Nobuyuki Takahashi’s blog

2011年 5月のアーカイブ

小牧市民病院 新しい作品を

2011年 5月 31日

このところ七ヶ浜町のプロジェクトにかかりっきりになっている面もあるが、実は着々と他の施設も活動を展開している。
今日は授業後に小牧市民病院を訪れた。リーダー古川とスタッフ林も同行。古川は足助病院で研鑽を積んだということもあり、ぜひ今年は小牧市民病院で胸のすくような作品を制作してもらいたいと期待している。
作品のメンテナンス、アンケート回収作業を進める。主に林の仕事だ。メンテナンスをすることで、作品のコンディションが把握できることはもちろんのこと、通りがかった病院利用者から感想が聞けたり、職員さんから意見をいただくこともある。とにかく足繁く通い、こまやかに目配せすることが大切だ。
ふと、大島の入所者野村さんのことを思い浮かべる。野村さんは島の野菜名人だ。野村さんの手にかかればどんな野菜もおいしく育つ。その神髄をたずねると「野菜は、主人の足音を聞いて育つというんよ。」とおっしゃる。野菜が枝葉を伸ばしやがて実を付けるように、私たちも作品をその場所で育んで行く意識を持たなければ、と思う。

七ヶ浜町 表札を取り付ける

2011年 5月 30日

さきほど、うれしい報告が届いた。やばい…。とびあがるほどうれしい!
それは、このところワークショップを担当していた宮城県七ヶ浜町で取り組んだ手作り表札を仮設住宅に届けるプロジェクト、各仮設住宅に取り付けが完了したそうだ。しかも、大好評とのこと。あーやってよかった。
地元の中学生たち、地元ボランティア、レスキューストックヤード、七ヶ浜町ボランティアセンター、未来予想図実行委員会、そしてやさしい美術。皆が力を合わせ知恵をしぼり、ついでにセンスもぶちこんで誠心誠意つくった表札。流されたお宅の木材が今回の表札のベースとなっていることも忘れてはならない。生まれ変わった表札が末永く愛されるよう祈るばかり。
皆さん本当におつかれさまでした。ありがとうございます!
※詳しくは今回の表札プロジェクトの企画主催レスキューストックヤードブログをご覧ください。

宮城県七ヶ浜町報告【第23報】 まごころ表札 取り付け!

ゆるい横のつながり 主義主張を束ねるのでなく

2011年 5月 28日

昨日は私が4月末から参加した災害支援のボランティア活動を行ったレスキューストックヤード派遣ボランティア第4陣の皆さんと宴会だった。連日だが、今日はテレビ局でドキュメンタリーを制作している西川さんの呼びかけにより出版者、編集者、ギャラリー運営者、美術館学芸員、木工作家らが集まり食事とお酒を楽しみながら意見交換をした。
覚王山のとあるお店をアジトに、東日本大震災と被災した人々に向けて何ができるのだろうと夜な夜な議論を繰り返す。私が行っている活動についても報告しいくつか意見をいただいた。ただし、私が猛進してきたが故に盲目的なってしまっているのか(私には自覚はないが)現地にいる被災した方々の身になっているのかどうかという疑問の声が多かったように思う。私はそこでつい感情的になってしまい、せっかくの議論の芽を摘んでしまったようだ。指摘を受け反省。
現地に行って一緒に働きたいという気持ちが先走ってしまい、未だ被災地に行っていない方に押しつけることになってしまったようだ。「現地に行ったからこそわかることもあるだろうけれど、本当はわかっていないこともあるんじゃないのか。」というするどい指摘もいただいた。自分の胸に手をあてて問うてそれはそうだなと思うところもある。現地に行ったからと言ってけっして被災した人々の同じところに立つことはできないし、その苦しみや悲しみの大きさ、深さをとらえることはできない。ならば、被災地で取り組んできたことも本当に被災した人々にとって意義のあることなのか、誰もわからない。それはその場所で、個と個の間柄で起きている小さな出来事、エピソードの集まりであって、包括的に全体のことを言いあてる言葉を私は持たない。あれをやってきた、これをやってきたと伝えたところで、実のところそこに立ち会っている人のみが肌合いで感じ取っていることもある。またそれをこれ見よがしに語るのも考えものだ。よほど配慮して取り組みの内容を開示しないと、場合によっては報告を受ける側に疎外感を与えてしまうかもしれない。「やってきたこと」を客観的に捉えることはとても難しい。加えてそれが何人の人に共感が得られて、どれほどの効果があるのかと問われても、ましてや意義のあることか否かを論じるのも尺度に置き換える術もない。繰り返しになるが、極小単位のエピソードの断片がただちりばめられており、たまたま私が出くわしているのである。そのひとつ一つの出会いの物語は何の強制力も圧力もない。私が個人的に感じている肌合いを主観的に伝えるのが精一杯なのだ。そこがうまく伝えられないのがもどかしい。今、こうしてブログに書きこんでいても、そのむなしさでつぶされそうだ。私が出会った現場にいる人々は評価することも評価されることも誰も求めてはいない。日々悩みながら、迷いながら確信も持てないまま、でもやれることを見つけてやっていくだけだ。そこで接した被災した人々の笑顔や言葉を信じて。そのことはどうか尊重してほしいと思う。被災地に行った人と被災地に行っていない人との間に心の溝が生まれてしまってはひどくむなしい。私もこれから気をつけようと肝に銘じる。

