Nobuyuki Takahashi’s blog

Archive for the ‘制作ノート’ Category

塗り分けられた世界地図に雲を描く

2012年 7月 16日

国境で色分けされた国土。自然物を感じるのは陸地と区分けされた海と複雑系の海岸線。そこに雲を描く。大気の流動は自転、公転、ひいては銀河の渦に連なる流動と変転の繰り返し。
世界地図は私たちという存在をとてもよく表していると思う。固定され、密閉された容器の間を宇宙のダイナミズムはいとも簡単に刺貫いていく。

ハンセン病療養所大島から見た高松の町

古典的なモデリング

2012年 3月 19日

私はハンセン病療養所大島での取り組みは、大島を「彫塑=モデリング」している、という感覚を持っている。(彫刻の専門性に触れるので一般論としてはいささか伝わりにくいと思うがこのまま考察を進めてみたい。)大島という全体の量塊=ボリュームに島外から付け足すことなく、また外部へと取り去ることもなく保存し、あらゆる方向から量塊の様相を見極め、こちらの量をあちらに、あそこに在るものをここへと移していく。それは心棒を組み上げ、そこに土付けして行く古典的なモデリングのセオリーそのものと言うことができる。
なぜ、今大島をモデリングするのか。大島とその外との連綿としたつながりをつむぐためには、まず大島の姿をくっきりと浮かび上がらせ、鋭くポイントしなくてはならない。次に大島で暮らす人々とその営為に裏打ちされた内部から表層に向けて表し、背景に広がる海と島々との関係性を恢復して行かなくてはならない。大島の土を使い大島焼を作るのも、入所者が暮らした住居を活用するのも、島にあるものを素材に配置するのも、海岸に一旦は打ち捨てられた船や解剖台を発掘するのも「モデリング」なのだ。
ここで注意しなければならないのは、そこに在る量塊は単なる造形素材ではないということ。いわばいのちの営みの断片であり、だからこそ至近距離で見て感じ、その重みを全身で受けとめなければならない。モデリングとは身体と精神を集中する膨大な作業の積み重ねなのである。

話は飛躍するが、東日本大震災で被災した地域で寄せ集められた量塊は「がれき」と呼ばれている。いうまでもなく、それらは単なる廃棄物などではない。それらを尊厳を持って扱い「日本」という塑像を造形するために丁寧に配置し、根付かせる方法があるのでは、と想像してみる。

独特だけど新しくない

2012年 3月 19日

やさしい美術の取り組みは些細なエピソードの積み重ね。身体に喩えると毛細血管での栄養素と老廃物の受け渡しのようなことか。小さいことでも丁寧にやっていきたい。何故なら私たちが「人」となった時代に備わった「他者の痛みを自分のことと感じる」回路は、細胞レベルで数万年、数十万年と蜿蜒に受け継がれたものなのだから。
やさしい美術は枠組みの拡張の方法としては独特だ。でもそれは何ら真新しいわけでなく、このあらかじめ備わった私たちの感性を「掘り起こす」ことに近いかなと思う。

この1〜2週間

2011年 3月 17日

ずっとブログが書けずにいた。
3月5日、6日と福岡に滞在。九州大学総合研究棟で開催されるフォーラム「臨床するアート」にパネラーとして登壇するためだ。当フォーラムでは大阪市立大学医学部付属病院の山口悦子さん、九州大学大学院医学研究員の濱田裕子さん、そして私がそれぞれの研究テーマ、実践内容についてお話しした。私以外のお二方は医療の現場で実際に働き、実践を通して成果を重ねている研究者でもある。生命をめぐる第一線にたっておられる二人からお話をうかがって、私が「アーティストが現場に立つ」といったところで次元が全く異なるというのが身にしみてよくわかった。まさに臨床という言葉がぴったりと来る。フォーラムの詳細は後日記したい。

