Nobuyuki Takahashi’s blog

Archive for the ‘エッセイ’ Category

塗り分けられた世界地図に雲を描く

2012年 7月 16日

国境で色分けされた国土。自然物を感じるのは陸地と区分けされた海と複雑系の海岸線。そこに雲を描く。大気の流動は自転、公転、ひいては銀河の渦に連なる流動と変転の繰り返し。
世界地図は私たちという存在をとてもよく表していると思う。固定され、密閉された容器の間を宇宙のダイナミズムはいとも簡単に刺貫いていく。

ハンセン病療養所大島から見た高松の町

なかったところに現れる、あったところからなくなる

2012年 7月 8日

前例のないことに一歩踏み出すのは誰でも勇気がいるものである。アート、あるいはアートの取り組みはそれを延々と繰り返してきた。
これまでたくさんの作品を病院に展示してきたが、アーティストと病院とが膝を突き合わせ語り合っていく中で「根拠のない信頼感」が育まれなければ、前に進まない。でなければ、やったことがないからという理由に押しつぶされていく。合理的な思考で思考停止に陥る。
作品を展示すると今まで何もなかったそこに、何かが現れる。とたんに抵抗感、圧迫感を感じる人々の声が聞こえてくる。拒絶したい気持ちの声はひときわ大きく響く。しかし、通りがかる人から「あれ、何か変わった!」「いつもと違うね。」とのささやきも見逃してはならない。私はこのざわついた状態の時は「しばらく様子をみてください。」と病院側にお願いする。すべてとは言わないが、やがて時間が経つと人々の反応も落ち着いてくる。作品への感想が寄せられるようになり職員への質問があがったり、作品をめぐる会話も聞こえてくるようになる。そして、展示期間の終了ともなると、いざ作品を撤去すると、ぽっかりとあいたそのスペースに人々は「さびしい、撤去しないでほしい」「何か他に置けるものはないのか。」と喪失感を表す。
展示するための空間ではない、病院での展示では、こんなことが起きる。

旧・足助病院の取り壊し現場

新・足助病院の外来棟廊下

震災遺構と解剖台

2012年 7月 1日

石巻の車道の真ん中に流れ着いた「巨大缶詰」の解体、撤去が始まったそうだ。私も石巻に行った際、この巨大な缶詰を揉んだ自然の脅威を前に呆然と立ち尽くした。
水産加工会社「木の屋石巻水産」の魚油タンクだった、「巨大缶詰」は同社の看板商品である「鯨大和煮」のデザインをそのまま拡大したもので地元では名物だったという。それが、津波で約300mも流され、中央分離帯に横倒しになっていた。
保存を求める声が多く寄せられたそうだが、被災した当事者からは「思い出したくない」という声も少なくなかったという。移動して遺す案も浮上したが、高さ10mを越える「巨大缶詰」を運ぶには電線を切ってはつなぎ直す大工事が不可欠となる。費用も莫大にかかるだろう。解体した「巨大缶詰」の断片は今後テーブルや椅子にリメイクされ、同社の新工場敷地に置かれるそうだ。
こうした震災遺構と呼ばれる場所や事物は今後急速に姿を消していく。そうしたなかで「遺す」選択をした所もある。
遺すか、遺さないか。
とても多数決で決まるものではない。議論の末、正論に沿うとしても、「正しさ」は立ち位置によって異なる。答えは、ない。 有識者の提言に基づいたり、行政の強力なリーダーシップにより「遺す」に至るのも理解はできる。しかし忘れてはならないのは、「震災遺構」とは、都市の傷であり、そこで暮らす人々にとっては「痛み」そのものなのだと思う。自分から遠くにある傷口に興味本位で反応することはあってはならない。心理的な距離のみでなく、物理的な距離を縮め、肉薄して体感しなければ、その「痛み」の澱みに身を投じて土地の人々と共有することはできない。
「遺す」ことをその当事者たちが決断することは、自らの傷口に問いかけるようなものだ。遠くから見守る人々が「ひとごとではない」と関与するのも人としての「痛み」の回路に従うもの。組織や集団に属した場合と個人との見解が異なることも不思議ではない。その大きなブレが描くグラデーションに決断の楔を穿つ。簡単なことではないし、それを安易に「判断の正しさ」に還元してはならない。
ハンセン病療養所大島で2010年の夏、瀬戸内国際芸術祭直前に海岸に打ち捨てられた解剖台が発見された。島内で実際に使われていた、解剖台である。再発見からわずか1週間の間に解剖台を引き上げ、今は使われていない一般独身寮15寮前に設置した。いきさつは複雑に絡み合って直線的ではないのだが、私が入所者自治会の皆さんに解剖台の引き上げと設置を提案したのは事実だ。島内外で当時吹き荒れた感情の渦を何かに喩えることは難しいし、体感したものを私が喩えて表現するのを、許されるかどうか…。一つ確実に言えるのは、「私は何者で、どこに立っているのか」突きつけられ、立っているのも危ういほど揺るがされたということ。遺されたという事実、遺されたものが私たちの前にある。そこから出発するしかない。

