Nobuyuki Takahashi’s blog

Archive for the ‘被災地支援’ Category

宮城県七ヶ浜町 らせん

2013年 4月 14日

鼻節神社を左に見ながら山道をしばらく進んで行くと花渕灯台に着く。想像していたより大きく立派な灯台だ。同行してくれたRSYの郷古くんに「僕の10歳の誕生日プレゼントはね、灯台の絵が欲しいって親に頼んで知人に油絵を描いてもらったんだよ。」となつかしいエピソードを話す。灯台のさらに向こうにけもの道が続く。松葉で覆われた道は滑りやすいが適度な弾力が心地よい。しばらく進むと怒濤の響きが近づいてきた。海は近い。松林の隙間から荒々しい海が見え隠れする。ほどなくして松林を抜けると岩場の絶壁が現れた。瀬戸内海を見慣れた私にとって、別次元の海だ。海流が早く、海に落ちたら岩に打ち付けられるのは必至だ。足下をすくわれるような猛々しい怒濤を目の前にして、早々に退散する。三方を海に囲まれた七ヶ浜町。海の表情は同じ半島でもこれほどまでに違うのか。
鼻節神社を参拝。森のいたる所に樹木に巻き付いた蔓を見つける。折れた枝、立ち枯れた大きな幹を巻き取り放さない。中には樹木の成長が蔓の力と拮抗してめり込んでいるものもある。
螺旋。一つのキーワードが浮かぶ。渦巻く海と山の蔓は原初的な造形をもたらしている。
吉田浜には多くのヨットが停泊しているのが見えた。花渕の猛々しさとはうってかわっておだやかだ。RSYの郷古くんの話しでは小さな浜にはボランティアの清掃活動をしていないところもあるようで、その一つに立ち寄ってみる。やはり流れ着いたがれきがある。一方で流木も見つけることができた。角が丸くなった家屋の梁や柱もある。その一本を2人で車まで運ぶ。枘穴のエッジはシャープにのこっているが、角材とはいいがたいほど波に洗われて材の素性を露にしている。何か語りかけてくるようで、持ち帰ることにした。
代ヶ崎浜の周辺も津波の水が入った場所だ。火力発電所が援衝となって津波の直撃を免れたお宅もあったというが、水がとぐろを巻いた、という話しも聞く。海苔を巻く大きな円筒形の構造体を見かける。どのように使うのか皆目見当がつかないが、資料などで後に調べておきたい。わかめ漁の漁師さんが大量のロープを丁寧に巻き積み置いている。ここにも螺旋を発見。
東宮浜は工業地帯だ。工場が立ち並ぶ。この辺りは地盤沈下が激しく、雨や大潮のときは冠水するらしい。一見平静を取り戻しているように見えるが、改めて地震の理不尽なエネルギーを感ぜずにはおれない。
道中、通学途中の中学生たちを見かける。向洋中学校と七ヶ浜中学校の生徒だ。青白のジャージと黄青のジャージはよく覚えている。仮設住宅の表札を作る時、そして仮設店舗の看板を作る時も中学生らはいつも参加してくれた。生徒さんの一人に「先生、美術教えに来て!」と言われたのが印象にのこる。七ヶ浜中学校は地震によって建物が損壊し、一時向洋中学校で授業を受けている生徒もいるようだ。
歴史資料館を訪れる。資料館は残念ながら閉館間際、貝塚跡地のみ歩く。芝と桜で整備が行き届いていて、知らなければここが貝塚が多く出土していることに気づかないだろう。縄文時代、弥生時代、そして古墳時代に通じて貝塚が層を成している場所もあるそうだ。6mの縦穴を掘った調査保存のためのサンプルもあったそうだが、今は埋め戻されている。
もう一泊することに決めた。明日は歴史資料館をゆっくりと訪れたい。
きずな館に帰ると午前中に出会った漁師さんが大きな鍋に一杯のわかめと白魚を差し入れしてくれた。
わかめのしゃぶしゃぶをすることになった。湯通しした瞬間に美しいグリーンに発色する。新鮮なわかめだからこそだ。ジャガイモとわかめ、シーチキンの煮付けも食す。(つづく)

