Nobuyuki Takahashi’s blog

2010年 6月のアーカイブ

大島 涙が出るほどに

2010年 6月 27日

6:00 となりの女子チームはすでに起きている。へとへとになって隣で寝ている川島を起こさないようにそっと起きる。雨が上がった。曇っているが梅雨空のことだ、どうなるか予測がつかない。
看板を取り付けたカフェと同じく看板を仮置きしたギャラリーに行き、全景の写真を撮影。webで活用する写真なのだが、空は晴れわたっていてほしい。午後に望みをつなぐ。
7:00 洗濯機をまわす。汗と作業のほこりでめちゃくちゃに汚れている。

なんて瑞々しくて美しい!

8:30 外で声がする。入所者の野村さんだ。いっしょに畑でミニトマトを収穫。朝起きて新鮮な野菜をいただく。大地の恵みが全身に染み込んでいく。私の家族にもこの体験をしてほしい。大島の人々はこうして生きる喜びを噛みしめてきたのだ。
9:00 朝食後に外に出ると、野村さんの奥さんも畑仕事。となりの10寮の大野さんも出てきた。野菜を眺めながら、話ははずむ。スイカが随分大きくなっていた。カボチャがなっている。野村さんが「1つ食べるか。」と1つちぎってもらう。はさみをいれた蔕から玉のように樹液が出ている。植物も生きている。
9:30 遅くなってしまった。桟橋に向かうと桜公園のあたりでこえび隊の皆さんと出会う。明るい空気を携えて人々が大島に来る。大島に泊まっていると、ちょっとだけ入所者の皆さんの気持ちが理解できる。人が来るということは外の空気とともにやってくるのだ。小さな島だ。私たちの話し声もはしゃぐ様子も島の端から端まで伝導していく。
野村ハウスに荷物を置き、まず、GALLERY 15に行く。こえび隊の皆さんに一番最初のお客さんになっていただく。「大智×東條展」の鑑賞。
部屋には何もものを置かない。ただ、大智さんと東條さんの畑での掛け合いが建物全体を包む。こえび隊の末藤さんはしばし廊下に座り込みこの声に聞き入り、涙していた。私も初めて大智さんたちの声を聞いたとき、あふれる涙をこらえきれなかったのを憶えている。伝わる人には伝わる。
納骨堂に行く。その後は北部の畑を通り風の舞に行く。その途中のことだ。畑で働く入所者はとてもいきいきとしている。その代表格に入所者の大智さ

畑作業は楽しい

んがいる。大智さんのバイタリティーは触れ合う人に伝染する。私たちもすっかり土と戯れることが好きになった。そんな話をしていたら、桜並木の向こうから上半身はだかの大智さんが自転車でやってくる。すごいタイミング。井木と泉はハーブの苗を持ってきていたので、その場で植えても良いか大智さんに交渉。そのまま畑に入り畑仕事を始める。皆でわいわいと畑の草抜き。大智さんは「楽しい。若返る。」とおっしゃる。畑を通して人と人がつながっていく。
風の舞まで行く。予定通りでない大島時間が心地よい。道草しながら横道にそれながらも私たちは大島の生命感に抱かれていく。
カフェ・シヨルに戻る。ここで作業班を二手に分ける。こえび隊崎山さんにはガイドのシミュレーションを進めてもらう。

杭を打ち込む

GALLERY 15の看板は昨日仮置きしたままになっている。大島の風は強い。吹き飛ばされないように杭を打ち込みそこに結わえ付けて固定する。川島が掛矢を福祉室作業部から借りてくる。さて、ここからが本番だ。60センチの杭を打ち込んでいく。皆慣れていない作業のなか、汗を流しながらよくやってくれている。私はギャラリーにやってきた入所者の脇林さんと一緒に新聞社の取材を受ける。松をテーマにした展覧会のビジョンを二人で語りあう。
ふと気がつけば大島にいられる時間が少なくなっていた。最終の高松便に乗船しなければならない。杭を打ち込んだあとは私以外は文化会館に行き、Morigamiの展示作業を継続する。私は看板を杭に括りつける作業にとりかかる。
16:00 作業終了。後片付けと荷造り。
16:30 まつかぜに乗船。強い日差しと重労働で皆へとへとになっている。作業に追われて十分にインタビューができていない新聞記者さんから質問を受ける。
17:00 高松の桟橋に到着。私たちは間髪入れずにレンタカーに乗り込んで名古屋に向かう。
こえび隊の皆さんが私たちを見送ってくれた。車中では皆さんの活躍の話で持ち切りだった。すでに私たちやさしい美術とこえび隊大島チームは多くの思い出を共有している。芸術祭のスタートラインが見えてきた。

大島 看板を立てる!