ドヤ=簡易宿泊所を改装したホステルに泊まる

3月11日、12日と横浜の寿町に滞在。寿町は日本の三大「ドヤ街」の一つとして知られている。私が初めて寿町を訪れたのは高校2年生の頃である。地図など見ずにぶらつき、とある通りから一歩踏み入れたとたん、町の空気が一変した。公道であるにもかかわらず通りにテーブルや椅子を出して昼間から飲んだ暮れているおっちゃんたちが闊歩している。その印象は鮮烈だった。今思い起こせばそれは寿町初体験だった。寿オルタナティブ・ネットワークが主催する寿お泊まりフォーラムで同じくパネラーとして登壇。
3月11日11:00に横浜到着。午後に首都大学東京山本薫子さんのレクチャーを受講中、地震は起きた。
私は地震の30分前から目眩に襲われ、気分がすぐれなかった。さらに目眩がと思ったら、揺れの大きさがシフトアップし、地震と気づく。とにかく揺さぶられるように大きく揺れた。そこに居合わせた人々の表情は恐怖に歪んだ。その後、公園に避難したのちも大きな余震があり所狭しと密集するドヤ街のビル群がゆさゆさと揺れているのを見た。地面がこれほどまでに心許ないものと感じることはなかった。
横浜でさえ、である。震源地周辺の地域では大変なことが起きているという予感がよぎった。寿お泊まりフォーラムの詳細も後日に記すことにする。

翌日12日、下り方面の交通網が回復してすぐ、18:00ごろ横浜を足早に発つ。すでに電源確保の問題が取りざたされていたので、これ以上無駄な滞在は迷惑になるのではと判断した。夜中名古屋に自宅に戻ると川の字になって熟睡する妻と二人の我が子。起こさないようにそっと髪と頬にふれる。

ハンセン病を正しく理解するため、副園長がレクチャーを開講

13日7:30の新幹線に乗り込み、一路大島へ。地震の直後、大島入りしているカフェスタッフの井木、泉には連絡を入れていた。瀬戸内のハンセン病療養所大島は大きく揺れることもなく、津波の影響も微細で心配はないようだ。12日から一般公開しているため、諸々のディレクションとギャラリー15の展示替えのため大島で滞在。

16日に名古屋に帰ってくる。東北関東大地震の関連でいくつかの心配が心の内を支配するなか、何かできることはないか、ずっと考え続けていた。やさしい美術プロジェクトのメーリングリストではメンバーそれぞれの「できること」の声が行き交っている。こういう局面ではアーティストとして何ができるのか、作品がどのような力を持ちうるのかということよりも、自分がまずできることを見つめることが足下に立ち現れる。それがアートであるかどうかは、もはやあまり意味を成さない。ましてやアートでなければならない理由はどこにもない。

大島会館でオープンした「出張シヨル」は大好評

ジャンルを作りたい、わけではない

2011年 2月 15日

私は「やさしい美術」というジャンル、あるいは病院系、福祉系のアート領域を確立したいわけではない。やさしい美術プロジェクトを設立した当初は取り組むこと全てが初めてのことばかりで、行き当たりばったり。深く意識することなく直感的に方向性を選びとっていったというのが正直なところだ。
ジャンル、領域とは制度や手法、棲み分けの枠組みのことである。枠組みで括ることによって、その名称と存在意義がイコールで結ばれる。枠組み、つまりジャンル名や系統名、分野名などに置き換えられるものは、存在価値が保証される。あるいは逆もまたしかり。研究と実践が積み重ねられ一般化された結果、ジャンルが確立されるということもあるが。
やさしい美術という取り組みは、まず医療福祉施設などの現場に行き、そこで感じたことを出発点に個々の表現や企画に展開していく。このブログで何度か述べてきたことだが、私たちは活動の際「癒す」という言葉は使ったことがない。「癒す」という言葉によって否が応にも自分対相手という前提が屹立する。「〜してあげる」という言い方もしたことがない。これも先述と同様だ。何度も施設を訪れ、利用者と接する中でそこにいる人々の息づかいが私たちの側に浸透してくる。痛みや苦しみの感覚が心理的に共鳴するのだ。形象でそれぞれくるまれた自己と他者の境界はこの時点で感情と感覚が行き来する浸透膜へと化す。こうして、表裏を翻すように他者の問題が自分の問題へとシフトする。
おそらく、この取り組みに参加する者の強固なモチベーションを支えるのはそこだろう。他者に自分の姿を重ねる。他者を鏡に自分を見つめる。他者に巣食う自分の感覚を拾い、自分にしみ込んでくる他者の感覚を掬う。