花渕灯台を見上げる

猛々しい海の表情

蔓がめり込む樹木

海苔を巻く構造体

螺旋を描くロープの集積

宮城県七ヶ浜町 海とともに生きる

2013年 4月 13日

松ヶ浜を抜け菖蒲田浜に入る。
漁師さんが網にかかった白魚を笊にあげている。日に焼けた顔は海の男そのもの。「俺たちは海とともに生きて行かねならんけど、海に恨みを持っている人もいるんだぁ…。」海に出ること、海の幸を生業とすることの複雑な心境が伝わってくる。
「釣りキチ七ヶ浜」は釣りに訪れた人が釣り道具や餌を買いにくるお店。海岸に立地しているので、まともに津波をかぶっている。それでも店主さんは震災後いち早く自分の手で小屋を再建し、展望室を屋上に設えた。浜に入る道で真っ先に目に飛び込んでくるプレハブ小屋はまさに海とともに生きることを表明している。 この展望室から一本松を一望できる。菖蒲田浜にも一本松があるのだ。波打ち際にせり出しているたった一本の老松。根は岩を掴むように伸び、枝ぶりはむしろ貧弱で、力強さと儚さが同居している。「釣りキチ七ヶ浜」の展望室から眺めた一本松や朝日の写真が室内の壁を埋め尽くしている。その中でひときわ目をひいたのは手ぶれの激しい濁流を写した写真。津波が押し寄せた時のものだ。ウミネコやカモメを餌付けしているので、間近に鳥が見られて楽しい。
昼食後は高山の海水浴場にも立ち寄る。白波の合間に黒いドットのように見えるのは浜に帰ってきたサーファーたちだ。2年前は流れ着いた大きなコンテナが砂浜を占拠していた。独特の景観を構成する浸食した岩場は変化に富んでいて近づいてみると粘土質の地層だったり、火山性の礫を含んだ安山岩の塊であったりする。遠浅の海から続く浜の集落と高台の住宅地が広がる内陸部とは断崖状の線でひかれる。この高台と浜の境が水の入ってきた領域とそうでなかった領域の線でもあり、同時に昔から浜で暮らす人々と新興住宅が多い高台を分つ。
だからこそ、昨日のワークショップ「きずな公園をつくろう」で、参加した住民の方々のほとんどが「七つの浜」とそれをつなぐ「海」をキーワードにあげていたのだろう。そして将来を託す「子どもたち」が宝だ、との声も多かった。浜ごとに自律していたコミュニティーが震災をきっかけに浜同士をつなぐ結束になる、そんな希望を抱いているようにも感じる。(つづく)

限りなく透明な白魚

海とともに生きる釣りキチ七ヶ浜

一本松

ウミネコとの対話

帰ってきたサーファー

宮城県七ヶ浜町 触れる

2013年 4月 12日

6:00起床。早朝の菖蒲田浜を歩く。
私が4月に七ヶ浜町に来たときは流された家屋、車、名付けることのできないものたちが流れついていた。中には車が突き刺さっているお宅もあった。「がれき、と呼びたくない」そんな言葉が頭をよぎった。
9:30朝食を済ませ、災害救援NPOレスキューストックヤード(※以降、RSYと表記)の郷古くんといっしょにきずな館を出発。七ヶ浜町に由来となっている七つの浜をめぐる。
三方に浜を擁す七ヶ浜町の南部を訪れる。湊浜は半島の付け根の辺りの地区。傍らに製油所があり林立する煙突が印象にのこる。湊は「水門(みなと)」が語源になっているようで、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、蝦夷征伐に上陸した『竹ノ水門(たけのみなと)』だった、と言う伝説がある。地層が露になった断崖には横穴の墳墓跡があり、その根元には昔使われていただろう井戸を見つけることができる。使われなくなって久しいこれらの井戸も震災直後は使われたことがあったそうだ。浜は遠浅の海となだらかに地続きで、内陸に入ったある地点から断崖状の高台となる。
粘土質の地層から水が滲み出している。縞紋の濃い粘土塊と溶岩と思われる重たい火山岩を採取する。