2010年 6月 26日

6:30 夜行バスが高松駅に着く。あいにくの雨だ。でも作業は進めなければならない。瀬戸内国際芸術祭開幕まで私たちに残された時間はわずかだ。
高松駅傍らにあるいつも立ち寄るパン屋さんで朝食。サンドイッチをほおばる。そのあとはサンポートの待合所で時間をつぶす。私は今日明日の作業の段取りを準備。
9:00 桟橋に向かうとこえび隊の小坂くん、末藤さん、崎山さんが矢継ぎ早に集まってくる。AFGの高坂さんが笑顔で送り出してくれる。
9:05 まつかぜに乗船。前田船長が笑顔で向かえてくれる。
9:25 大島に着く。桟橋に作業着姿の井木と泉が待ってくれている。大島に来た。すなおにうれしい。
納骨堂を参拝したあとは、早速荷物運びを始める。文化会館では森をつくる折り紙Morigamiを展示する。福祉室作業部から車を借りて折り紙キット、Morigamiを立てるダボ、使われなくなった家具類をGALLERY 15のストックヤードから運び出す。雨が運搬に向かう気持ちをスポイルする。それでも着実に作業を進めていく。井木と泉はカフェの設えを徹底的に打ち合わせる。店の運営、人の導線などなど。
私たちはギャラリーに戻り、梱包して運んだGALLERY 15の看板を開梱してギャラリー前に運ぶ。私が指示した位置に看板を据えていく。イメージ通りだ。看板が立つことによって、建物の位置づけが大きく様変わりする。
12:30 昼食の時間をとる。ここでこえび隊の皆さんとディスカッションする。大島を外に開いていくために私たちは何をしなければならないか。ボランティアでガイドを担当する人と、取り組みを運営する人との情報の格差や経緯を含めた決定事項の共有が大事だ、との意見もあがる。特に末端で一般来場者と直に接するガイドを務めるプレッシャーはとても大きい。そのプレッシャーをはね除け足腰の強い活動としていくには、問題を個人がためこむことなく体験の共有をはかることが大切だ。
14:00まで議論は続いた。これほどまでに大島のことを考え、{つながりの家}の取り組みに真摯に向き合う方達が集まってくれるのをただ感謝するのみである。午後の作業にうつる。私は文化会館に置いた家具類をレイアウトしてMorigamiを植えていく設えを決定していく。使われなくなった家具類を大地、山に見立てて森を育んでいくイメージだ。ある程度指示をしたあとは私はGALLERY 15のスピーカーシステム設置の仕上げにとりかかる。点吊りでスピーカーユニットを取り付けていく。再度音のバランスをみる。床置でバランスをはかったが、天吊りにすると音の指向性は微妙に変化する。その微妙な変化を聞き取りながら、最後の微調整。ここだ、というバランスに出会う。
15:30 雨が小降りになってきたのを見計らってカフェの看板を取り付けることにする。トタンを塗装した錆び止めペンキの色とマッチした看板は色も大きさもそしてデザインも申し分ない。最高のできばえだ。しばし看板の完成をよろこぶ。
ギャラリーに戻り作業の継続。
16:00 いつの間にか時間は過ぎていく。こえび隊の皆さんが帰る時間だ。桟橋まで見送りに行く。雨脚が強くなってきて、傘なしで見送りに行った私に「風邪をひいては大変なんで、見送り、大丈夫です。」とこえび隊の末藤さんからやさしい声をかけていただく。
(お言葉に甘えて。また明日もよろしくお願いします)
その後もギャラリーに戻りセッティング作業を続ける。
夕食後もセッティングの作業。
22:30 お風呂にはいる。
その後も作業。
1:30 就寝。