私が見た石巻の巨大缶詰

大島の解剖台

古典的なモデリング

2012年 3月 19日

私はハンセン病療養所大島での取り組みは、大島を「彫塑=モデリング」している、という感覚を持っている。(彫刻の専門性に触れるので一般論としてはいささか伝わりにくいと思うがこのまま考察を進めてみたい。)大島という全体の量塊=ボリュームに島外から付け足すことなく、また外部へと取り去ることもなく保存し、あらゆる方向から量塊の様相を見極め、こちらの量をあちらに、あそこに在るものをここへと移していく。それは心棒を組み上げ、そこに土付けして行く古典的なモデリングのセオリーそのものと言うことができる。
なぜ、今大島をモデリングするのか。大島とその外との連綿としたつながりをつむぐためには、まず大島の姿をくっきりと浮かび上がらせ、鋭くポイントしなくてはならない。次に大島で暮らす人々とその営為に裏打ちされた内部から表層に向けて表し、背景に広がる海と島々との関係性を恢復して行かなくてはならない。大島の土を使い大島焼を作るのも、入所者が暮らした住居を活用するのも、島にあるものを素材に配置するのも、海岸に一旦は打ち捨てられた船や解剖台を発掘するのも「モデリング」なのだ。
ここで注意しなければならないのは、そこに在る量塊は単なる造形素材ではないということ。いわばいのちの営みの断片であり、だからこそ至近距離で見て感じ、その重みを全身で受けとめなければならない。モデリングとは身体と精神を集中する膨大な作業の積み重ねなのである。

話は飛躍するが、東日本大震災で被災した地域で寄せ集められた量塊は「がれき」と呼ばれている。いうまでもなく、それらは単なる廃棄物などではない。それらを尊厳を持って扱い「日本」という塑像を造形するために丁寧に配置し、根付かせる方法があるのでは、と想像してみる。

独特だけど新しくない

2012年 3月 19日

やさしい美術の取り組みは些細なエピソードの積み重ね。身体に喩えると毛細血管での栄養素と老廃物の受け渡しのようなことか。小さいことでも丁寧にやっていきたい。何故なら私たちが「人」となった時代に備わった「他者の痛みを自分のことと感じる」回路は、細胞レベルで数万年、数十万年と蜿蜒に受け継がれたものなのだから。
やさしい美術は枠組みの拡張の方法としては独特だ。でもそれは何ら真新しいわけでなく、このあらかじめ備わった私たちの感性を「掘り起こす」ことに近いかなと思う。

瑠璃色の和舟発掘 境界のない世界

2011年 12月 17日

大島で暮らす入所者の皆さんからたくさんのお話を聞いた。その多くは同じ人間とは到底思えない扱いを受けたことの辛さ、情けなさ、怒りだった。でも海に出た時の話は違っていた。いきいきと語り、饒舌になるのだ。厳しい生活のためとはいえ、釣りや貝獲りのわくわくした感じ。箱眼鏡をくわえて銛でたこを突いた話。引潮時に漁に出て、満ち潮時にはぷかぷか浮いて海流に乗って帰ってきた話。今も大事に育てている盆栽の松は大島の岩場にあったものも多いが、近くの兜島へと舟を漕ぎ、素性のいい松を採ってきたというお話。
そう、海にまつわるお話は明るい話題が多いのだ。「海には境界がないからな。」とおっしゃる。大島内でも職員と患者のエリアは「有毒線」によって分け隔てられていた時代があった。官用船の船室も職員用と患者用が分けられていた。唯一海だけは、海にいる時だけは一切の分け隔てもなく、自由にいられたのだという。
入所者の皆さんから海の思い出を聞くと私の心も踊る。ぴちぴちとした新鮮な日々、陰のない光に満ちた空間をありありと想像できるのだ。
なんとはなしに舟小屋に和舟があるぞ、というお話を幾人かの入所者から伝え聞いていた。すでにご高齢のこともあり、舟で海に出る入所者はいない。舟小屋も荒れ放題だ。私のような者がたずねない限り、入所者の皆さんの頭から海は離れてしまっているように思う。だからこそ、私はこの瑠璃色の和舟、島内唯一遺る木造船を掘り起こし、明るみに出したかった。
掘り出す私の意識は昨年の解剖台引き上げと展示の時とそれほど変わらない。でも、この瑠璃色の和舟は多くの入所者に喜びを持って迎えられ、たくさんの記憶が想起されるのではと思う。
とても美しい舟だ。コールタールをよく吸い込んだ舟底が砂の中から現れた時はそのあまりにも艶かしい手触りに驚嘆した。「この舟、まだ生きてる。」そんな言葉が自然と口からこぼれた。