2011年4月 七ヶ浜町にて

2011年4月 七ヶ浜町にて

井戸や鉱泉水がいたる所にある

地層から滲み出す水

採取した土

宮城県七ヶ浜町 声

2013年 4月 8日

きずな館に戻り、今日のワークショップ「きずな公園を作ろう」を振り返る。七ヶ浜町の住民の皆さんが語った様々な思いのかけらを集め、エレメントを掬い出してみる。
それらは言葉の断片ではあるけれど、話し合いに加わったことで言葉の背景にあるもの(こと)やニュアンスが感じられた。現場でしか捉えることのできない感応の質感。次に何をリサーチすればよいか、自ずと見えてくる。
まず、きずな公園候補地の現場を隅々まで味わいつくしてみる。そして、三方を海で囲まれている七ヶ浜町をじっくりと時間をかけて歩いてみる。行く先々で土や植物、瓦礫、漂流物など、ありとあらゆるものに触れ、収集してみる。「石塊の声を聞く」ことが次にやるべきことだ。
翌日は七ヶ浜町の由来となる七つの浜を巡ることにした。災害救援NPOレスキューストックヤード (※以降RSYと表記)の郷古くんが 水先案内人となってくれる。(つづく)

津波で甚大な被害のあった菖蒲田浜。津波で流されたお宅にのこる基礎部分。

宮城県七ヶ浜町 モニュメントプロジェクト始まる

2013年 4月 7日

4月4日から6日まで、宮城県七ヶ浜町に行ってきた。
災害救援NPOレスキューストックヤード(※以降RSYと表記)との連携で新しいプロジェクトを始めるためだ。 RSYは東日本大震災直後に現地に入り、災害救援、支援活動を展開。私はRSYがコーディネートする第3陣ボランティア派遣活動に参加したのが縁で、仮設住宅の表札を作るワークショップ、その後は仮設店舗の看板を作るワークショップを担当した。いずれも瓦礫を単なる瓦礫としてでなく、記憶を宿した大切な資源として活用。津波で流されてしまったお宅のかろうじて遺った土台木を活用して制作した。
東北行きは昨年の10月に「森をつくるおりがみMorigami」(デザイン:谷崎由紀子)を手渡しする活動で訪れて以来半年ぶりだ。七ヶ浜町のボランティアセンター前に設置された「きずな館」にいつもお世話になっていたが、3月末に閉所式があり、4月中旬にプレハブは解体されるとのこと。RSYは新拠点に移転して、ひきつづき現地で支援活動を続けるそうだ。その取り組みの一つとして「きずな公園」を整備する計画が進んでおり、私たちは公園内に設置する予定のモニュメント制作を受け持つことになった。
さて、今回の七ヶ浜行に話しを戻そう。
電車とバスを乗り継ぎ、13:00に七ヶ浜町に到着。お腹がすいたので仮設店舗「七の市商店街」のお店の一つ、「夢麺」へ。「いらっしゃい!!」威勢のいい大将の声。久しぶりの再会だ。塩ラーメンと餃子を食す。
ラーメンを啜っているとRSYの浦野さんから電話が。「今日のワークショップの打ち合わせをしましょう」とのこと。食事を済ませてそのまま中央公民館へ。RSYの代表理事栗田さんと初めてのご挨拶を交わし、さっそく今日行うワークショップの打ち合わせに入る。
13:30RSY主催のワークショップ「きずな公園を作ろう」が始まる。住民の皆さんが30〜40名ほど集まっているだろうか。親子連れも多く、皆で子どもたちの公園を考えて行こうという機運に満たされている。
栗田さんの歯切れのいい司会で、ワークショップは進んで行く。
植栽や複合遊具などを請け負うのは岩間造園株式会社。基本構想の説明が続く。公園整備事業を全面的にバックアップするのはブラザー工業株式会社だ。
モニュメント制作に関してはたった5分の打ち合わせの後だったが、私の方から住民の皆さんにいくつかポイントを説明した。「ここ七ヶ浜町にあるものを使います。」「ここで暮らしている皆さんといっしょに作ります。」と呼びかけ、ひとりひとりが思い描いている七ヶ浜町、町でのこっているもの、のこしたいもの、後世に伝えたいこと、大切にしたいこと、町の誇り、宝などのキーワードを挙げてもらうようお願いした。
ワークショップは7〜8名のグループがそれぞれテーブルを囲んで進められて行く。小気味よく時間を区切って、ひとりひとりの思いや考え、アイデアなどを集め、付箋でマッピングして行く。ブレーンストーミングの集合体と言ったら良いか、活気のある議論がそれぞれのテーブルで交わされている。
14:30それぞれのグループの意見の集約を試みて、発表する。大人だけのテーブル。子どもたちだけのテーブル。女子グループだけのテーブル…。論旨をまとめるというよりは一つのものを皆で生み出して行くための言葉と感性のかけらを集め、それを皆で共有する場。私たちはそれを引き受けて次なるプランを構築して行くことになる。15:00ワークショップ終了(つづく)