大学の学部やコースはまさにジャンルの境界をそのまま体現している。むろん本学には「やさしい美術コース」はない。枠組みに収まらないので、組織的な体制づくりやシステムの構築が一向に進まない。が、しかし専門領域を超えて遍在する不定形で流動的なこの取り組みが誰にもどのジャンルにも通底するテーマを提供するとしたら、どうだろうか。それがこの取り組みのあるべき姿かもしれないのだ。事実、やさしい美術のメンバーは本学のすべての専門領域から参入している。
「流動的」を「実験的」と読み替えるならば、そのチャレンジ精神はぜひ持続していきたい。

大気を帯びた地球儀

2010年 12月 29日

昨夜遅くに長男慧地が突然嘔吐する。どうやらはやりのノロウィルスにやられたようだ。隣で寝ていた長女美朝はまともに吐瀉物を浴びたので私も妻も感染するのではと気が気でない。
朝、起きてすぐに慧地に声をかけるが、力のないか細い返事が返ってくるのみ。とても朝食が食べられる様子ではない。ゆっくりと寝かせることにする。
一方美朝のほうはいたって元気だ。私が終日家に居るのがめずらしく、彼女にとってみれば私を独り占めにするチャンス。どこに行くのでも私につきまとう。最近の美朝はまさに奈良美智さんのドローイングが正夢になったようだ。慧地が最近熱をあげている「ルパン三世」のビデオを見て美朝は 「峰不二子」の魅力に取り憑かれ、4歳児とは思えない甘え声で私にすり寄ってくる。ぷっと膨れっ面をした時の三白眼はぞっとする。

今日は家族全員で大掃除をし、夜は家族だけで妻の誕生日会をする予定だったが、慧地の体調不良のためすべてキャンセルに。私は昨夜書店で購入した書籍3冊のうち、一気に2冊を読んでしまい、500ページある3冊目に突入。読書の合間に遊び相手がいない美朝と遊ぶ。
これも昨日のことだが、旧友から我が家に小包が届いた。さっそく中身をひらくと子どもたちへのクリスマスプレゼントだった。昨年はギター製作キットや楽器類をいただいた。今年は関東方面で活躍している予備校時代の旧友が制作した陶器、木製のコマ、地球儀制作キット、アイドルCDが包まれていた。い つもありがとう。
美朝が「これ一緒に作ろうよ。」と私にしつこくせがむ。地球儀キットを組み立てようというのだ。折り紙状のパーツを手順通りに折ってゆきスリットに差し込みながら球体をつくる。 これが「地表」を貼付けるフレームとなっていて、接着なしで全て組み立てることができる優れものだ。かの友人はこの夏少ない休暇を使って大島まで来てく れた。そのときの文化会館で実施していた参加型プログラム「森をつくる折り紙Morigami(もりがみ)」にインスパイアーされたのか、人の手が加わっ て完成するキットをわざわざ探して私たちに送ってくれたのだ。心細やかな選択が彼らしい。
さて、地球儀は小一時間で組み立てが終わった。そこに私と美朝で色鉛筆を使って着色していく。紙の色調が土を思わせるアンバー系なのでどのような色を差し ても落ち着いた発色だ。球体は便宜上多面体で構成されていて天体の形状からはほど遠いが、地表に印刷されている陸地と海、国境の線がもっともらしく地球らしさを演出している。それらの境界線を境に塗り絵をするのがこの地球儀キットのねらいに違いないが、娘には大してこれらの境界線が目に入らないようでそれらにとらわれず縦横無尽に鉛筆を走らせている。その姿を見てふと思い出す。

