆さんと一般来場者数名が朝の便(9:10高松発)でやってくる。船が相当揺れたようだ。いまのところ船は出ているが、午後になるとさらに風が強くなるという。
11:20 人権啓発課の方々が大島を来訪。納骨堂でご焼香をすませ、カフェ・シヨルでお話しする。大島青松園は入所者の生活を充実するに加え、ハンセン病についての啓蒙という社会的役割も担っている。そのため高松市の職員のなかでも大島では人権啓発課の方々をお見受けすることが多い。私たちの活動にも注目していただいている。ご質問がいくつかあったので私はそれに答えつつ今後の活動方針についても概略をお話しした。私たちの取り組み{つながりの家}は一部の人に限られるのではなく、周辺地域の市民ネットワークで支援していく形体こそがのぞましい。なぜならば大島で暮らす人々への偏見と差別が直接的におよんだのは周辺地域からであっただろうし、その障壁は足下から取り除かれなければならないからだ。その意味では瀬戸内芸術祭の舞台が一翼を担ったことは疑いない。ここ一年を振り返って私が接した限りではただ静観するというのではなく、様々な動きが互いに連携し、影響を与え合う機運が育まれつつある。
カフェ・シヨルで野村さんとお茶する。NHKの取材陣が朝から大島入りしており、入所者に気遣いながらそっと撮影を進めている。
せっかくなのでろっぽうやきを所望する。
木のフォークでろっぽうやきを二つに割ってみる。その質感はほっこりとしっとりの中間と言ったら良いか。口に含んでもべたつかず、抑制の利いた甘みがかえってあずきの豆本来の風味を立体的に引き立てる。一方きつね色の「皮」はその風味をうまくパッケージしている。皮の味はほとんど主張しないのだが、気がつけばあんこの風味を後押しして甘みの余韻を醸し出す。私は芸術祭期間中数回ろっぽうやきを食したが、その度に食感、風味どれひとつとっても確実に深化している。野村さんもろっぽうやきをほおばる。一息おいて「うまいの。」 野村さんのコメントに一同表情がやわらぐ。ろっぽうやきは人々の心を解きほぐす力がある。殊にここ大島では。
午後は何人かの入所者に会いに行き、お話を伺おうと予定していた。自治会長山本さんが編成した資料収集委員(資料を収集し、社会交流会感構想の準備をする委員会)の方々に意見をお聞きしたいと思っていたからだ。入所者森川さん宅に電話し、お話を伺うことになった。
引き戸を軽くノックすると森川さんの声。森川さんは6畳間の半分ほどをしめる介護用ベッドに腰掛けていた。私に座布団をすすめ、私たち二人は床に腰を下ろした。森川さんの手と足はハンセン病の後遺症のため感覚が全くない。足は下垂足(麻痺のため足先が伸びてしまうこと)が進んでいるため、補装具によって足の角度を保持している。補装具が床をとん、とんと突く音が部屋に響く。資料収集委員は自治会の規程にあるものではなく、山本会長の判断によって臨時に組織されたものだ。私は可能であれば資料収集委員の皆さんのお手伝いをしながら、やもすれば廃棄されてしまう資料的価値から漏れる様々な事物を収集しようと考えている。それは昨年の芸術祭で行った「古いもの捨てられないもの」展の延長線上にある。私がお手伝いできることがあるのか、連携しながらできることの可能性を探るため意見をうかがっておきたかった。森川さんの記憶力は健在だ。何を尋ねても年号と出来事の照合が瞬時に導きだされる。森川さんの頭の中に大島ではトップランクの歴史年表が納まっている。
自治会長が森さんに代替わりすることで、資料収集委員は一度解散するという。森さんがどのような方針をたてられるのか、まずは見守ることになりそうだ。
13:25の官用船でこえび隊、一般来場者、人権啓発課の皆さんが一斉に高松に帰ることになった。夕方の便が欠航する線が濃厚となってきたためだ。
井木は所用のため夕方の庵治便で名古屋に向かう。
17:00 野村さん夫妻が野村ハウスにやってくる。今日は野村ハウスで鍋をすることになった。ネギ、白菜はもちろん野村さんが育てたものだ。白菜は芯近くまで虫が食っている。つまりそれだけ美味いということだ。春美さんのお知り合いから送られてきた蟹の爪も食べることになり食卓を豪華に彩る。
蟹のだしが白菜の甘さを引き立てる。野村さんの育てた白菜の糖度が潜在的に高いことは言うまでもない。私、泉、野村宏さん、春美さん、4人が一つの鍋を囲み舌鼓をうつ。ここが、ハンセン病の療養所であることをわすれてしまいそうだ。ゆったりとした時間が流れる。
20:00 話は尽きなかったが、そろそろお開きとする。野村さんご夫妻が席を立ち玄関に向かうその時、床がとん、とん、と響く。春美さんの右足に括りつけられた補装具が静かに、床を打つ。私はその響きを足裏に感じながら今、自分が大島にいる、という実感に引き戻される。玄関の外に出てお二人を見送る。野村ハウス=11寮の軒先まで出て野村さんは振り返り様、こうおっしゃる。
「また、やろうな。」
「鍋は恒例でやりましょう!」
鍋でほてったほおを凍てつくような海風がなでていく。