きずな館と救援活動用のベンツジープ

震災遺構と解剖台

2012年 7月 1日

石巻の車道の真ん中に流れ着いた「巨大缶詰」の解体、撤去が始まったそうだ。私も石巻に行った際、この巨大な缶詰を揉んだ自然の脅威を前に呆然と立ち尽くした。
水産加工会社「木の屋石巻水産」の魚油タンクだった、「巨大缶詰」は同社の看板商品である「鯨大和煮」のデザインをそのまま拡大したもので地元では名物だったという。それが、津波で約300mも流され、中央分離帯に横倒しになっていた。
保存を求める声が多く寄せられたそうだが、被災した当事者からは「思い出したくない」という声も少なくなかったという。移動して遺す案も浮上したが、高さ10mを越える「巨大缶詰」を運ぶには電線を切ってはつなぎ直す大工事が不可欠となる。費用も莫大にかかるだろう。解体した「巨大缶詰」の断片は今後テーブルや椅子にリメイクされ、同社の新工場敷地に置かれるそうだ。
こうした震災遺構と呼ばれる場所や事物は今後急速に姿を消していく。そうしたなかで「遺す」選択をした所もある。
遺すか、遺さないか。
とても多数決で決まるものではない。議論の末、正論に沿うとしても、「正しさ」は立ち位置によって異なる。答えは、ない。 有識者の提言に基づいたり、行政の強力なリーダーシップにより「遺す」に至るのも理解はできる。しかし忘れてはならないのは、「震災遺構」とは、都市の傷であり、そこで暮らす人々にとっては「痛み」そのものなのだと思う。自分から遠くにある傷口に興味本位で反応することはあってはならない。心理的な距離のみでなく、物理的な距離を縮め、肉薄して体感しなければ、その「痛み」の澱みに身を投じて土地の人々と共有することはできない。
「遺す」ことをその当事者たちが決断することは、自らの傷口に問いかけるようなものだ。遠くから見守る人々が「ひとごとではない」と関与するのも人としての「痛み」の回路に従うもの。組織や集団に属した場合と個人との見解が異なることも不思議ではない。その大きなブレが描くグラデーションに決断の楔を穿つ。簡単なことではないし、それを安易に「判断の正しさ」に還元してはならない。
ハンセン病療養所大島で2010年の夏、瀬戸内国際芸術祭直前に海岸に打ち捨てられた解剖台が発見された。島内で実際に使われていた、解剖台である。再発見からわずか1週間の間に解剖台を引き上げ、今は使われていない一般独身寮15寮前に設置した。いきさつは複雑に絡み合って直線的ではないのだが、私が入所者自治会の皆さんに解剖台の引き上げと設置を提案したのは事実だ。島内外で当時吹き荒れた感情の渦を何かに喩えることは難しいし、体感したものを私が喩えて表現するのを、許されるかどうか…。一つ確実に言えるのは、「私は何者で、どこに立っているのか」突きつけられ、立っているのも危ういほど揺るがされたということ。遺されたという事実、遺されたものが私たちの前にある。そこから出発するしかない。

