Nobuyuki Takahashi’s blog

2011年 2月のアーカイブ

ドローイング

2011年 2月 28日

さあ、描きましょう。まずは心の赴くままに。

美朝4歳の自画像

ハンセン病を正しく理解する講演会

2011年 2月 23日

最初に高松市長の大西さんからご挨拶。大島青松園副園長の市原さんが25分間、医療者からの立場からハンセン病について解説し、その後は元自治会長山本さんがハンセン病回復者としての立場から隔離と差別の時代から現在までを振り返るお話があった。10分間の休憩をはさみ私が1時間、大島での取り組み{つながりの家}について講演を行った。

会場外のホワイエではパネル展示と資料閲覧スペースを設けた。森をつくる折り紙「Morigami(もりがみ)」を机の上に並べ、自助具や写真なども展示した。

壇上に手話の同時通訳がつくので、原稿をしっかり作っての講演だったが、昨日、高松入りしてからまた数枚のスライドをどうしても加えたくなり、その分ほかの解説を削って時間を調整した。が、10分もオーバーしてしまう。

このような場でお話させていただくのは光栄。というよりも恐縮、というのが近い。私が大島に関わったのはたかが3年。大島に気持ちを寄せている方々のなかには30年、40年もずっと大島と関わり続けている方もある。
だから、私が考案した{つながりの家}構想は今に始まったのではなく、ずっとずっと昔から大島と関わってきた人々の共鳴する精神が今かたちになってきたのだ、とつくづく思う。周波数を合わせ、それをさらに増幅させたり、より多くの人に届くようにアンテナをかざしていく。それが私の役目。きっと誰もができることではない、アーティストの媒介者としての役割。きっと今、ここにいる自分だからこそできること。
自然と口につくことば。

「ありがとうございます。」

向こう側

2011年 2月 21日

フィルムの現像があがってきた。
向こう側を感じさせる2枚の写真。

大島解剖台の排水溝

小牧市民病院の階段窓

発達センターちよだ 染み込む

2011年 2月 18日

久しぶりの発達センターちよだ。5月以来現場に行くことができず、ご無沙汰してしまった。子どもたちもきっと大きく成長しているだろう。
14:00 私とスタッフ川島、メンバー古川、原嶋の4人でちよだに到着。現地ではさらにボランティアと職員さんを加えてワークショップを実施する。職員さんから「お久しぶりですね。」とあたたかく迎えられる。到着して判明したのだが、小学校の行事や授業の関係で今日の取り組みに参加する子どもたちはわずか2名。子どもたちに対して大人が多すぎるという心配が出てきた。子どもたちがびっくりしてしまわないように気を配ろうということになった。私と川島は記録や道具などの設えを整える裏方にまわり、古川と原嶋はそれぞれ子どもたちに寄り添ってサポートすることに。
15:00 打ち合わせと準備が整った頃、子どもたちがお母さんと連れ立って発達センターちよだにやってくる。地域に暮らす学齢の障害を持った子どもたち(この取り組みに参加している子どもたちは主に自閉症)はもともと発達センターちよだに通園していた顔なじみばかりだ。子どもたちもお母さん方も安心してここにやってくる。
一緒に遊びながら身も心もほぐして開放的な空気を育んでいく。
汚れても良い服に着替えると、さあ、造形ワークショップの時間だ。
今日の取り組みは木枠に布を張った支持体にぽんぽんスタンプに色水を含ませて描くというもの。画材はいたってシンプルだ。以前行ったワークショップを下敷きにして、子どもたちの成長や趣向に合わせてブラッシュアップし、より深化させている。
Aくんは支持体と絵の具を設えた部屋に入るなり、躊躇なく描き始めた。余白部分に水分をたっぷり含ませた脱脂綿のスタンプで大胆に染み込ませていく。Aくんは支持体の裏側からも手を触れる。断定はできないが、紙に描くのとは異なり、裏側まで染み込んでいることに反応を示していたのかもしれない。いずれにしても相当心を揺り動かされていたのは間違いない。
一方Bちゃんはワークショップにとりかかるまでに時間を要したが、いつもより絵の具の種類が多く準備されているのに気付いたのか、高揚した様子で画面に向かった。透明の容器、水の入ったスポイト類もふんだんに用意した。Bちゃんが以前から興味を示していた色水づくりに没頭できる環境が整えられている。というのも、ちよだ職員さんが以前から色水を作るのが好きなBちゃん向けにワークショップを考えてほしいという声があがっていたのだ。まんべんなく子どもたちに受け入れられる取り組みというのは難しい。それぞれ性格も趣向も違い、障害の質も異なるのだ。そこで、毎回一人ずつスポットをあてたワークショップを考案することにした。当人の反応は期待のうちだが、その他の子どもたちが思いもよらない反応を示してくれることがある。それはそれで以降実施していくワークショップにフィードバックできる参考要素となるわけだ。
Bちゃんがトイレに行っている間に支持体を床面に寝かせた。色水を垂らすそぶりを見せたのでひょっとしたら床面においた画面に新しいかたちで手を加える姿が見られるかもしれないという期待。トイレから出てきたBちゃんは最初は画面から外れた床面へ無作為に色水を垂らし込めていたが、まわりの指差しや呼びかけもあって画面に色水や水を頻繁にぶちまけた。いつになくはしゃぐBちゃんに色水を浴びせられた白布は鮮やかな染みをたたえていた。
ワークショップが終わったあと「ケース」で担当したスタッフ全員で気がついたことを出し合った。今日のワークショップは子どもたちの良い反応を得られたので今日参加できなかった子どもたちにも実施することになった。今日の反省点をふまえ、次回はより熟成させたワークショップを実現する。ご期待あれ!