大島 季節風

2011年 1月 14日

11:00の官用船まつかぜに乗船。新田船長から「日曜日はまちがいなくシケだよ。天野さん、(大島に)来れんかもよ。」とのこと。今回の一般公開日で、井木が所用で大島にいられない日があり、日曜日にサポートメンバーとして天野が来る予定で、船長はそのことを案じていた。年明け早々に大島特有の季節風が吹きすさび、船が出せなかったそうだ。夏の芸術祭期間中、風や高波で船が止まることはなかったが、季節風の強い冬はそうはいかない。
13:00 自治会から放送が入る。山本会長からこれまでの経緯と次期会長の紹介がある。次期会長は森さん、副会長は野村さん。
14:30 定例検討会。今月の検討会は自治会役員任期最後となる。決定することは難しいタイミング。今後検討しなければならない事項を列挙し、大島に現存するものを有効活用して次期芸術祭を目指すという方向性のみを確認する。2011年度いっぱいを使って芸術祭にむけてのギャラリーやカフェのあり方を探ることになる。12月から再スタートをきった、大島の取り組み{つながりの家}。カフェの来客数が100名を越えたのだが、今回はその内訳(一般来場者、入所者、職員)をカウントしていなかったので、明日からは詳細にカウントし、分析していくことになった。
18:00 野村ハウスの隣人、安長さんを食事に誘おうとドアをノックしたが、留守のようだ。安長さんお気に入りの焼酎を買ってきたのだけれど。
カフェ運営の井木と泉は明日のため仕込みで遅くなるとのこと。私はイワシを梅肉とショウガで味付けて煮物をつくる。
野村ハウスがある「北海道地区」は山を背負っているのでそれほどでもないが、西側は強風が吹き始めている。船長の言う通り、天候は大荒れに向かう。

勝ってはならない

2011年 1月 10日

1月5日。ほんの小さな出来事が我が家で起きた。しかし私にとっては特に印象深いものだったのでここに記しておきたい。
長男慧地は8歳、長女美朝は4歳。4つ違いの兄妹。何時かのブログにも書いたが、我が家には個室の役割をもつプライベートの空間がない。食べるのも、遊ぶのも、本を読むのも、仕事をするのも一部屋。なんとなくそれぞれ落ち着く場所や領域はあるものの、囲われた個人スペースはトイレぐらいなものだ。そもそも棲み分けるほど広くないというのもあるが。幼い兄妹は朝起きてから寝るまで喧嘩ばかりしている。モノの取り合い、順番の奪い合いで常に対立。むかつく、腹が立つ、鬱陶しいだの、ずきずき言葉を言っただのと、小競り合い、叩き合い、ののしり合って日々を過ごす。二人とも負けず嫌いなので、待たない、譲らない。私と妻はだまって様子をうかがっている時の方が多いが、ときに理不尽さを見かねて叱りつけることもある。力の要るものについては美朝は慧地に太刀打ちできない。決まりきった競争を妹に仕掛け、奪い取るという暴挙に関してはさすがに口を挟むことになる。長男慧地を咎めると今度は慧地が納得がいかない。あくまでも「競争なんだから、勝った方が勝ちじゃん!」と居座る。まだまだ自分のことしか見えない年頃なんだなぁと思っていた矢先にかの出来事は起きた。