私が見た石巻の巨大缶詰

大島の解剖台

十日町病院でのワークショップ提案

2012年 6月 29日

お昼に十日町に到着。地元名物へぎそばを食す。こののど越し、たまらない。 駅から歩いて15分ほどのところに新潟県立十日町病院はある。今回の妻有入りは9月に行う予定のワークショップの打ち合わせのため。これまでに2006年に非公開プロジェクトとして院内各所に作品を展示、2009年には病院のすぐ傍らにある空き家「やさしい家」を拠点に、病院の日常にこまやかに対応するプロジェクトを実施した。院内に入る前に是非とも「やさしい家」に会いに行きたい。 そう、「会いに」と書いたのは、他でもない私にとって、そして一夏をいっしょに過ごしたメンバーらにとって、あついあつい思い出の場所だからだ。 「一生のうちで二度とない体験ですよね。」と吐露した学生も少なくない。雑魚寝で隙間なく埋まった2階の和室。2台の一升炊きの炊飯器がフル稼働で、おにぎりを握りまくったあの日。院内に展示する作品やワークショップの実施方法について夜を徹して議論を重ねた日々。鮮明な記憶が蘇ってきて胸があつくなる。
「やさしい家」と挨拶を交わしたあと、十日町病院へ。さっそく十日町病院塚田院長にご挨拶。院長は相変わらず体格も立派だが、人柄の大きさ、おおらかさが全身からあふれている。会うだけで胸がいっぱいになった。 院内をくまなく歩くと2009年に制作した作品の一部が飾られていたり、活用されているのを見つけることができる。たとえ多くの利用者さんが行き交い、毎年職員さんの移動があっても、忘れないでいたい記憶というものがある。その一つに数えられている私たちの活動。言葉にならない。 9月に行う予定のワークショップについて塚田院長と上村事務長補佐と打ち合わせ。あいまいだった実施方法、ワークショップの方向性が私たちの提案に呼応するようにまとまっていく。お互いの信頼感から建設的な議論が交わされていく、この臨場感が心地よい。 打ち合わせの後も再度院内をつぶさに歩く。人の導線、担当者の配置、タイムラインの構成…が鮮明にイメージされる。 やっぱり現場での検討が一番だ。持ち帰る宿題は山盛りだが、ワークショップの実施イメージは固まった。 イメージできることは必ず実現できる。
ワークショップは「震災支援」へと方向を定めることができた。病院で行うことの意味、中越地震に遭った当地、十日町で行うことの意義―。



手描きっていいね 七ヶ浜町仮設店舗オープン

2011年 12月 11日

12月11日
宮城県七ヶ浜町の仮設店舗「七の市商店街」がオープンした。
オープンセレモニーが行われ、豚汁の炊き出しがあり、餅つきでのふるまい、ソーラン節の踊りなどが披露された。500人ぐらいの来場があったとのこと。にぎわい、はなやぎの場。今後の仮設店舗の成功を多くの人が願っている。
私はハンセン病療養所大島にて島で唯一残された木造船の発掘作業や定例検討会のディレクションに追われていたので失礼してしまったのだが、オープンセレモニーにはスタッフ林をはじめ、表札作り以来仮設店舗のワークショップに携わってきたメンバーら5名が現地に駆けつけた。
セレモニーでは完成した看板が燦々と光を浴びていたのはもちろんだが、惜しくも選定されなかった他のデザイン原画も仮設店舗壁面に展示され、多くの人々が心を寄せながら作られた看板であることが表現されていた。
しかし、この短い期間でよくできたものだ。この看板には表に現れない多くの人々の手の間を通ってきた。主役であるデザイン画を制作した被災地域の住民たちやボランティアは言うまでもなく、土台の木を黙々と製材した大工さんやデザイン原画からパスデータを作成したデザイナーたち、吊り看板のデザインと配色をしたメンバーたち、トレース作業をかってでてくれた人々、設置作業をお手伝いしたボランティア、まだまだこの欄には足らない多くの人々の支えがあってできた看板たち。本当に皆さんお疲れさまでした。そしてありがとうございました。
仮設店舗はオープンしたばかり。今度はいいお客さんとして見守って行こうと思う。私は後日、ゆっくりと現地を訪れる予定だ。