主義主張を束ね掲げて何かを起こそうというのではない。それぞれの考えで、それぞれのスタンスで、やれることをやっていく。それらを尊重しながら、ある時は連携したり、協力しあうことでゆるい横のつながりをつくって行く。情報の交換はお互いの刺激になることは間違いない。

表札に取り付ける刻印いりの銅板を加工するメンバーたち

カスタム表札を仕上げる

2011年 5月 25日

先週宮城県七ヶ浜町から帰ってきてからというもの、7、8人のメンバーが常時入れ替わり立ち替わりで表札の仕上げ作業を行っている。5月14、15日に現地で制作した表札で、仕上げが必要なもの、修正が必要なもの、住民からの依頼で思い出の品々で装飾を施すものを27戸分持ち帰ってきた。皆実に楽しそうに作業している。それぞれ絵心いっぱいに、表札を美しくカスタマイズしてくれている。現地で描かれたものも、中学生が描いたものを極力活かして視認性を高める。
タイルや湯のみ、家の鍵を思い出の品として持参した方がおられた。私が板にレイアウト、ボンドで固定して行く。塗りのお椀を渡された方もいた。そのお椀は地震の衝撃だろうか所々が欠けている。お椀の底が見えるように配置してほしいという要望に応えて、私がレイアウトを決める。大きなアワビの貝殻も穴を利用してビスで固定する。すでにメンバーらが表札自体の色調を合わせてくれていたので私の仕事は最後の仕上げだけですんだ。
ボンドの乾いたところで梱包にとりかかる。
17:00 無事発送。明日には七ヶ浜に届くはずだ。

今日は長男慧地の誕生日。いつもより早く帰宅。子どもたちがマクロビオティックのケーキを作って待ってくれていた。
慧地!私たちのところに生まれてきてくれてありがとね。

大島 第1回定例検討会

2011年 5月 20日

大島にて今年度に入って初めての検討会を行った。
11:00 官用船に乗り込み大島へ。
14:30 定例検討会を開催する。
議題のほとんどが継続審議、ここでは決定事項があれば報告することにする。
入所者自治会の役員は2月から翌年の1月までが任期となっている。そうした大島ならではの特殊性に沿うようにスケジュールを組んで行く。次回のART SETOUCHI2013が計画されており、大島も一会場として名乗りをあげていく運びだが、そのために様々な問題点を解決して行かねばならない。振り返れば瀬戸内国際芸術祭2010の時の「一般公開」を実現する緊張感は並大抵ではなかった。 次回芸術祭は大島で暮らす人々の今と未来を考えて行かなければならない。私は今後、定例検討会が担う役割はさらに重くなると思っている。
検討会が終わり、入所者の森さんや野村さんと談笑。まだぼんやりとした計画だが、今年の夏か秋あたりに、希望する入所者の皆さんと、こえび隊、やさしい美術で他の島をめぐるツアーを組みたいという話をしたら、お二人からこぼれるような笑顔が。ぜひ実現したいと思う。
最近は私が大島に行く時は2〜3件アポイントが入ることが常だ。取材や打ち合わせが多いが、それは大島に心を寄せてくれている人、大島のために何かをしようとしている人、大島に関連した何かを発信したい人が集まってきているということだ。大島のことを放ってはおけない、そんな機運が大島周辺へ、そして日本全体へ、世界へ伝わっていけばと願う。