小牧市民病院 搬入 天職

2011年 2月 17日

16:00 雨がぱらつくなかで小牧市民病院につく。さほど寒くはなく、湿度があるので春の雨模様といった風情だ。
今回はモリショウコさんの刺繍絵画7点を精神科外来廊下に設置する。額は虹色に着色され、それぞれ記念写真のごとく日常の心温まるシーンが描かれている。布に刺繍糸を縫い付けて線描を施し、必要最小限に着色してある。これまで展示してあった井木宏美の刺繍絵画とはまったく趣も世界観も異なっている。
スタッフ川島と展示作業をしていると、通りがかりに職員さんに声をかけられる。ある看護師さんが「かわいいっ。すてきっ。」を連発。こちらまでうれしくなってくる。
その看護師さんはそこにいるだけで、周りの空気を明るくする人だった。
天職という言葉がしっくりくる。
モリショウコさんの作品は好評。先日搬入した天野入華の作品のコンディションをS6病棟まで見に行く。記録写真を撮影していると病棟の師長さんが私に声をかけてくださる。評判をうかがうと、こちらも好評のようだ。
スタッフ川島が作品のメンテナンスに回っている間に、次年度の作品や展示場所を検討する為に院内全体を歩く。病院サイドにつくっていただいた検討委員会「癒しとやすらぎの環境整備プロジェクト委員会」の元メンバーの看護師さんに久しぶりに再会したりで、充実した時間を過ごす。そうか、小牧もかれこれ7年が過ぎようとしている。

ジャンルを作りたい、わけではない

2011年 2月 15日

私は「やさしい美術」というジャンル、あるいは病院系、福祉系のアート領域を確立したいわけではない。やさしい美術プロジェクトを設立した当初は取り組むこと全てが初めてのことばかりで、行き当たりばったり。深く意識することなく直感的に方向性を選びとっていったというのが正直なところだ。
ジャンル、領域とは制度や手法、棲み分けの枠組みのことである。枠組みで括ることによって、その名称と存在意義がイコールで結ばれる。枠組み、つまりジャンル名や系統名、分野名などに置き換えられるものは、存在価値が保証される。あるいは逆もまたしかり。研究と実践が積み重ねられ一般化された結果、ジャンルが確立されるということもあるが。
やさしい美術という取り組みは、まず医療福祉施設などの現場に行き、そこで感じたことを出発点に個々の表現や企画に展開していく。このブログで何度か述べてきたことだが、私たちは活動の際「癒す」という言葉は使ったことがない。「癒す」という言葉によって否が応にも自分対相手という前提が屹立する。「〜してあげる」という言い方もしたことがない。これも先述と同様だ。何度も施設を訪れ、利用者と接する中でそこにいる人々の息づかいが私たちの側に浸透してくる。痛みや苦しみの感覚が心理的に共鳴するのだ。形象でそれぞれくるまれた自己と他者の境界はこの時点で感情と感覚が行き来する浸透膜へと化す。こうして、表裏を翻すように他者の問題が自分の問題へとシフトする。
おそらく、この取り組みに参加する者の強固なモチベーションを支えるのはそこだろう。他者に自分の姿を重ねる。他者を鏡に自分を見つめる。他者に巣食う自分の感覚を拾い、自分にしみ込んでくる他者の感覚を掬う。