設置の終わったカフェの看板

仮置きした看板

足助 BBQ

2010年 6月 25日

4:30 起床。
5:30 自宅を出発。始発の地下鉄に乗り、春日井駅に向かう。
6:20 春日井駅着。大島メンバー井木が私とスタッフ川島を待っている。井木の乗用車でレンタカー屋さんへ向かう。
レンタカー屋では大島メンバー泉が商用車を借りて待機していたところだった。私たちは泉が運転するレンタカーでまずは大学に向かう。今日は先行して井木と泉がレンタカーに荷物を載せて大島に向かうのだ。あまりにも荷物が多いため、私と川島が積み込みを手伝い、送り出す段取りだ。私と川島は今日の夜行バスで高松に向かう。
大学で大量の荷物を積み込む。ハイエースバンの貨物室が満杯になる。
7:00 井木と泉を送り出す。気をつけていってらっしゃい。その後はひたすら仕事。マナーペーパーのレイアウト、ルートマップの手直しをする。
お昼に借りてきたレンタカーに乗り込む。足助病院の職員さんたちとのバーベキュー。病院とアートのコラボレーションプロジェクトで職員と一緒にバーベキューをしているところは全国探してもおそらく私たちだけだろう。病院内での研究会では見られないドクターたち看護師さんたちの素顔に触れる良い機会だ。毎年皆楽しみにしている。16:00出発組と17:30出発に分かれて足助町につく。川縁で炭火をおこし、肉を焼いて食べる。やさしい美術のメンバーと足助病院の職員との信頼関係はこうした「食べる」という時間を共有して生まれていると言っても過言ではないだろう。
私は早川院長と大山看護部長と歓談しながらこの場を楽しんだ。足助病院は老朽化が進んだため、新しい建築の計画を進めているところだ。その計画のなかに私たちやさしい美術プロジェクトもまぜていただく。
20:30 バーベキュー終了。学生たちはまだまだ楽しくやりたいという雰囲気だが、病院職員さんらは明日も仕事だ。「今年もよろしくお願いします。」まるで新年のように挨拶を交わして散会。
レンタカーに乗り込んで帰路につく。今回バーベキューに参加したのは14名。そのうち8割が今年に入ってきた新しいメンバーだ。こころなしかメンバー間も緊張が解け、良い空気感が生まれている。
21:30 春日井駅にメンバーを送り、レンタカーを返却。
22:17 スタッフ川島と名古屋行きのJRに乗る。
23:00 そのまま夜行バスに乗り、高松へ。睡眠不足も手伝って、よく寝られそうだ。

早川院長、大山看護部長、ミンダナオ島から研修にきているお二人。

小牧市民病院研究会

2010年 6月 22日

16:00 授業を終えてすぐに大学を発つ。今年度一回めの研究会を行う。早いもので小牧市民病院との協働関係は6年を越えた。当初は院内に「癒しとやすらぎのプロジェクト委員会」を設置していただき、幅広い年齢層、広範囲の部署から委員を集め、毎月緊張感のある研究会を行っていた。小牧市民病院は典型的な急性期病院だ。広大な3階フロアは手術室と集中治療室で埋まる。集まる看護士さんやドクターはいつも顔面蒼白でいつもぎりぎりで仕事をしているのが伝わってくる。病院職員に負担になることもあって2年前からこの委員会形式を解体し、必要に応じた部署との協働にしぼりこんだ。
今回は4月に実施した職員向けのアンケートをもとに、私たちやさしい美術プロジェクトの方から作品の設置がのぞまれている部署、いっしょになって問題を解決していくことができそうな部署に作品プランを提案する。
その作品プランとはモビールである。一昨年から昨年にかけて2年間小児病棟の環境整備に取り組み、病室の天井にモビールを届けるというものである。ところが、最終的には子どもたちが飛びつき、ベッドからの落下の危険性が否めないところから病室内の展示を断念した。最終的にはデイルーム天井に張り巡らしたワイヤーにびっしりとモビールをつり下げた。
今日、お話しさせていただいた4病棟と6病棟。建物自体の環境は画一的で変化はない。しかし、入院している患者さんは違う。4病棟は妊婦さん、赤ちゃん連れのお母さんが入院していて、院内では唯一「めでたい」場所でもある。一方6病棟は脳梗塞や脳血栓などで脳にダメージを受けた方が多くいる病棟。看護士さんらが目の届くデイルームで食事をする方もいる。このように病院と一口に言っても、病棟によって状況は一変するのだ。そうした諸条件を担当の看護師さんから聞き、さらに現場に行きその現実を肌で感じてくる。
研究会が終わったのが18:00。ちょうど食事の時間なので、担当の看護師さんに断って6病棟に見学に行った。デイルームの真ん中に楕円状にテーブルを置き、それを囲むようにして5〜6人の患者さんが食事をとっている。点滴を打ちながらの方がほとんどだ。看護師さんは食事中もできるかぎり話しかけるようにしていた。食事中の会話を大切にしているのだろう。私たちがここでやるべきことは、この空気感の中でさして気にかかるでもなく、なんとなくいつもより明るく、心地よい空間にすること。作品を注視してしまうことがないように配慮しなければならない。

