Nobuyuki Takahashi’s blog

2011年 9月のアーカイブ

考察 近づいてできること1

2011年 9月 25日

美術作品が社会で役割の一端を担う道筋として、強く、深く、遠く、そして多くに伝えるしくみがある。その極には国をあげてのビエンナーレ、美術館やコマーシャルギャラリーなどがあげられる。殊に現代美術はその強靭で鋭利なコンテクストによって世界に存在する事象を大胆に串刺しにし、解体し再構築する。作品はなおのこと、発信の形式の独自性と自律性を極限まで高めることで、社会に介入する。それがアートの枠組み独特の存在感であり猛々しい一面だ。

私が兄の病室でしたことは一体何だったのだろう。
昨日見られた笑顔は今日は見られなかったり、穏やかに話せたと思えば、刺のある言葉をお互い投げつけることしかできなかったこともある。まさに一喜一憂、病室の空気感は色に喩えれば寒色系の日もあれば暖色系のこともあった。小康状態もあったものの数十日というスパンで見れば兄の病状は着実に悪化していたし、入院から亡くなるまでの9ヶ月を俯瞰すれば日常の平静さから緊急を要する状況へと下降して行くまだらなグラデーションのように思えた。
兄の病状がおもうように恢復せず、本人の苛立ちが頂点に達していた頃だったと思う、私は私の描いたドローイングを病室に展示することにした。その頃の兄は何クールも抗がん剤治療に耐え、心身とも憔悴しきっていたが、まだ眼力は衰えていなかった。
自分の作品には何かしら人に影響を与える力があると曖昧な信じ込みがあったかもしれない。しかしその時の私には「アートに何ができるのか」「アーティストは何ができるのか」ましてや「癒してあげたい」「元気を与えたい」なんてお題目はまったく思い浮かばなかった。何かを与えたいというよりは、ただ兄と一緒に希望となる光を見たかった。壁に貼付けたボクサーのドローイングは私の分身であり、多くの思い出を共にしてきて私が兄と共有できる兄の分身でもあった。
ドローイングは兄がベッドに横たわった時のその目線の先に入るようにした。通常の展覧会であればかなり高い位置になる。かといってサイトスペシフィックで造形的な意識でもない。いかんともし難く衰えて行く兄の身体の延長にそのドローイングはつながれていた。
兄は余命宣告を受けてからというもの激痛に悩まされる日々、繰り返される嘔吐…。私たち家族はそのたびに足をさすり、背中に手を当て、固くしぼったタオルで兄の額を拭った。意識を失い昏睡状態におちいってからも、時折兄は声を荒げながら天井に向かって拳を突き出すことがあった。今となっては兄の心の内を聞くことはできないが。

兄の病室にいる私はアーティストである前に血のつながった弟だった。だから近くにいる者としての私は無力感に苛まれ、やり場のない怒りと不安でいっぱいだった。何ら特別なことではない、誰にも起きることだ。ドローイングを描き、飾るのも、兄と話すのも、兄の手をにぎるのもどこからどこまでという領分で切り分けられるものではない。そこではどのような思いつきも動作も表情も意味や意義の括りは霧散してつながっている。自ら求められる、求められていると感じて、自分のできることをしていただけだ。目の前にいる兄と向き合っている自分は身にまとうものは何もない。
病室を後にして、作業場にもどる。個展がせまっている作品の制作をすすめるためだ。作品の完成度を研ぎすましていく。強く、深く、遠く、そして多くの人に向けて。制作の最中ふと唐突に兄のことが脳裏をよぎる。今ここで制作していることと兄の病室で起きていることとの間に横たわる埋めようのない空白。
私がやさしい美術プロジェクトを立ち上げる4年ほど前のことだ。

1997年当時私が発表した作品

遺るもの 遺すもの 女川町

2011年 9月 19日

女川町は広大な被災地の中でも特に大きな津波にみまわれた場所のひとつだ。コンクリートのビルが大地から引き抜かれた状態で横たわっている。当地ではそれらをモニュメントとして遺すことが検討されているようだが、もちろん賛否両論あるだろう。「遺す」ことの意思決定はとてもむずかしい。
一方「遺った」ものもある。私は避難所を訪れてひかりはがきを人々に渡してきたのだが、その帰り道、荒涼とした土地に静かにたたずむ人影のような物が傍らをよぎった。ふと車を止めると、それは枝葉がもぎ取られた2本の桜の木だった。そこに張り紙が。「津波によって弱っています。皆で応援してください。」この地で生きながらえた人々がその桜の木に自らの姿を映しているのだろうか。