大学の学部やコースはまさにジャンルの境界をそのまま体現している。むろん本学には「やさしい美術コース」はない。枠組みに収まらないので、組織的な体制づくりやシステムの構築が一向に進まない。が、しかし専門領域を超えて遍在する不定形で流動的なこの取り組みが誰にもどのジャンルにも通底するテーマを提供するとしたら、どうだろうか。それがこの取り組みのあるべき姿かもしれないのだ。事実、やさしい美術のメンバーは本学のすべての専門領域から参入している。
「流動的」を「実験的」と読み替えるならば、そのチャレンジ精神はぜひ持続していきたい。

生まれ変わるなら、野村さんの野菜になりたい

2011年 2月 12日

大島のお父さんとお母さん、野村宏さんと春美さんがカフェ・シヨルに来てくれた。何気ない世間話をしながらコーヒーとお菓子を楽しむ。
野村さんの野菜はおいしい。果物は瑞々しい。なぜだろうと訊ねると、野村さんは少し照れ笑いを交えながらこう答える。「もう、50年以上野菜作っとるからな。」
野菜作りの秘訣を請うと「昔からな、野菜は主人の足音を聞いて育つと言うんよ。」私たちは野村ハウスで毎朝野村さんの足音や鍬の音を聞いて過ごしていた。野村さんは野菜だけではなく、いつも私たちのことを見守ってくれている。
カフェ・シヨルで井木と泉は野村さんや森さん、大智さんの野菜や果物を余すことなく調理している。素材の良さとそれを活かす心意気が一つになり、それをお客さんに喜んでいただく。カフェにやわらかなひとときが流れ、それを糧に次のメニューを編み出していく。なんと流麗な循環だろう。
泉がつぶやいた。「生まれ変わるなら、野村さんの野菜になりたいな。」

大島 藤棚

2011年 2月 11日

職員さんの協力で足が不自由な入所者の皆さんにも立ち寄っていただいている。

今月の大島一般公開は2月11日(金)から2月13日(日)まで。11日にはワークショップ「かんきつ祭」を実施する。大島で採れる柑橘類を収穫し、カフェ・シヨルの食材として使えるように加工するワークショップだ。季節ごとにこうしたお祭りを企画して一般来場者やこえび隊の皆さんを招き、大島と大島の外とのつながりを紡いでいく。
今回は2月9日(水)から大島入り。11日が祝日のため、10日に定例検討会を開くことになった。自治会の役員が山本さん、大智さんから代わり、森さん、野村さん、出原さんという顔ぶれとなる。
定例検討会での主な検討事項は2011年4月からの活動継続についてである。継続していこうという意向は検討会で以前から話があがっていたし、カフェの運営スタッフ井木と泉の活躍もあって、職員さんを含め入所者の皆さんからも理解をいただいている。2011年4月から2012年3月までは第二土・日を一般公開日とすることに決定した。
この日の検討会でさらにうれしいことがあった。入所者自治会副会長の野村さんが、「2013年も15寮あたり(現在、GALLERY15として活用している通称:北海道地区)を使うんであれば、どうだい、藤棚を作ったらと思うとるんだが。」と提案された。昨年の芸術祭での一般公開は猛暑であったこともさることながら、特に15寮周囲は日陰が少なく、一般来場者の皆さんにはご苦労をかけた。野村さんはその様子をずっと気に留めておられたようだ。すごい。次回の芸術祭に向けて、入所者の方から一歩を踏み出しておられる。水やりは入所者の皆さんでされるそうだ。私は新潟県立十日町病院で植えられた朝顔を思い出していた。愛知県厚生連足助病院で育てられている朝顔を十日町病院に嫁がせ、朝顔で地域交流を深める赤塚裕美子の企画だ。
あのときも地元の人々のお世話があって朝顔が花を咲かせた。きっと大島でも藤は花を咲かせる。「大島藤」だ。
重ねて、市原副園長から「医療者の立場からガイドをしてくれているこえび隊の皆さんにレクチャーをしたい。」との申し出がある。市原さんはカフェ・シヨルの常連さんであり、私たちの取り組みの傍らに立っている人だ。通常の見学者には1時間程度のレクチャーをされるそうだが、今回の勉強会では2時間ほどお話していただける。職員の皆さんも一歩ずつ歩みを進めておられる。心強い限りだ。
{つながりの家}は大島にいる人々、大島に心をよせている人々の通底する精神だと、つくづく感じる。