ミーティングで語る

2011年 5月 17日

17:30 授業後、やさしい美術プロジェクトの定例ミーティングが行われる。今日は学生主導でガイダンスを行う。新しく参加したメンバーにプロジェクトルームの使い方を伝え、機材の使い方、道具類の収納場所などを伝える。
ガイダンスの後は通常のミーティングにはいる。主な議題、報告事項は宮城県七ヶ浜町、現地に行ったメンバーによる14日、15日に実施した表札制作についてだ。
ことばをゆっくりと選びながら自分の見てきたこと、感じてきたことを語る。等身大の彼女たちが発することばは鮮明だ。私が印象に残ったことばをここに綴っておきたい。

・菖蒲田浜は津波によってすべてが流されてしまい、ことばにならない衝撃を受けた。確かに現地に行って状況の凄惨さから感じ取ることは多かった。けれども津波がやってきたその瞬間に居合わせた人たちのことを思うと、自分はそこにはどうしても立てない、当時者にはなれないということがわかった。
・ 被災した当地に行くことに最後までためらいがあった。行きたい、何かできれば、という自分と、こんな自分が行ってもいいのか、迷惑にならないか、と心が揺れた。
・(ワークショップに参加する中学生が取材に来た記者さんを見て)七ヶ浜はあまりメディアに取り上げられていない場所。自分たちは見捨てられるのではないか、だれも見向きもしないのではないかと思った。もっといっぱい写真を撮ってほしい、という声を聞いた。

宮城県七ヶ浜町。私たちが見たこと、感じたことはある一点の場所に過ぎない。今回の震災の幾ばくかを伝えることができるとしても、到底全体を示すことにはならない。別の自分が自分に向かって浴びせる罵倒。「わかった気になるんじゃない!」「この役立たずが!」という声が私の中で反響する。きっと、一緒に七ヶ浜に行ったメンバー全員が私と同じような自問自答の中にいるだろう。

余談だが、大災害を受けた場所に行った人が帰ってきて後、些細なことで自分が責められている、という気持ちに陥ったり、現地について一切口をつぐんでしまう、ということがあるそうだ。それは「異常」な事態を目の前にした者が示す「正常」な人間の反応なのだそうだ。
阪神大震災以降、ボランティアの取り組みが組織化され、多くのノウハウを蓄積している。ボランティアをしている人々の心のケアもその一つだ。自分の中に悲しみや苦しみを過度に抱え込んでしまわないように、そして自分を責め立て追い込んでしまわないように。自分の中で解決できない感情の焰を絶やさず、置き去りにせず、なおかつ自滅させない。そうして長い時間をかけて取り組み続ける足腰を獲得できるのかもしれない。
学生たちの語ったことばには一人一人の苦悩がにじんでいた。でも、その向こうで希望の光を仰ぎ見、前に進もうとしている彼女らの姿が私には見えた気がした。