私は15年ほど前に地球儀を使った作品を制作していた。
日記や手帳にマークする目的のシールや商品のポップに使用する表示、多目的な付箋類 などありとあらゆる貼付物を白地図の地球儀に貼付けて日常生活と私たちの共通観念に浮かぶ「地球」とをレーヤードした作品。見るものの想像力を喚起する 装置のような作品だ。実際に目の前に地球を見たものは宇宙飛行士ぐらいしかいないのだが、地球儀はだれにとっても既視感があり、私たちの日常がその平滑な表面に張り付いている、と想像することができる。もう少しスケールダウンしてみよう。私たちは地図を見て行ったことのない目的地にたどり着くこと ができるし、交通網や情報網にアクセスして自身のポジションを客観的に定位することができる。同時に私たち自身の身体も高度にマッピングされている。解剖図はどこでも手に入るし、私たちの身体が様々な機能の連携で成り立つ機械であると解説可能だ。私たちは自分自身を輪郭を持った内容物として捉え、 地表に自身の位置関係をポイントすることができ、国境で囲われた一色のうちに自身を塗り込めることもさして難しいことではない。
次の瞬間ほとんどの人はこうつぶやくだろう。
「世界は、そんなんじゃない。そんな、簡単なものじゃないよ。」と。
地表に這いつくばり、些末な日常に没している私たちの像を投影できるのはこれらの観念と概念が描画した図ではない。妙にてらてらとした表面に覆われ、密閉された境界膜に閉じ込められていく世界。地球儀は世界を捉える一つの方向性を見事に可視化しているが、同時にその限界も露呈している。
私が日々感じている鬱屈とした抵抗感を出発点としつつも、その情操の様態をあらわに表現することを目指さなかったのは、作品がまるで対面する鏡のように自分から切り離されて自律しているという妄想が膨らんでいたからだ。しかし
当時の私の制作を振り返ると、自分の意図や情感をそぎおとすことによって作品化に向かうことと、私の内部でふつふつと現れては消える日常での情動とが馴染むことがなかった。制作という行為が名状しがたい矛盾を抱え漫然と苦しんでいたように思う。はからずもこれらの作品は分裂的な「私」が表現されてしまった。
1メートル×3メートルの大きな都市の地図に等身大の身体のアウトラインを投影し、その内部の道路のみを赤いペンで塗りつぶした。それはあたかも身体をめぐる血流が社会にみられる交通や流通と偶然に照合するかのように浮かび上がってくる。
陸地と海、国境を輪郭線で囲い、色分けされたごく一般的な地球儀に「雲」を描いた。観念的に色分けされた世界の上空を想像上の大気が流動する。天空のダイナミズムを描き込むことで平滑な地表に奥行きをつくった。

これらの私の制作は、何よりも以前に私自身が抱える「生きる」ための挑戦でなければならなかった。しかし、その多くの試みは観念の置き換えや切り貼りに終始しており造形的な遊戯に陥っていた。
「このままではいけない。」

私はなんとしても自己を投入する私の歩むべき道筋を見つけなければならなかった。また、その模索は私の安住の地である「アート」の領域内に見いだすことになるかどうかも白紙にしてのぞまなければならなかった。それまでの漫然とした矛盾が私の中で放置できないほど膨れ上がり、自らを救済してくれるはずの「制作」という営為に私自身が砕かれそうになっていたのだ。

少しずつ光が見えてきた試行錯誤の日々。道筋を自ら選びとったようでいて、その多くはまるで「宿命」とでもいいたげに逃れようもなく身辺で起きたあまりにも悲しい出来事が契機となったことをこのブログでも綴ってきた。