無力感からの出発

2011年 2月 10日

兄が亡くなって今日で13年が経つ。人の生き様が十人十色であるように、死に行く様もそれぞれだ。死は誰にも等しく訪れる。人の生き死にのエピソードは人の数だけ存在する。しかし親しい人、愛する人、身近な人の死はとりわけ自分の心に深く刻まれていくものだ。
私の兄は悪性リンパ腫という血液のがんに罹り、それが入院生活の間に次々と全身に転移し、9ヶ月の闘病の末病院で亡くなった。その様子は惨たらしいことこの上なかった。リンパ腫は通常、のど元に大きなこぶ状の腫瘍ができて発見される事が多いと聞くが、兄の場合は腹部の奥深くに腫瘍があったため発見が遅れてしまった。

14年前、父が定年退職を迎え、それを労うために私は兄とお金を出し合って贈り物をしようと相談していた。打ち合わせようと兄に電話するが全くつながらない。どうしても連絡がとれず、ひとまず私の独断で、知人の陶芸家から土瓶と夫婦の湯のみを購入。あとは兄と二人で連れ立って実家に行き手渡すのを待つばかりだった。それにしても、ここまで連絡がとれないのはおかしい。兄の住むマンションに行っても気配がない。何とも嫌な予感がする。思案に暮れていると父から電話が入る。兄が入院したとの知らせだった。
兄は最初から告知を受ける姿勢だったため、本人を含め家族全員が病気のことを知っていた。抗がん剤を何クールも投与し、副作用のために全身の体毛が抜け落ち、身も心も憔悴しきっていた。それでも兄は戦い続けた。それは若さ故だったと言うほかない。抗がん剤を投与した後しばらくは効果があるものの、腫瘍マーカーの値はすぐに元にもどってしまう。その度に抗がん剤の種類を変えたり、組み合わせを工夫して何度も何度も抗がん剤を打ち続ける。私はその凄まじさを見かねて「兄は実験台じゃない!」と医師に噛み付くこともあった。支えようとする家族は心に闇を抱えて時折それを爆発させてしまうのだ。病院に関わる今になってその状況を以前より冷静に受け止められるようになった。病棟ではこのような修羅場が毎日繰り返されている。
抗がん剤が効かなくなり、万策は尽きたかに思われたが、最終手段とも言える大量の抗がん剤を一気に投与する―自身の免疫力まで奪うために骨髄を移植する―治療に打って出ることになった。弟である私の骨髄が合う確率が高いことから私は真っ先に骨髄検査に名乗り出たが、私の骨髄は不適合であることがわかった。
それからは放射線による治療に切り替える。治療するというよりも今以上に病気を進行させないための処置だ。むしろ戦う姿勢を崩さない兄に何も施さないことが一層兄を追い込んでしまう。抗がん剤よりは副作用が軽く、兄の表情にもゆとりが感じられるようになったある日のこと。病室に入るや否や私に悪態をつく兄。「最悪だっ!」
兄の眼差しはこれまでになく淀み乾ききっていた。突如兄の左顎下に大きなこぶが現れたのである。つい2、3日前には無かったはずだ。りんご一個分ほどもある大きな腫瘍だ。その腫瘍がベッドにいる兄の頸部を否応なく傾ける。まるで病魔の進行を兄に見せつけるかのように。兄は苛立っていた。やり場のない怒りは真っ先に私に向けられた。
兄は手に取るように自分の身体が蝕まれていく様子をつかんでいたと思う。肝臓に転移し、黄疸があらわれると自らの手を天井やシーツにかざし、変わり果てた肌の色を食い入るように眺めていた。その頃から私たち家族が病室を訪れても兄はめったに口を開かなくなってしまった。
それから数日が経っただろうか、両親が担当医に呼び出され、父は私にも同席してほしいと連絡してきた。足早に病院へ行くと院内の相談室に通される。それは、「余命宣告」だった。私も父も母も予感していたが、現実となると全身の血流が一気に下降するようで、頭がくらくらして何も手につかない。兄の壮絶な闘病生活を見てきた医師は最後の告知を本人にはせず、私たち家族だけに話すという決断をした。人と接する上で判断を導いてくれるマニュアルなんて存在しない。医師にとっても思い悩んだ末の選択だったに違いない。
兄は家に帰りたいと私にこぼすことがあった。兄の言う「家」とは現在私が兄から引き継いで暮らしているマンションのことだ。そのとき兄は既に衰弱が激しく部屋のある4階まで登る力はどこにもなかった。兄が次に家に帰ったのは亡くなった直後のこと。かけつけた兄の親友とともに遺体を担ぎ、一段一段階段をのぼる。玄関を通り一番奥の座敷に兄を連れて行く。私は兄の亡骸を前に丸一日をかけてデスマスクを描いた。