レンチで手すりをはずすスタッフ川島

18:30 鷲見広孝くんが制作した作品「その下にあるもの」を一時搬出する。渡り廊下の1階と2階をまたにかけるように虹を模したダイナミックな作品だ。プラスチック段ボールに穴を開け和紙を貼り込んでおり手間もかかっている。しかし、いたずらのためその和紙部分に穴を開けられ、虹のシェイプが認められないほどに痛んでしまっている。痛々しいダメージを受けた作品は病院にはにあわない。
20:30 搬出作業終了。例によってスタッフ川島と搬出ラーメンを食す。

一時搬出した鷲見広孝作「その下にあるもの」(部分)

缶コーヒーの味

2010年 6月 21日

12:20 学生有志で情報誌を発行しているクロッキーの取材班がプロジェクトルームにやってくる。迎え撃つは私とリーダー古川。
やさしい美術プロジェクトについてページを割いてくれるとのこと。学生の反応がうれしい。とても気持ちのよい挨拶。質問もよく整理されていて、相当の準備をしてこの取材にのぞんでいるのがわかる。こんなにがんばっている学生がいるのだ。うきうきしてくる。
リーダー古川と取材を受けながら、私が13年前に制作した作品を思い出していた。その作品は今も古川の住む街にある。
とある公園のパーマネントコレクションとして彫刻作品の制作を町から依頼され、私はなんとしてもその年にそれを完成せねばならなかった。しかし、私の兄ががんで倒れ、その影響で依頼された彫刻の制作が頓挫していた。何もしてなかったわけではない。「作品」という決着の付け方に真剣に悩んでいた。今までにない感覚だった。
年末、しびれを切らしたディレクターと町からすごい勢いのおしかりの連絡が舞い込む。私は一旦提出していたプランを白紙に戻した上に年度末にさしかかっても制作が一向に進む気配がないことから、当然と言えば当然だが、契約違反だとの厳しいことばが降ってきた。私はそれを機会に、現場制作の作品プランに切り替えどっさりとドローイングを送った。それは公園に穴を穿ち、こぶし大の石材を敷き詰め、私自身の身体がすっぽりと入るくぼみ、私自身の雌型を大地に穿つ作品だ。永久に続くと思われそうな、私という存在は一時的な現象である。認識の範疇にある枠組みの横っ腹に風穴を開ける表現をしたい、と日々もがいていた。すなわちそれは生という縦軸に対して死という横軸に身を置くことだった。
2月10日 兄の最後の一息を家族で看取った。
葬儀が終わり、その翌日。私は先に説明した作品の制作を始めた。ツルハシの最初の一振りの感触は生々しく記憶されている。
その作品は思いもかけない体験を私に授けてくれた。私が地面に穴を掘っていると、ある初老の女性がそっと私に缶コーヒーを差し出してきた。それまで挨拶さえかわしたことがなかったが、その方は毎日散歩の度に一心不乱に作業している私のことを見ていたのだ。「初めて自動販売機で缶コーヒーを買ったよ。」この缶コーヒーのなんと温もったことか!しかも全く同じ缶コーヒーの体験は新潟県立十日町病院の設置作業中にも起きたのである。
「わしはこんなものを作れと頼んだ覚えはないぞ!税金の無駄使いだ。」と罵声を浴びせる方もいた。町のコミッションワークであるとはいえ、美術作品と地域住民の間には深い溝があるのだと感じた。むしろその溝に深く浸透してお互いを溶かしくっつけていくことが美術の役割かもしれない、そんなことを感じていた。
概念ではなく身体でわかる感じだった。ネガティブなこともポジティブなこともやつれて心棒のみになった私の心に肉付けされていくような感覚をおぼえた。大地に穿った、ちっぽけな私の身体を投げ出す装置。たったそれだけの営みだとはいえ、他者の地にしるしを刻むことの抵抗感を私は確かに受けとめることができた。
リーダー古川がこの作品を自宅近くの公園まで観に行ってくれた。はずかしいけれど、でもちょっぴりうれしかった。