手描きっていいね 七ヶ浜町仮設店舗オープン

2011年 12月 11日

12月11日
宮城県七ヶ浜町の仮設店舗「七の市商店街」がオープンした。
オープンセレモニーが行われ、豚汁の炊き出しがあり、餅つきでのふるまい、ソーラン節の踊りなどが披露された。500人ぐらいの来場があったとのこと。にぎわい、はなやぎの場。今後の仮設店舗の成功を多くの人が願っている。
私はハンセン病療養所大島にて島で唯一残された木造船の発掘作業や定例検討会のディレクションに追われていたので失礼してしまったのだが、オープンセレモニーにはスタッフ林をはじめ、表札作り以来仮設店舗のワークショップに携わってきたメンバーら5名が現地に駆けつけた。
セレモニーでは完成した看板が燦々と光を浴びていたのはもちろんだが、惜しくも選定されなかった他のデザイン原画も仮設店舗壁面に展示され、多くの人々が心を寄せながら作られた看板であることが表現されていた。
しかし、この短い期間でよくできたものだ。この看板には表に現れない多くの人々の手の間を通ってきた。主役であるデザイン画を制作した被災地域の住民たちやボランティアは言うまでもなく、土台の木を黙々と製材した大工さんやデザイン原画からパスデータを作成したデザイナーたち、吊り看板のデザインと配色をしたメンバーたち、トレース作業をかってでてくれた人々、設置作業をお手伝いしたボランティア、まだまだこの欄には足らない多くの人々の支えがあってできた看板たち。本当に皆さんお疲れさまでした。そしてありがとうございました。
仮設店舗はオープンしたばかり。今度はいいお客さんとして見守って行こうと思う。私は後日、ゆっくりと現地を訪れる予定だ。




ひかりはがき たった一日だけの断念

2011年 12月 3日

このところ毎日「ひかりはがき」が全国からやさしい美術プロジェクトのもとに届いている。一枚ずつ切手を貼って送られたもの、複数枚封書にまとめて送られてくるもの、様々である。
私が絵はがきを描きはじめたのは3月11日の翌々日。はじめたもののそれらのはがきのほとんどは破いてしまって手もとにない。思い立った本人がこの体たらくだ。災害に遭われた人々に向けて絵はがきを描くことはとんでもなく難しい。批判されるまでもなかった。もう一つ自分に厳しく課したことがある。それは「自分は災害に遭われた方々を前にして、このはがきを手渡しできるだろうか。」という問いかけだった。「手渡し」は個々の心の内にある被災者と向き合ってはがきを描くために絶対に必要だった。
本格的に手描きの絵はがきを募集し、被災地域で手渡しする活動は3月18日に立ち上げた。後になって私はこの取り組みを「ひかりはがき」と名付けた。
震災直後の加熱した空気の中で批判と疑問の声にもまれ、肝心な「ひかりはがき」は遅々として集まらない。絵はがきのブースキットを設置してもポストにはお菓子の紙くずや落書きが放り込まれるしまつ、せっかくそろえた画材は心ない人に盗られてしまった。
私はほとほと疲れてしまい、4月11日とうとう「ひかりはがき」の取り組みを断念した。震災から一月のこと。もともと私がはじめたことだ、原点にもどり1人で「ひかりはがき」を描き、被災地域へ手渡しに行こうと心に決めた。
しかし、どうしたことか、集めるのを止めてしまったその日からぽつりぽつりと「ひかりはがき」が私のもとに寄せられはじめた。ブースキットでも少ないけれど絵はがきを描く人の姿を見るようになった。卒業生からも送られてきた。実はスタッフの林治徳が陰ながら丁寧に声をかけてくれていたのだ。寡黙にそれぞれが何を表現するかを考え、悩み、ようやくかたちになりはじめた、それに一月かかったということだろう。