宮城県七ヶ浜 まごころ表札を届けよう2

2011年 5月 15日

表札の装飾に使う思い出の品々

昨日にひきつづき、表札制作のワークショップを実施。
9:00 武道館に入り、画材や道具類のチェックをする。昨日完成している表札にニスをひく。水性ニスを使用。空気が乾燥しているせいか、乾きが早い。この調子ならば、今日のワークショップで制作した表札のほとんどが仕上がりそうだ。
見通しがついて心にゆとりができる。昨日ほどの緊張はない。
10:00 今日のワークショップに参加する中学生が集まってくる。テレビやインターネットの呼びかけで一般参加の方もいる。仙台市からバスに乗ってこられた方、はるばる秋田県から中高生のお子様を連れて来た方もいた。昨日のプロセスにならって目標を共有するための説明をレスキューストックヤード浦野さんが担当。ワークショップの実施は私たちやさしい美術が進行した。制作は快調に進む。作業性に重きをおいた手順にしぼったことで集中度はとても高い。全員が作業に熱中している。
ふと、休憩で武道館の外に出ると、自衛隊の皆さんがお風呂用のお湯を沸かす作業をしている。夜中でも自衛官の姿を見かけないときがないほど。ボランティア同士で聞かれる「おつかれさまです。」の挨拶が自衛隊の皆さんには馴染まない。自衛隊の皆さんはそれを受け付けない空気、つまりお礼を言われる立場にない、という頑な姿勢を感じるのだ。仕事とはいえ、 昼夜問わず働き続ける自衛隊には頭が下がる思いだ。
昨日、夜寝る前のこと、少しだけ丸山が七ヶ浜町に来る前の石巻での経験を語ってくれた。同じボランティアに加わった者に芸大生がいたそうだ。彼は北海道出身で故郷まで帰る途中だったと言う。震災後、大学を休み、自転車にありったけの荷物を括りつけて東京を出発。故郷までの道のりにある被災地を転々としボランティアを続けている。私はこの話を聞いて若い世代の誠実な答えを見た気がした。私が20代であれば、同じことをしただろう。彼らは平常の学生生活に復帰することが難しいかもしれない。でも、その5年後、10年後、何かを見いだし何かを始めているのではないかと想像する。芸術を語る時、震災前と震災後という線引きは近い将来現れるだろう。そんな予感の傍らから。
さて、ワークショップに戻ろう。午後には避難所からワークショップの様子を見に来る方がいた。今回お宅の土台の木を提供いただいたWさんやKさんもやってくる。皆さん笑顔で眼差しはあたたかい。

完成した表札

Wさんはずいぶんと長い間、表札制作の様子を眺めていた。 Wさんは私を呼びとめて訥々と話しはじめる。Wさんはご自宅の痛んだ土台を板材に切りながら思っていた。傷があって穴のあいた材が、正直どうなるんだろうと半信半疑だったそうだ。「それが、こんなに(すてきに)なるとは思わなかったな。」私はこうしてWさんと話しながらやさしい美術がハンセン病療養所大島で取り組む{つながりの家}を思い出していた。入所者の森さんや野村さんが私が施設内の古いものを集めて回ったり、新しい建物ではなくて入所者の生活感を残す建物を使うと言ったりで、「一体何を考えているのか」「何をするのか」疑問ばかりだったとおっしゃった。私がすることは人にちょっとした冒険を強いる。予測がつかないことにつきあっていただくのだ。結果だけを見てもらうのでなく、いっしょに道筋を歩む。するとある地点でお互いが共振する体験をする。私はその瞬間が何よりも好きだ。その場にいられる自分が幸せだ。
Wさんはこうおっしゃる。「表札の裏に地震の起きた日付と作った日付を入れてくれないかな。一生忘れないから。」
作られるものが、人々の思いが重なる場所になったっていい。関係の編み目がその場所、そこにいる人々に着実につながっていく造形物は確実に存在する。Wさんの言葉はすべてを示していた。
15:00 ワークショップ終了。社会福祉協議会の職員さんがワークショップの最後の挨拶。涙ぐみながらお話しされる姿にこれまでのご苦労が偲ばれる。災害に遭われた当時者にしてみれば、やっと仮設住宅まで漕ぎ着けたというのが本音だろう。表札は114世帯分ほぼすべてを制作。完成していないもの、手直しが必要なもの、装飾の手がかかるものは私たちが持ち帰り完成させる。
片付けをして、次回ワークショップに必要な道具類を整理してパッケージングする。明朝には名古屋に戻っていなければならない。休んでいる余裕はなく、てきぱきと帰り支度を進める。
17:00 身支度が完了。レスキューストックヤードのスタッフの皆さんに見送られて七ヶ浜町を出発。ところどころ信号機が着いていない道を抜け、高速道路に乗る。ただ、ひた走り名古屋へ。車中なぜか布施明のCDがヘビーローテーション。あの歌唱力は神がかっていると思う。おかげで運転し続けるテンションを維持できた、ような気がする。
16日5:00 名古屋着