看護士さんからちょうど個室が空いたので移らないかと勧められた。ありがたい勧めではあったけれど兄は断固として抵抗した。なぜなら、個室に移るということは残された時間を過ごすという意味に他ならなかったからだ。同室だった患者さんが個室に移っていき、ほどなくして亡くなっていくのを兄は知っていた。自分の番が回ってくることを兄は絶対に認めたくなかったのだと思う。激痛に歯を食いしばり、嘔吐を繰り返す日々。それでも上を仰ぎ見る。この世のものとは思えない苦痛のトンネルを潜り抜けたその先に光があると思いたい。それこそが希望だった。
兄が個室に移ってから、ふと思い出したことがある。私があるテレビ局に依頼されて制作したドローイングのことだ。プロボクサー飯田覚士さんが世界チャンピオンのヨックタイシスオーと戦うタイトルマッチ。そのオープニングを飾る映像に私の描くドローイングが使われることになったのだ。兄はそのことをとても喜んでくれた。1997年12月23日、愛知県体育館でチャンピオン戦が行われ、激闘の末飯田さんが判定勝ち。見事タイトルを獲得した。その道のりは険しく、初回にダウンを奪うものの、後半にはヨックタイの猛反撃に遭い、最終回までなだれこむ肉弾戦。駆け引きのないまさに激闘だ。その先に手に入れた勝利という「光」。私は飯田さんと兄の姿を重ねていた。
私は兄の病室にドローイングを貼ることにした。私は描くことで飯田さんにエールを贈ったように兄の戦いの場に寄り添いたかった。そのドローイングは飯田さんのスパーリングを実際に間近に見て描きとめたスケッチを元に描いた。私と兄が幼い頃から敬愛して止まない「あしたのジョー」へのオマージュでもある。
年が明け1月の後半になってさらにモルヒネの量が増えていく。兄は毎日激痛に悩まされ、嘔吐が治まらない。腫瘍が横隔膜を圧迫して24時間しゃっくりが止まらない。兄がトイレに立ったときだ。ベッドから立ち上がった瞬間膝ががくんと折れて、点滴棒にしがみつく兄をすんでのところで抱きとめる。その時の兄の身体はとても30代前半とは思えず萎びて張りがなく、そして存在の重みが感じられなかった。

アルバイトを終えていつものように兄の病室へ行く。入り口で感染予防のアルコールを手に擦り込み、マスクをかけ、一息深呼吸し、ぐいとドアを開ける。兄の笑顔が今日は見られるだろうか、いつも祈るような気持ちだ。が、次の瞬間愕然とする。病室にはこれまでなかったむせるような臭気がたちこめている。兄の呼気だ。私の呼びかけに兄は応じるどころか、眼球が左右揃うことなく、ぐるぐると回転して、口は菱型に大きく空いたまま。乾いた歯が唇が閉じるのを阻んでいる。来るべき時が近づいている。そう思った。時折混濁した意識から帰ってくる兄はやせ細った拳を天井に向けて差し出し言葉にならない声を発する。その時、兄の闘争意識はとっくに頽れていたのかもしれない。絞り出された声はのこりのいのちを生き抜く、兄の身体を構成している細胞のひとつ一つがあげる雄叫びのように思えた。
私はかのドローイングを、かなうならば、兄の行くところへ連れていってほしいと心から願った。しかし、本当のところ、私のドローイングは何を成し得たのか、あるいは何を成し得なかったのか、兄がそのドローイングを携えて逝ったのか、確かめようもなかった。
1998年2月10日。兄の最後の一息を家族全員で見送った。後悔はない。ただ、無力感と補いようのない空白だけが残った。