私が帰宅して玄関の扉を開けると、いつもはこうだ。扉が閉まる音を聞いた瞬間兄妹二人が猛ダッシュ。どちらが先に『お帰りのぎゅっ!』にありつけるか競争するのだ。想像通り、慧地が力の限りを尽くして勝利し、美朝は毎回大泣きしてここ30分は機嫌が直らない。ところが、1月5日は違った。先に私のところに走り寄った慧地が私の前で思いついたように一息置き、美朝が私にたどり着くのをやり過ごした。慧地が初めて美朝に譲ったのだ。私はまず思いっきり美朝を抱きしめた後、慧地をいつもより強く強く抱きしめた。「慧地くん、いつの間にかお兄ちゃんになったなぁ。」

兄秀年は私より5歳上で、二人兄弟。私たちはいつも喧嘩ばかりしていた。私が小学校1年生で背の順は一番前、兄は6年生ですでに身長が170センチもあった。私はいつも兄と対等でなければ納得がいかなかった。現在の我が家同様にいつも小競り合い、喧嘩の連続。食事中もテーブルの下では常に蹴り合いでバトルを続行、何をどう食べたか覚えていないほど。喧嘩ゴマで勝ち誇った私の様子にぷっつりきた兄はコマで思いっきり私を殴りつけ流血沙汰になったこともある。小さな私にとってはこれだけ大きい兄も倒せる相手だと信じていた。体格の差は歴然としていたがいつも全力で挑んだ。私は生傷は絶えなかったけれど、それでも今思えば兄は手加減してくれていたのだと思う。

私が高校2年生の時だ。何が原因で喧嘩になったのか、今ではさっぱり思い出せないが、私がダイニングキッチンにある電話のメモ帳脇に差してあった鉛筆をへし折ったのがゴングだった。
「文句あるんか、こらぁっ!」
まず兄が胸ぐらをつかんで窓ガラスに突き飛ばした。私は全く怯まず、すぐに攻撃に転じ、右フックを放ち兄の左こめかみを捉える。一瞬ぐらりとした兄を私は冷静に見ていた。もう一発いける。しかし兄も負けてはいない、その体制のまま背後にあったフライパンをつかみ、振り向き様に最短の弧を描いて私の右額を打ってくる。兄は生まれついては左利きだったに違いない、シャープな動きだ。私は体をのけぞらせながら衝撃を逃がす。そこからは接近戦に持ち込みお互いに何発も拳を繰り出した。
「あんたたち!なにしてるの!やめなさい!」
母の劈くような声に空気が凍り、私たちの動きもぐっと固まる。下になっていた兄はその隙に私から距離をとり、「おまえの大事にしてるもんを全部ぶっこわしてやる!」と捨て台詞をのこし、2階にあがる。大事にしているものとは何か。当時ハードロックのバンドを組んでいた私は愛用のフェンダーリード2(エレキギター)が一番の宝物だった。息を荒げたまま1階のキッチンで佇む私は2階でギターのハードケースを開ける音を聞いたが、それ以上の物音は聞こえてこなかった。

それから1時間後私たち二人は全く言葉も交わさず、ダイニングキッチンでテレビを見ていた。さして面白くもないバラエティー番組を漫然と眺めていたのではなかったかと思う。私と兄はちょうどテーブルを挟んで向かい合うように座っていたが、視線はテーブルが置いてあるその先にあるテレビに向いていてお互い目線が交わることはなかった。横目でちらりと兄を見遣る。兄の左ほおはかなり腫れている。私もあちこち痛かったが、ことさら表皮が白く擦れ赤くなった拳が疼いたのが印象に残っている。

それから、兄とはいっさい喧嘩をしなくなった。実のところ私はあの喧嘩で兄を倒すことができた。体格も兄と似たり寄ったりまで私も成長していたし、力もあった。兄も腕っ節には自信があったと思う。でもあの時兄も今後二人が本気で殴り合ったらどうなるか、きっとわかったはずだ。