大島特設サイト作成中

2010年 6月 20日

※5月28日、29日、30日の大島、6月11日、12日、13日の大島遅くなりましたが、ブログをアップしました。ご一読ください。

今日は日曜だが、オープンキャンパスで出勤。
8:35 春日井発のNZUバス(通学バス)に乗る。
一日受験生の相談にのる。話をしていると、途中から視線が遠くなる受験生。私の話がむずかしかったのか、興味が持てなかったのか、集中力が続かなかったのか…。
17:30 同じくNZUバスで春日井駅に向かう。ものすごい豪雨がバスの屋根をたたく。ところが春日井駅に着いてみると曇っているものの雨が降った形跡さえ見当たらない。この季節独特の局地的豪雨か。
19:00 帰宅。
昨日から続けてwebの大島用特設ページを作成している。昨年はスタッフに優秀なデザイナー井口がいた。今年はつたない技術とセンスで私がデザインを担当。きっと何千というアクセスがある大島特設ページ。お楽しみに!

製作中の大島特設ページ

発達センターちよだ ワークショップ直前

2010年 6月 18日

今日は発達センターちよだでの今年度最初のワークショップである。2年前に行った「泥で描く」ワークショップを再度行おうと準備をしてきた。屋外で90センチ×180センチの大きな画面に全身で描く大胆な企画だ。季節柄雨のことが気になる。そこで雨が降った場合は屋内で行うワークショップの準備も同時並行してきた。スタッフ川島とお昼までそれぞれの仕事をこなす。お昼近くになり雨が本降りになってしまった。判断は、屋内での取り組み、だ。
11:30 川島がレンタカーを借りに行く。
12:30 今回のワークショップメンバーが揃う。川島、浅井、森、原嶋、服部の5名。初めて子どもたちに会うメンバーが今年度から参加している3名のメンバーだ。「発達障害を持つ子どもたちに接する時はどうしたらいいですか。」「子どもたちのプロフィールを教えてください。」など、声があがる。私はしばらくそのやりとりを見守っていた。初めて会うのだ、不安なのは当然である。「たとえ障害についての知識があっても、子どもたちはひとり一人違うのだから、会ってみなければわからないよ。でも不安なのは当たり前だよね。お見合いみたいなものだから。障害がある、ないに関わらず、初めての人に会う時の心構えが大切だと思うよ。こちらが心を開かなければ、相手にもそれが伝わっちゃうし。」という話をする。私自身も3年前に発達センターちよだに行き、子どもたちに会うまでその肌合いはわからなかった。いろいろ考えたり、資料を読んだりしたけれど実感は湧かない。結局先入観を持たず、自分の感性を開いて接することにしたのを憶えている。足助病院での入院患者さんへのインタビューの時と同じことだ。
13:30 発達センターに向けてメンバーらが笑顔で出発。私は送り出し。大丈夫。きっと何かを感じて、次につながる感覚を持ち帰ってくることができるよ。