4月12日、「ひかりはがき」を再開。
今振り返ると自分の気持ちの弱さが恥ずかしい。私は当初自分に近しいところではなく、自分からできるだけ遠くのところに大きく響く取り組みであってほしい、そうでなければ意味がないと強く思い込んでいた。つまりは自分の足下が視界に入っていなかったのだ。最初から大きく広がった波紋などあるはずがない。自分自身を広大な水面(みなも)に投げ込み、その一点からしか波紋は広がらないではないか。そんな単純明快なことが見えていなかった。私が悶々と苦しんでいる傍らで大きな声もあげず、よりそって悩んでくれていた一番身近な人々が「ひかりはがき」の最初の賛同者となったのである。
今ここで書いたことは「ひかりはがき」の取り組み前夜のこと。この取り組みがいったい何だったのかの検証や批評は別の機会に譲り、今は当時の葛藤を語っておきたいと思った。
「ひかりはがき」の波紋はゆっくりと、そして確実に大きく広がりつつある。今や基点など知らなくとも、「ひかりはがき」は描くことができる。でもその一石を投じた時の念いを一瞬垣間みることはこれから描き継がれる「ひかりはがき」の新鮮さを保つのに無駄ではないだろう。
「ひかりはがき」は「行動」だ。私の言う「行動」とは、例えば大切な人を看取る時に誰しも手をにぎる、あの瞬間のことである。

ワークショップを始めたのは

2011年 11月 8日

数年前のことだが、やさしい美術の活動を紹介する場で「なぜワークショップをしないのか?」と尋ねられたことがある。当時やさしい美術プロジェクトは作品を院内空間に配置していく仕事が主だったのでそこからわく素朴な疑問であったように思う。阪神の震災が一つの引き金となって、巷では協働性や市民活動の重要性が説かれていることは知っていた。それらに近接する活動はワークショップをやるべきという機運はあったと思う。
ただ少し気になったのはその時の質問「なぜワークショップをしないのか」には「やるのが当然」と言う響きがあったのも事実。私は闇雲にワークショップの形式を取るのは疑問だった。断っておくが多くのワークショップの形式が存在する中でここでは「アーティストが実施するワークショップ」に限っての話。
何よりも先にワークショップという方法が立ち上がるのに違和感がある。作家の「一緒に作りました」というアリバイづくりに終始しているケースは開いている様相を見せながら実は閉じられた構造をしていて見ていて居心地悪い。ワークショップの対象になる参加者とそのバックグラウンドが置き去りになっているのを見かけるとこれも気になって仕方がない。
それから月日は経ち、とうとう僕たちは十日町病院で始めてワークショップを実施する日が来た。それは最初にワークショップの方法があったのではなく、プランのコンセプトを忠実に実現していくプロセスであって、結果として「ワークショップ」としか呼べないものになった。当時メンバーだった福井が考案した作品プランである。
福井が着目したのは院内の極私的空間である病室である。ベッドに横になる利用者とその家族との関係性を取り持つものがアーティスト側から提案できないか、というもの。想像がつくと思うが、家族関係はとてもデリケートだ。他人が立ち入れる問題をはるかに超えている。テレビドラマに出てくるようなステレオタイプの家族イメージは仮想の話。それこそ人の数だけのケースがあるだろう。
このことはかなり時間をかけて福井と議論した。するともう一つ浮かび上がってきたのは、「患者と医師・看護師」という関係性である。システムが張り巡らされた医療の現場。「人」としてでなく「患者」として扱われる病院空間。医師や看護師はその肩書きを離れて思いの内を患者に伝える機会は無いに等しい。
「患者」と「医療者」という立場を超える、肩書きを取り去る、間にある見えない壁を溶かす。医師も看護師も伝えたい思いを携えながら治療にあたっているはずだ。一方患者はかけがえのない人生を生きぬいてきた一人ひとりのはずである。ひとり一人を見てほしい―。
そこで、福井は医師や看護師が描いた「残暑見舞い」の絵はがきを描いた本人から患者さんに手渡すワークショップを企画した。この提案を受けて病院サイドから「描く時間がない」「うまく描く自信がない」と反発があったものの、楽しく描くしくみや工夫を幾度となく提案し、何とか院内で絵はがきを描くワークショップを実施するところまでこぎつけた。
ワークショップ当日は院内で働く医師や看護師、職員のほとんどが時間を見つけて絵はがきを描きに来てくれた。一枚のはがきには、普段思っていたけれど伝えられなかった思いがメッセージに綴られている。「いつもそばにいます。」そんなシンプルでそっと元気づける言葉たち。切り紙や野菜スタンプで華やかに彩られたデザイン。
手術を終えた医師と看護師が緑装束のまま立ち寄り一斉に絵はがきを描いていく。そんな感動的な場面が幾度となく繰り返された。二日間で集まったはがきは300枚。それらはベッドサイドに絵はがきを取り付けるフレームとともに医師、看護師らによって入院している利用者に手渡された。
私たちは作品を作ったのではなく、医師、看護師という間柄を溶かし、感情の交流のしくみを作ったのみ。その道具立てとしてはがきを描き、渡す行為に集約させた。さて、ワークショップを終えて心の壁が瞬間解き放たれたのは病室内だけではなかった。気がつけば私たちプロジェクトメンバーと病院職員との間は何でもぶつけ合える仲になっていた。このワークショップを院内で滞りなく行うプロセスを通じて着実にお互いの距離は近くなったのだ。
「ここで私たちは何ができるのか」と突き詰めて、最終的にワークショップの形となった、病院内での残暑見舞い絵はがきプロジェクト。絵はがきを描いた病院職員はアートに興味を持ち、作るのが大好きで集まった人ではない。それぞれの思いを胸に医療の現場、病院の日常の中で働いている人たちだ。病院のシステムが簡単に許さない「心を通わす」という小さな冒険を私たちは創出した。一人ひとりそれぞれでいたい。そんな当たり前の事が、「患者」という画一的な枠に閉じ込められてしまう。その枠をそっと開く小さな飛躍を設ける。実施したワークショップは人と人という間柄を取り持ちながらまるで柔軟剤のように院内に浸透していった。