私にとって兄は影響を受けたすべてだった。ロックが好きになったのも、アートの道に進もうと思ったのも、左手でみかんの皮を剥いたり絵が描けるのも、みんな兄のおかげだった。始めたことのすべての入り口が兄だった。それが、あの時から、私は私であるということに目覚めたように思う。裏を返せば、兄といつも一緒で、対等に競り合っていたその土俵もそろそろ離れて私自身で開拓していかなくてはならないタイミングだったのかもしれない。いずれにしても、あの喧嘩から兄を一定の距離で見ることができるようになり、同時に尊敬の念も深まっていった。兄は私にとって「勝ってはならない」人になった。

我が家の子どもたちはこの先どんな兄妹になるのだろう。何が待ち受けているのだろう。ほんのちょっとした出来事に私はじんと熱くなってしまった。

夕方、兄の墓参りに行き、お線香をあげる。

開かれた

2011年 1月 9日

「地域に開かれた病院をー。」といううたい文句は、私たちやさしい美術プロジェクトと協働関係にある病院との共同声明である。約9年ちかく前に初めて足助病院を訪れた時に早川院長がおっしゃった言葉を思い浮かべる。
「足助病院は足助で一番人が集まるところです。病院であるとともにここはコミュニティーの場でもあるのです。病院は地域に開かれているべきです。」
小牧市民病院の末永院長と最初の打ち合わせをしたとき、院長はこうおっしゃった。
「病院に作品を見に来てもらってもいいと思います。それぐらい、病院という場所が地域に開かれているのがいいと思います。」
私たちの取り組みの初期からこれらの言葉は様々な意味を持ちながら今日まで受け継いできた。当時のあの言葉はアートが発揮する効果への期待感というよりは、医療者対患者、病院と地域というこれまでのわかりきった関係性のみでは成り立たない何かと向き合い、一歩を踏み出さなければという焦燥感がにじみ出ている。

大島は国が離島につくったハンセン病の療養所。入所者の言葉を借りれば、「ハンセン病患者を目立たず誰にも気づかれない場所に閉じ込め、そこでひっそりと滅するのを待つ」場所だった。「ところがどっこい、私らはまだ生きとるぞ。」とおっしゃる入所者の声は、生き抜いてきた、生きてきてしまった、生きることを与えられた、つまりは生きながらえた生命体の証そのもののように響く。

大島を開くこと。それはハンセン病回復者である入所者がふつうのおじいさん、おばあさんになることだ。今の私にはそのように思える。

病院を開くということ。それは普通に日常を生きることと、(何かの理由で)病院にいることが地続きになること。

そこだ。これからそこをじっくりと詳らかにしていきたいと思う。

つきぬけろ!

2011年 1月 7日

我が家のハムスターは12匹。
留守がちな私に加えて我が家族全員が自宅を出払った時に一つがいのハムスターを義理の妹のところにあずけたらしい。
数日の後メスのハムスターが子どもを身ごもって帰ってきた。 なんとお相手はうちのつがいではなく、義理の妹のハムスターの子らしい…。これ、人間だったらひと騒動だわな。
そんなこんなで産まれてきた何匹か大きくなったと思ったら、今度は正真正銘夫婦同士の子どもができ、爆発的に増殖。成長途中に死んでしまったのもいるけれど、ほとんどが元気に育った。このまま増えてしまっては狭い我が家はあっという間にネズミ屋敷になってしまうってんで現在は3つの水槽に分けて飼っている。なぜ3つかって?それはオスとメスを分けるのは当然のこと、獰猛で他のハムを傷つけるもの、脱走好きなのを分けているのである。

オスは4匹。これが一匹ずつキャラが濃い。脱走しても何故か人に向かって逃げてくる天然ちゃん。やたらと何でも噛み付いて、自分までかみ殺してしまいそうな勢いの輩、体が生まれつき小さくてトラブルの時は自分の存在をうまーく隠してやり過ごすヤツ、からから廻す遊び道具をやっきになって倒し、その下に潜り込むまちがった遊びをするの。こいつらが、もうすでに何十回と脱走をはかっている。というか脱走そのものを生き甲斐にしているといっていい。写真を見てほしい。穴が「つきぬけろ!」と言っている。

重石にした雑誌をかじった跡 この穴を抜けてハムたちは脱走をはかった