足助病院研究会

2010年 6月 17日

9:00 出勤。webの新しい構成をラフスケッチでまとめる。
10:30 学務委員会会議。懸案事項が多く、予定より時間がかかる。
13:00 会議終了。プロジェクトルームに戻ると足助行きのためメンバー森が待機していた。12:00に出発予定だったが、しかたがない。
食事もままならないまま出発。車の中で森とディスカッション。母性原理の日本社会は西洋的な男性原理を受け入れてどのような矛盾を抱えているかなどなど…。
14:00 足助病院に到着。
14:30 職員食堂にて足助病院研究会を始める。やさしい美術プロジェクトは6月1日に足助病院の正式な検討機構である文化実行委員会にオブザーバーとして参加することが認可された。このことによりまず文化実行委員会で事前に作品、企画のプランを発表し、研究会でさらに現場サイドから2重に検討するしくみができつつある。今回の森の作品プランは文化実行委員会ですでに提案されたもので、研究会に集まった看護士さんも大枠の内容は掴んでいるようだった。メンバー森のプレゼンテーションは落ち着いていて、安心して聞くことができた。企画書もよく練られており、製作の意図もしっかり伝わっていた。森は演劇の経験があり、声の伝え方を心得ている。
試作を重ねて完成度を高める作品プランで、これからの可能性を感じる。作品はより具体的になったところでこのブログでもお伝えしたい。
17:00 大学に戻る。井木と泉が木工室にごやっかいになってカフェ・シヨルの看板作りに精を出している。浮き出しの文字は手間がかかる選択だったが、圧倒的存在感と高級感。納得だ。来週頭には完成。

カフェの看板は仕上がり間近

研究会の様子

同時並行

2010年 6月 15日

この季節は毎年同時並行の作業、研究会、ミーティングだ。
大島のギャラリーとカフェの看板作り、発達センターちよだの造形ワークショップ、足助病院研究会、今週はけっこう重なっている。それでも、昨年よりはずっと余裕がある。
月曜日と火曜日でほぼ完成したGALLERY 15の看板。6月末には大島に設置する。皆さんお楽しみに!