ひかりはがき たった一日だけの断念

2011年 12月 3日

このところ毎日「ひかりはがき」が全国からやさしい美術プロジェクトのもとに届いている。一枚ずつ切手を貼って送られたもの、複数枚封書にまとめて送られてくるもの、様々である。
私が絵はがきを描きはじめたのは3月11日の翌々日。はじめたもののそれらのはがきのほとんどは破いてしまって手もとにない。思い立った本人がこの体たらくだ。災害に遭われた人々に向けて絵はがきを描くことはとんでもなく難しい。批判されるまでもなかった。もう一つ自分に厳しく課したことがある。それは「自分は災害に遭われた方々を前にして、このはがきを手渡しできるだろうか。」という問いかけだった。「手渡し」は個々の心の内にある被災者と向き合ってはがきを描くために絶対に必要だった。
本格的に手描きの絵はがきを募集し、被災地域で手渡しする活動は3月18日に立ち上げた。後になって私はこの取り組みを「ひかりはがき」と名付けた。
震災直後の加熱した空気の中で批判と疑問の声にもまれ、肝心な「ひかりはがき」は遅々として集まらない。絵はがきのブースキットを設置してもポストにはお菓子の紙くずや落書きが放り込まれるしまつ、せっかくそろえた画材は心ない人に盗られてしまった。
私はほとほと疲れてしまい、4月11日とうとう「ひかりはがき」の取り組みを断念した。震災から一月のこと。もともと私がはじめたことだ、原点にもどり1人で「ひかりはがき」を描き、被災地域へ手渡しに行こうと心に決めた。
しかし、どうしたことか、集めるのを止めてしまったその日からぽつりぽつりと「ひかりはがき」が私のもとに寄せられはじめた。ブースキットでも少ないけれど絵はがきを描く人の姿を見るようになった。卒業生からも送られてきた。実はスタッフの林治徳が陰ながら丁寧に声をかけてくれていたのだ。寡黙にそれぞれが何を表現するかを考え、悩み、ようやくかたちになりはじめた、それに一月かかったということだろう。

4月12日、「ひかりはがき」を再開。
今振り返ると自分の気持ちの弱さが恥ずかしい。私は当初自分に近しいところではなく、自分からできるだけ遠くのところに大きく響く取り組みであってほしい、そうでなければ意味がないと強く思い込んでいた。つまりは自分の足下が視界に入っていなかったのだ。最初から大きく広がった波紋などあるはずがない。自分自身を広大な水面(みなも)に投げ込み、その一点からしか波紋は広がらないではないか。そんな単純明快なことが見えていなかった。私が悶々と苦しんでいる傍らで大きな声もあげず、よりそって悩んでくれていた一番身近な人々が「ひかりはがき」の最初の賛同者となったのである。
今ここで書いたことは「ひかりはがき」の取り組み前夜のこと。この取り組みがいったい何だったのかの検証や批評は別の機会に譲り、今は当時の葛藤を語っておきたいと思った。
「ひかりはがき」の波紋はゆっくりと、そして確実に大きく広がりつつある。今や基点など知らなくとも、「ひかりはがき」は描くことができる。でもその一石を投じた時の念いを一瞬垣間みることはこれから描き継がれる「ひかりはがき」の新鮮さを保つのに無駄ではないだろう。
「ひかりはがき」は「行動」だ。私の言う「行動」とは、例えば大切な人を看取る時に誰しも手をにぎる、あの瞬間のことである。