宮城県七ヶ浜 まごころ表札を届けよう

2011年 5月 14日

8:45 朝食などを済ませ、ボランティアきずな館のすぐ裏手にある武道館に行く。支援物資の置き場所になっていたようだ。張り紙だらけの段ボールの空き箱以外は中央にスペースがある。NPOレスキューストックヤードがコーディネートしている8陣ボランティアの皆さんにもお手伝いに加わっていただく。
床を汚さないように養生シートを床一面に敷く。現地の方で準備を進めてくれていた板材と私たちが名古屋で作成してきた原稿とをマッチングし、板材と原稿をセットにして いつでもワークショップに参加する人々に手渡すことができるよう設えておく。今回名古屋から同行した3人の学生は早朝、もっとも津波の被害が大きかった菖蒲田浜を歩いてきたようだ。それぞれの取り組み方を見ていると、身が入っているのがわかる。
9:45 ぞくぞくと七ヶ浜中学校の美術部の生徒さんらがボランティアセンターに集まってくる。事前にレスキューストックヤードとボランティアセンターと連携して呼びかけてきた成果だ。わくわくしてくる。何かがここで生まれる、その予感と臨場感。現場で携わる者だけが味わえることだ。これまで活動を支えてくれた人々の顔が頭をよぎる。さあ、はじめよう!!
レスキューストックヤードの浦野さんがこれまでの経緯、災害の概況にはじまり、仮設住宅とはどのようなところか、そして私たちのできることとは何か、がその場にいる者に問いかけられた。これから取り組むワークショップ「まごころ表札を仮設住宅に届けよう」のもっとも重要な根幹を参加者全員で共有する。
ここからバトンタッチ。ワークショップの進行は私たちやさしい美術が進める。
まず5つのグループに分ける。道具のシェアをスムーズにするためと、グループごとにやさしい美術のメンバーを置き、対応にあたれるようにするためだ。あらかじめ配布した原稿を板材にトレースダウンする方法を説明する。手法はいたってシンプル。手順の難しさを省き、作業に集中すること、心を込めて制作するプロセスに重きをおいた。色は描く人の自由。とは言っても読みやすさ、視認性は重要なので、板材と文字とのコントラストについては充分配慮するよう呼びかける。表札のベースになる板材は津波で流されてしまったWさんやKさんのお宅の土台を使っている。ところどころ穴があいていたり、釘の跡や傷、割れの入った材もある。それらは刻まれた記憶だ。人格を持った板―。ワークショップに参加している全員がそれをしっかりと認識している。というのも、参加している中学生たちも被災した当時者なのだ。
ワークショップの会場は笑顔でいっぱいだ。なぜ、皆これほどまでに明るいのだろう。私たちは正直戸惑ってしまった。しかしその笑顔の背後にたくましさとちからづよさ、海が育んだおおらかさがあることに次第に気付いていく。未来に向かって私たちは創造している。今この時を楽しむ。それはどれだけ楽しいかを測るものではなく、やりがい、いきがいに裏打ちされた爽快感だ。
全員が作業に集中していて、段取りが 思いのほかはかどる。計画したワークショップの方向性はさほど間違ってはいなかったと実感。
12:00 作業中断。昼食をとる。ボランティアの皆さんが炊き出しでつくったカレーを皆で食べる。食事中ワークショップの間は聞かれなかった会話が方々で始まる。被災した実体験の断片が聞こえてくる。人と人の間柄にある見えない壁はいっしょにご飯を食べることで解けていく。
1時間ほどの昼食休憩のはずが、30分もしたら、ほとんどの参加者が作業に戻る。皆、表札づくりに夢中だ。
14:30 作業終了。片付けをして後、それぞれのグループで今日の反省や感じたことを出し合い、それらのコメントを付箋に書き出しておく。NPOレスキューストックヤードはボランティア活動も、今日取り組んでいるワークショップにしても「共有」ということをとても重視している。感動、喜び、悲しみ、苦しみを分かち合う。とかく現れた結果のみに捕われることが多い社会において、プロセスと共有にスポットを当てる。私はこのこと自体とても強い共感をおぼえた。分野を越えて協働することの何たるかを、今私は学んでいる。
あれやこれやと興味がある領域に出かけてゆき、その手法と歴史に触れてくることは自分の専門意識を高める意味で意義があるのは確かだ。しかし、実のところ分野を越えて通底する人の創造力に触れることこそ、領域を越える意味があるのだ。災害支援とアートは協働することができる。そこには大いなる創造力が働いているから。「生きる」。その一点において、何者でもない、自分自身にかえり行動に移す。その一瞬、私たちを構築している様々なフレームは消滅する。
15:00 ワークショップを終える。私と卒業生の丸山、やさしい美術メンバーの山川、上田(春日)、上田(愛歌)の5名で、今回表札の板材となる土台を提供いただいたKさんお宅に行く。目を背けず、しっかりと見ておかなければならない。私たちがワークショップで使わせてもらっている素材は暮らしてきた人々の記憶であり、身体なのだ。
17:00 私は丸山らを菖蒲田浜におき、単身ボランティアきずな館に戻る。明日のためにレスキューストックヤードのスタッフらと打ち合わせておかなければならないことがたくさんある。戻ってみると、案の定浦野さんとMくんが打ち合わせ中だった。Mくんは地元のボランティアで、ご自宅や家族は無事だったものの、被災した住民の一人でもある。彼は材料提供していただいたKさん、Wさんと連携して製材や裁断などの作業を進めている。地元の人々と共に歩むこと。他人事ではなく、携わる人それぞれが「自分のこと」として関わっていく。それが足腰の強い取り組みにつながって行くのだ。
今後のワークショップの予定を話し合う。仮設住宅の入居は震災後の一連の危機的状況の延長にあることを忘れてはならない。そこに関わっていく取り組みが表札制作だ。
夕食後はできる限り早く寝袋に潜り込む。明日は徹夜で運転して名古屋に戻らなければならない。