やさしい美術は、「アート」への信頼と不安、期待と無力感の間で往復する。ただし、それを遠くから眺めるのではなく、常にその振幅の中に自分を置き、そこで反応する自分でいようと思う。

やさしい美術の取り組みのエレメントはこの15年ほどの間にゆっくりと熟成されてきた。その向き合いはすでに私のみに起こっていることではなく、この取り組みに携わったメンバーたちのそれぞれに見合ったかたちで受け継がれ枝葉を広げている。

今、私の目の前で4歳になった我が娘が友人のプレゼントである地球儀に手を入れている。彼女のたおやかなストロークは地球儀に記されているどんな境界線よりも美しかった。

卒業制作

2010年 12月 20日

ここでは私が大学で担当しているコースの授業や制作の様子は少しふれる程度にしている。やさしい美術プロジェクトの活動がメインのブログだから。今日は制作が軌道に乗って来た卒業制作にちょっとだけふれてみたい。
今日、午前中にスタッフ川島と今後のスケジュールについて打ち合わせ。その後はコースの授業に集中。
卒業制作でアトリエの活気がすごい。制作は二の次で盛り上げるために鍋をする者もいる。この時期、卒業制作になったとたんに大きなものをつくったことがない学生が唐突につくりたいと言い出す。本来は失敗しながら自分で編み出していくものだが、すでに残された時間が限られたりサポートがなければ仕上がらないものもある。その時は極力その人の力でなんとかやれる方法を探してあげる。例えば金属のフレームをつくるとする。手っ取り早く溶接という方法もあるが、その場合は私たち教員や工房の職員が学生に代わって作業のほとんどをやってみせることになる。これでは実感がわかないし、本人に身に付くことも乏しい。業者に発注するのも良いのだが、学生にはその経験が少ないので頼み方を知らない。私はそのような相談があった学生には「わからないことはわからない、と業者の人に話して一度叱られてきなさい。」と突き放す。たいてい「そんなことも知らんのか。」と叱られながらも業者のおじさんがやさしく教えてくれたり、ほかの業者を紹介してくれたりで何か必ず収穫があるものだ。自分でぶち当たって得たものって自信につながるもんだよ。

リベット留めでアルミのフレームを製作

けっこう大きなものも軽く、頑丈につくることができる

大地の芸術祭 オープン直前3

2009年 7月 24日

写真作品の展示作業。職員さんも手伝ってくれる

写真作品の展示作業。職員さんも手伝ってくれる

24日。とうとうこの日が来た。私たちは先乗りで妻有入りをしているが、今日は残りのメンバーがチャーターバスでやってくる。なんと、このやさしい家に17人が泊まる。しかも一階の展示スペースにはもはや荷物を置く場所はない。
ひたすらに午前中も作業をする。下準備は終わっていなければ作品設置作業にとりかかれない。
14:30 バスが着く。私と泉はホームセンターに材料ややさしい家で鑑賞する際の履物などを買いに来ていたときだ。
15:00過ぎ 十日町病院に行く。今日は研究会を足早に済ませ、作品設置作業に少しでも早くとりかからねばならない。着いた学生たちに浮ついた表情の者はいない。作品を搬入する瞬間を待って来たが、あっという間にその時が来た。
研究会では確認事項と作品の検討事項を話し合い、すぐに搬入作業にとりかかる。今回は壁と天井に金具を取り付ける工事をしなければならない。しかも石膏ボートの下地であったり、コンクリートの構造壁や柱だったりでその都度取り付け方が異なる。私は振動ドリルとインパクトドライバーを交互に使いながら展示場所をまわる。