命からがら逃げてきた

2011年 11月 6日

愛知県内のとある施設で愛知県に避難している被災地域住民の皆さんが集う交流会が行われた。私たちやさしい美術プロジェクトは「ひかりはがき」を持参して手渡しを行った。「ひかりはがき」はこれまで被災地域に行き手渡す方法だったが、自分たちの足下も見据え、私たちが暮らす町に避難してきた人々にも「ひかりはがき」を渡そうと考えた。このブログでは避難してきた住民の皆さんからうかがった話を紹介したい。
集まったのは6世帯の愛知県に避難してきた人たち。5世帯が福島県から、1世帯は宮城県から。交流会は就労、補償の相談会も兼ねているので、特に原発の近くに住んでいた方が多かったように思う。
避難してきたそれぞれの世帯同士の交流はない。たまたま同じ町から避難してきたとはいっても必ずしも知り合いとは限らない。地元の方言で、共通の話題で安心してお互いのこの8ヶ月を振り返り、語らう。
私は皆さんの会話を横でお聞きし、手持ち無沙汰な方がいれば声をかけてお話をうかがった。

福島県双葉町から命からがら避難してきた若いご夫婦。なんと原発から3キロのところで被災。奥さんが妊娠していたため、ライフラインが壊滅したなか、道の駅などで野宿しながら避難所にたどり着き愛知県へ。その後あかちゃんを無事出産。来月に一時帰宅をするそうだ。

宮城県多賀城市 から避難。子どもたち3人と奥さんの5人で愛知県へ。地震が起きたときから津波が押し寄せるまでを詳細に語っていただいた。まさに危機一髪。なかでも目の前で知人が津波に飲み込まれて行くのをただ見ているしかなかったという体験談に胸が痛む。同級生は100人以上が亡くなったという。ご自身はPTSDにかかり夜は眠れず、夜中も悪夢にうなされて飛び起きることもしばしば。私たちが取り組んでいた表札づくりの話をすると、テレビにも放送されたそうでそのことを知っていた。「あの大きい派手な表札ですよね。知ってますよー!」

福島県浪江町から避難。ご夫婦で6回も避難を点々とし、息子さんが暮らす愛知県に落ち着いたのだという。福島では退職した旦那さんは大好きな果物作りを始めた。福島は梨やりんごがよく育つ土地柄だそうだ。10年をかけてようやくりっぱな実をつけるようになった、梨やりんごの木。遠くは東京からもりんご狩りに来てくれる人が増えはじめた矢先に、地震、津波、そして原発。毎日畑仕事に精を出していた日々から一転、何もやることはなく、身体を動かす機会はほとんどない。最近は右手が急にむくみ、動かなくなってしまった。どうやら原因はストレスとのこと。その方の手をにぎらせてもらう。土に触れてきた手だ。分厚く、そして堅牢だ。「一番の楽しみを失った。生き甲斐を失った。この先どうしたらよいかわからない。」

福島県富岡町から避難。妊娠していたので被爆を恐れて、とにかく福島を早く離れる。東京で出産。赤ちゃんをだっこさせたいただく。(大変な中あなたはくぐり抜けてきたんだね…。)ぷちぷちの果実のような手で私の小指をつかんでくる。生命感の塊。ご両親はいわき市で暮らしている。「家族全員で暮らしたい。その日がいつくるのか。」

福島県いわき市から避難。旦那さんは仕事で福島にいて、月一回愛知に避難している2歳のお子さんと奥さんに会いにくる。子どものことを第一に考えたいとおっしゃる。「地産地消のものを買って食べて被災地域を支援する。その気持ちはありがたいけれど、子どもたちのことは第一に考えて行動していただきたい。」