七ヶ浜町 黄砂で金色

2011年 5月 13日

8:00 レンタカーを借りる。
9:00 栄町、オアシス21前で待ち合わせ。全員遅刻もなくドタキャンもなく集合。荷物を載せて名古屋を発つ。
道中、ベ○ース○ーラーメンを口に流し込みながらひたすら北上する。
福島県に入ると急激に道路の状態が悪くなる。時折ギャップに乗り上げてびっくりするほど 車が跳ねる。
夕方、黄砂の影響で景色が金色に染まる。
20:00 宮城県七ヶ浜町に到着。レスキューストックヤードのスタッフとすぐに打ち合わせに入る。表札の文字データはすべて出力してきたが、変更がいくつかあるようだ。即データを作り直しプリントアウトする。板の裁断は大変な作業だったろう。ボランティアセンターと連携して中学校への呼びかけや広報も相当の労力だったに違いない。仮設住宅に入った方々に会いに行き、思い出の品々を預かったり、要望を聞くのも 時間がかかっただろう。現地で準備を進めてきたこと、そして私たちが名古屋で準備してきたことが、明日のワークショップに活かされるはずだ。

被災者

2011年 5月 12日

午前中、ワークショップに必要な画材や道具類の買い出しをする。昼にプロジェクトルームに行くと、そこには画材の山が築かれていた―。卒業生らが続々とプロジェクトルームを訪れ、鉛筆、彫刻刀、アクリル絵の具、筆を持ってきてくれたのだ。それぞれの画材の山に書き置きがある。「どうぞ、使ってください。」胸が熱くなる。来てくれる卒業生らの中には宮城県出身者もいる。ご家族が無事だとしても、親戚、友人、知人を辿れば災害に遭った人、亡くなった人、行方不明の人に行き当たる。当地に身を置いてなくとも、彼、彼女らは被災者だと思った。私には到底想像がつかないほど心の傷は深い…。
リ○ビタンD、ベ○ース○ーラーメン、お菓子の差し入れもある。特にベ○ース○ーラーメンは好物。私のことをよく知っている卒業生からのメッセージだ。緊張でこわばっていた心がやわらかく解きほぐされていく。ありがとう。
「準備作業は19:00までに完了する」と宣言していた。というのも、いつも出発前夜が徹夜になってしまうことが多いからだ。そんなことをしていては12時間におよぶ車の運転に耐えることができない。無事に当地に行き、無事に帰ってくることが、何よりも大切なことなのだ。
あれがやりたい、これがやりたい、と主張する者はいない。求められる仕事を着々と進めて行く。支援活動は現地だけではない。