癒すという言葉は使ったことがない

2011年 11月 4日

やさしい美術プロジェクトは病院が主な活動場所であることから「癒しのアート」「病院のアート」と言われることが多かった。実は私はやさしい美術プロジェクトを語る上で「癒す」という言葉はつかったことがない。施設の現場にいると、そんな言葉は簡単には浮かんでこない。これまで作品を作ってきた経験からの私の見解だけど、「癒される」ということはその人の中で起きることであって、「癒す」ということはないと思っている。
やさしい美術プロジェクトの活動は事象に近づく、という特徴があると以前書いた。近づくと見えてくることもあるが、見えなくなることもある。地図を読むように遠くから眺め、想像力を働かせることで見えることもある。もちろん近づくということは物理的、心理的な意味があるのだけれど。その振幅の中で自分の立つ位置を見極める。
やさしい美術プロジェクトの活動が私個人の見解を広めるためにあるわけではないので、参加する学生たちのそれぞれの立ち位置はすべて受け入れることにしている。「取り組み」の内には手をにぎり看取ることもありうるし、「癒す」ことに真剣に取り組むのであれば「とことんやってみなさい」と背中を押す。そこで感じた何かに突き動かされ、自らの細胞が反応することを私は否定しない。
やさしい美術プロジェクトとはたぶんジャンルとして確立されるものではなく、ある事象に向き合った時に個々から発露される表現を受けとめる場であるように思う。それぞれの専門性を抱えてこの取り組みに参入すれば、自身が立つ専門性を離れては立ち返るという経験が起きる。もう少し踏み込んで言えば、自己否定と再構築だ。それほどまでに、私たちアーティストを揺さぶる何かがあるのだ。
手をにぎり大切な誰かを看取ることを私はアートだ、作品だとはとても言うことができない。でも「やさしい美術」という場では表現し、作品を制作して展示することや手をにぎることも同地平に連なる営みとなる。その蜿蜒なる地平をなめるように見つめ、乗り越えるべき壁や隔たりがあれば丁寧に紡いで行く作業と言ったらよいか。
私は殊に現代美術の領域で作品を作ってきた。誰とはわからない相手に強く、遠く、深くボールを投げ入れる。その真の意味もやさしい美術プロジェクトの活動を通じてとらえ直す契機を与えられた。きっとこの取り組みに関わったアーティストや学生、様々な専門家らはそれぞれの立ち位置で何かを得たのではないかと思うのだが。

発達センターちよだにて