製作途中の看板

完成した看板

大島 大島案内ひきうけ会社とは

2010年 6月 13日

6:30 起床。昨夜遅くから雨が降り出した。今日は梅雨を感じさせるしとしと雨。
7:30 朝食を済ませ、洗濯機に汚れ物を放り込んでスイッチオン。野村さんの畑から「野村きゅうり」を拝借。昨日よりちょっとだけ大きくなって食べごろになった4本のきゅうり。ちょこっとだけマヨネーズをつけて食べる。めちゃうまいっ。
8:00 GALLERY 15(15寮)に行き、昨日の作業を続ける。カフェのテラス屋根を張り替えるつもりだったが、雨ですべる。次回にまわす。
午前中は徹底してスピーカーの配置、音量のセッティングに時間をかける。5つの部屋でじっくりと部屋での共鳴、残響音とのバランスをはかる。大音量で鳴らしてしまえばとも思ったが、そうではなく、「15寮=GALLERY 15が歌っている。」ような印象にしたい。微調整を重ねていくと、「これだ。」と感じるバランスに突き当たる。
12:30 午前中の調整でほぼ音響のバランスはでた。あとはスピーカーを天吊りで設置する作業である。昼食をそそくさと済ませる。
午後は一台ずつスピーカーを設置していく。天吊り金具を材木にボルトオンして確実に取り付けていく。
16:00 作業終了。結局スピーカーの設置作業を少し残すかたちとなってしまう。ぎりぎりまで作業をしていたので、後片付けは最小限、荷造りも大急ぎで。雨脚は弱くなってきた。傘は必要なさそうだ。
16:30 まつかぜに乗船。お客さんがあった大智さんに会う。「独りでさびしかったな。」と気遣いの言葉をかけていただいた。皆さん、ほんとに心やさしい方たちばかりだ。
17:45 高松港に着く。桟橋でAFG高坂さんから書類を渡される。高坂さんと別れてすぐに待合所から女性が駆け寄ってくる。大島の庵治第二小学校教諭だった佐々木広子先生だ。瀬戸内国際芸術祭会期に合わせて「大島案内ひきうけ会社」の一時的復活をお願いしていた。3年前に休校(今年に度再開)になるまで大島に在住する職員のお子様を小学校で指導してきた、大島ひきうけ会社を語る上で欠かすことのできない方である。現在は高松市内の小学校で教鞭をとっておられる。
二人でとある喫茶店に入る。現在の状況をお話しする。佐々木先生は大変お忙しい様子で、まず私と佐々木先生の都合が合う日取りを候補とし、その後社員=当時庵治第二小学校の生徒だった子どもたちに声をかけることにした。
総合学習の一環として取り組んだ「大島案内ひきうけ会社」大島を訪れた人には知られている名前だ。自分たちの住む大島に暮らしている入所者のこと、ハンセン病のこと、大島の暮らしを調べ、時には入所者をたずねて話を直接うかがう。外部からやってくる見学者を連れて大島を案内して歩き、調べてきた成果を披露した。すばらしい社会勉強である。最初にひきうけ会社が見学者を案内したのが平成12年。年間1000人を越える人々を案内した。多い時は一度に120人の人々を3つにグループ分けしてあんない業務を遂行。そのテクニックは芸術祭期間中一般来場者を案内する私たちやさしい美術とこえび隊の参考になることは間違いない。また、佐々木先生が強調されたのは、「小学生が自分たちの言葉で大島のことを伝える。大島で暮らす入所者の代弁をする。それが多くの人々の心を打ったんです。知識の解説ではなく、子どもたちの言葉で話すことで言葉が人々の中に何かを残すことができたんです。」
私たちやさしい美術プロジェクトが企画している、入所者が講師を担当するワークショップ「名人講座」。この「名人」という概念は大島案内ひきうけ会社の社員=庵治第二小学校の生徒 がつくった。森川さん:演劇名人、磯野さん:民話名人、野菜名人:本田さん、大西さん:川柳名人、東條さん:歌名人、山本さん:陶芸名人…。それぞれの特技には生き様が映されていて、子どもたちはかけがえのないものを入所者から受け取っていたのだと思う。話を伺えば伺うほど私たちの取り組みと重なるところが多い。
ほかにも案内業務のエピソードをたくさんきかせていただいた。「3点セット」と当時呼んでいた、盲導鈴/ガードレール/白線。盲人の方たちが大島で暮らすのに必需なセットだ。
繰り返しになるが「大島案内ひきうけ会社」は年間1000人を越える人々を案内した。見学者から質問を投げかけることもしばしばだったそうだ。佐々木先生はこれが大事だとおっしゃる。質問があるということは興味がある証拠なのだという。質問に答えることができないならば、調べたり、入所者にたずねて蓄えて行けばよい。その繰り返しによって自信がつくというのである。質問が飛んでくるのをびくびくしているのもガイドとしては頼りないものだ。時には見学者の方から教わったこともあるそうだ。例えば先述の「3点セット」のうち、白線について。白線は車道のセンターラインではない。入所者が微々たる視力で判別がつくのが白線であり、早朝や夕方に入所者がぼんやりと目に浮かぶ白線を頼りに散歩をしているのを見かける。そのことを見学者の1人が「人間の視力は黒地に白抜きのものが一番認識しやすい。」とおっしゃったのだという。その方はお医者さんで認知に関することに詳しい方だったそうだ。それはすぐさま大島案内ひきうけ会社の知識の1つに据えられた。肉付けされていく共有知識。googleで検索するのもいいけれど、人と人の間で育まれていくものの確かさは何にも換えられないものだ。
19:30 佐々木先生とは多くを語り合った。私が関わったここ3年間の大島は佐々木先生が知っている大島から変化してきているという実感も味わった。とにかく、佐々木先生にとって大島での日々がいかに大切であったかがとてもよくわかった。まだまだ教わることがたくさんある。また、次回先生にお会いする時を楽しみに。
20:00 ポートビルの瀬戸内国際芸術祭の事務所をたずねる。夜行バスが出るまでの間、香川県庁の大島担当者宮本さんと打ち合わせができたらと思い立った。事務局の皆さんは仕事まっしぐら。果たしていつまで仕事をしているのだろう。宮本さんとルートマップを広げて、一昨日の検討会で出てきた案件について検討を重ねる。ルートマップの作成は難航しそうだ。初めて一般に公開する大島。予想不可能なことがほとんどだ。かといってすべてにブレーキをかけてしまえば、何のために大島を開いているのかが見えてこなくなる。芸術祭開幕時はある程度の混乱は避けられないだろう。それでもめげずに前に進む足腰の強さを私たちは身につけなくてはならない。
22:00 芸術祭事務局をあとにする。
22:10 夜行バスに乗り込み、一路名古屋へ。