小牧市民病院 搬入 消えた清水

2011年 2月 7日

14:00 小牧市民病院につき、私とスタッフ川島、作者の天野入華がそれぞれ作品を持って院内へ。
午前中は作品を吊り下げるための金具を取り付ける作業を敢行し、搬入にこぎ着けた。S6病棟のディルームに行くとテレビから水戸黄門が放映されている。数人の患者さんやご家族が憩いの時間を過ごしていて、家族的な雰囲気だ。
早速今回天野が制作した作品を壁面に設置する。脳外科の患者さんが入院する病棟。年配の方が多く入院しており、病室ではなくディルームで職員さんの世話を受けながらの食事をしている場所だ。当初はモビールを天井に点在させる計画だったが、落ち着いてディルームで食事をしたり、談笑できるよう配慮した作品を、ということになった。天野は繊細な素材使いのオブジェで定評があるが、それらのオブジェを空間に配置する際に、スケールを含めた空間との関係性に課題があると思った。私は彼女に思い切ってアクリルケースに入れることを提案した。展示台や台座、額に入れることはフレームで切り取ることである。鑑賞者との地平を分断することによって、見せたい対象を外側から注視することを促すのだ。ところが、鑑賞者と同地平、例えば床に置く、壁に設えると先述のフレームで切り取られたのとではスケール感も視線の流れも全く異なってくる。「インスタレーション」についてここでは詳述しないが、天野には空間に設置すること、鑑賞する人々との関係性を取り持つ絶妙な地点を見いだしてほしかった。そこで、アクリルボックスに入れることにチャレンジしてもらうことになった。額装は窓枠だ。こちら側と向こう側という明確な位置関係を意識させる。一方アクリルボックスは密閉されていて手に触れることができない分ボックス内のものに視線がぐっと集中する。素材がデリケートであればあるほど、鑑賞者は想像力を働かせて視覚的に感触を味わおうとする。しかしアクリルボックスを空間に配置しても透明で存在感が希薄なために空間の共有は適度に感じられる。このようなアクリルボックスの効果から彼女の持ち前の細やかな造作が活きると考えたのだ。
展示作業中に病棟の看護師さん、介護士さんが歩行器で歩く患者さんをサポートをしたり、気道切開した患者さんを丁寧にケアしている姿が見られた。ある意味でこの病棟は濃密な生活感を醸し出している。作業をしている私たちに通りがかる患者さんや患者さんのご家族が話しかけてくる。この取り組みをしていて一番感銘を受ける場面だ。この病棟では職員さんも積極的に話しかけてくる。実のところ私たちに構っていられないほど忙しいはずだが、努めて周囲に目配せし、声を掛け合うゆとりを意識的に創りだしている。必要なことを自然な成り行きで実行されているのがすばらしい。
ある職員さんとお話しする。その方は私の勤める名古屋造形大学の近隣、桃花台に暮らしているそうだ。本学の周辺は田畑に囲まれている。そこから2、3キロ離れると桃花台や高蔵寺などのニュータウンが現れる。私がお話しした職員さんはニュータウンとして開発される前に嫁いでこられたそうだ。住んでおられる家の傍らにはとめどなく清水がわき、自然の摂理を感じる日々だったそうだが、土地の掘削や舗装などの開発が進むにつれ清水は枯れてしまったそうだ。「便利で快適を求めて、大事なものを失っているんですね。」と私が話しかけると、その方は「便利は皆ゴミなのよ。便利なものはゴミになるでしょ。」とおっしゃった。
ここは都市部の急性期病院の病棟。そこでこんな話ができたのがとても新鮮だ。こうした出会いの連続が私たちの取り組みとその場所との結びつきを強くしていく。
17:30 天野の作品の設置作業を終えて、撤収。院内の食事時間を避けての搬入は首尾よく行うことができた。
スタッフ川島はその間院内の作品のメンテナンスとアンケートボックスの回収作業を行う。両手に道具類を携えて病院の階段を降りていくと、階段の明かり窓に切り取られた小牧の町並みが目に入ってきた。屋根と壁が織りなす幾何学的なリズムが美しい。まるでミニチュアのようだ。その窓が額縁のように感じられ、つい今しがた設置してきた作品とイメージが重なる。