丸い掲示板はとても目を惹く

丸い掲示板はとても目を惹く

設置したその先からすぐに通る人から声があがる。「何ができるんですか。」「きれいになるねぇ。」「ごくろうさまです。」でんでん板(情報掲示板)に注目が集まる。何しろ院内では一切の表示物、掲示物は四角。そこへ丸の掲示板が現れたのだから。制作者たちから「やべー、やべー」という声があがる。(←うれしい気持ちの表現です)私もその様子を見て「やべーっ」(←感動の表現です)
一旦展示してみたものの、手直しが必要な作品、追加搬入する作品をやさしい家に持ち帰り、今度はやさしい家での作業だ。私と石本、赤塚、川島の4人をやさしい家に残し、あとのメンバーはバスに乗り込んでキナーレの温泉につかりに行く。その後は恒例の懇親会だ。私を含めた残りの4人はまだまだたくさん残っている作業をやさしい家で続ける。
23:00 懇親会から学生たちが帰ってくる。搬入作業が待っているからか、飲み過ぎでべろべろの者は一人もいない。荷物の整理をし、寝る場所を確保する。皆が寝静まった頃、お風呂を交代で入りながら、作品配置とステートメントが載っている作品地図(ラフ案)のデータ作成にとりかかる。名古屋にいるスタッフ井口が私の送ったデータを参考にレイアウトしてくれることになっている。実のところ作品地図を制作するのは作品の配置が完成したあとの一番最後の仕事になる。だから、体力的には限界の一番きつい作業だ。そこを助けてくれるスタッフがいる。なんと恵まれているのだろう。スタッフ井口は参加型作品Morigamiの植樹オーナー証明書を作ってくれていた。「あるといいね。」と話していたが、ほんとに作ったんだね。この証明書をもらう人の笑顔を彼女は想像できる人なのだ。
私は廊下で寝ることになった。
15:00 就寝

メンバーのフィギャーが院内各所に並ぶ

メンバーのフィギャーが院内各所に並ぶ

尊いということ

2009年 7月 13日

見つけた光のかけら。

見つけた光のかけら。

美術の世界にいると、作品の結果を求めたくなる。
「認められたい」という気持ちが生まれるのは極自然なことだ。
当然のことながら、アートの世界で云われる頂点は、存在する。到達できる人もいれば、到達できない人ももちろんいる。アーティストの営みには、美術界では表に現れて来ない部分がある。できあがった作品はすべてのプロセスの上に成り立っていると言って良い。それは見えない歴史の積み重ねの上に乗っているとも言える。
アーティストの多くは実はプロセスを大事にしている。どのような道筋が待ち受けているのか、どのように歩んでゆくのか、達成されたと思ったと同時に達成すべきものはそこになかったとか…。じつはこうしたプロセスで感じる実感は語られることが稀だ。タブーと言っても良い。
彫刻を教わった原裕治氏の作品制作を手伝いながら浪人生活を送っていた頃のこと。日の出ている間は原氏の仕事を手伝うのが日課だった。それ以外の時間が自分の制作時間だった。
驚くべきことに、原氏はその作品を毎日完成させていた。しかし次の日には見事にそれを破壊し、削る、付けるの繰り返しだ。5年も6年も向かい合っている作品は何百回と完成の時を迎えていたのである。
止める人がいなければ、終わりはない。アーティストの探求とはそういうものだ。それを私は教わった。
一言で云えば、その営みは 尊いのだ。
私はその尊い存在、狂おしいほどの情念をそこに見出せれば、惜しみなく力を注ぎたい。

捨ててしまうゴミのなかにも美は存在する

捨ててしまうゴミのなかにも美は存在する

正方形フォーマット

2009年 6月 11日

私の愛用しているカメラは時代遅れの6×6のフィルムカメラ。やさしい美術プロジェクトを始めてから、ずっと正方形フォーマットが気になっていた。天地左右のないフォーマット。
最近正方形フォーマットで撮れるデジカメを購入。これもまた、今時時代遅れの単焦点レンズ。でもレンズの描写力と自然な歪みでこれがなかなか良い。正方形フォーマットの撮影の練習にしばらくヘビーローテーションだ。