マルチボックス修理

2011年 9月 18日

足助病院の病棟に60個、設置されている作品「私の美術館」通称:絵はがきフレーム付きマルチボックス。入院している病院利用者のベッドサイドに季節ごとに絵はがきを提供してきた。マルチボックスはティッシュや眼鏡などの小物を入れておき利用者が寝たきりでも手を伸ばして手にとることができる。入院している方々の傍らでそっと支援、応援するもっとも身近にある美術作品といってよいだろう。足助病院と丸3年を費やして共同開発を進め、2007年に設置。耐用年数を5年と定め、ボックスが破損した場合などは責任を持って修理に務めてきた。この「私の美術館」は来年で約束の5年を数える。昨日、メンバーら5名が集まり、木工工房の榊原さんの指導のもと修理作業を行った。
学生が主体的に活動する取り組みは入学と卒業という時間制限がある。否応なく活動に携わるメンバーは入れ替わって行くのだ。この「私の美術館」は開発までを含めると8年というスパンで社会的に責任を負うことを選択した。学生をとりまくタイムリミットを越えた取り組みであること。世間では当たり前のことだけれど、それを実現するには引き継ぎや対処マニュアルの作成も学生が担い、相当の労力をつぎ込んで整備した。木工工房をのぞく。新旧メンバー5名が力を合わせて修理している姿に感動。

伝えておかなければ 亘理町

2011年 9月 17日

宮城県亘理町も津波と地震により甚大な被害を受けている場所だ。メディアにあまり取り上げられていない地域。だからこそ伝えておきたい。静かに今の現実を伝えてくる光景が広がっていた。


非常事態から平穏な日常

2011年 9月 11日

6日から7日まで宮城県の被災した地域をまわった。
七ヶ浜町は私が最初にボランティアに出かけ、「ひかりはがき」を手渡しした場所だ。避難所で暮らしていた人々は仮設住宅に移り、一見平穏な日常を取り戻したかのように見える。

レスキューストックヤードの石井さんと情報交換する。
あまり知られていないことなのでここに記しておこうと思う。

家や家族を失ったのは仮設住宅に居住している世帯ばかりではない。 避難所にいることができずに自費でアパートを借りた人、応急の仮設住宅として町営住宅や社宅に入った人もいる。それらの事由で町外に出てしまった人がいる。そして、驚くべき事実。これらの人々は震災直後から物資は届かず、支援の手や呼びかけも受けていない。生きているのかもわからず、所在が不明の人もいる。人との関係が断ち切られ、閉じこもって暮らしている人がいる。閉じこもっているというのは適切ではないかもしれない。人との交流の機会がまったくないのだという。このような人たちは町外に出て、たとえ近くであっても自分の故郷である町に戻る機会を失う。顔見知りもどこに行ったかわからない。そもそも物も情報も届かないのだから、だれがどこにいるのか、生きているのかすらわからない…。

物事は直線的に進むものではないのだな、とつくづく実感する。レスキューストックヤードはこうした「みなし仮設住宅」やそれに漏れる状況に立っている多くの被災者に目を向けて、交流の場や物資や支援が届く機会を目下模索中とのこと。支援して行かねばならないところを隅々まで掬いとろうとする懸命の活動だ。

この凄まじい状況を聞き、私も「ひかりはがき」の手渡しをどのように、そしてどこで渡していくのか、あらためて考え直すきっかけとなった。とにかく足を使って自分の感じたことからやっていくしかない。

私たちの生活は非常事態の外にあるかのように平穏な日常をベースに営まれている。しかし、私たちは知った。非常事態から断ち切られた日常なんてありえない。平穏だと思う日常には非常事態はたくさんころがっているし、非常事態から日常を取り戻すためには自らを救い出していくエネルギーが必要なのだ。

非常事態から平穏な日常にいたる延々たるプロセスは全てつながっている。そこに身を置き、創造性を発揮するアーティストがもっといてもいい。領域の棲み分けを越えて協働する場が、広大にひろがっている。

女川町の避難所にてひかりはがきを渡す。談笑しながらじっくり鑑賞

女川町。コンクリートの建物が大地から引きはがされて転がっている。

亘理町。家が残っているが津波の衝撃で傾き歪んでいる。人々が住める状態ではない。

人々の手によって清掃された亘理町。人気がなく、信号機も動いていない。

七ヶ浜町仮設住宅にてひかりはがきを渡す

七ヶ浜町仮設住宅と表札

今年は家にいます

2011年 9月 5日

今日で44歳になった。facebookでたくさんのお祝いの声をかけてもらったが、どのように返事をしたらいいかわからず(活用方法が未だ理解できていないのです…)そのままで失礼をしてしまっている。
昨年の今日は大島にいた。脇林清さんの写真のワークショップを開いた日だ。これはこれでとても印象的だった。
めずらしく家にいる私のために家族がホームパーティーを開いてくれた。子どもたちのプレゼントが最高!ご褒美に背骨がぼきぼき折れるほどぎゅっとした。(写真を参照)奥さんからは新しいred hot chili peppersのCDをプレゼントされた。ロック好きとしてはたまらない。

慧地(8歳)からは自作本のプレゼント ほほう…!

美朝(4歳)からのプレゼント うーん…!


解剖台の断面

2011年 9月 4日

昨年7月に大島北西の海岸にて発見された解剖台。引き上げと展示を決め、大島青松園の作業部の男たちが不可能と言われた引き上げ作業に取り組んだ。
解剖台は大島で使われていたものだ。30年近く前に不要となり、火葬場近くの岸壁から打ち捨てられると同時に、人々の記憶からも姿を消した。
7月頭のこと、大島の入所者であり写真家の脇林清さんが引潮時に姿を現したコンクリートの塊を写真に撮ったのが引き金となった。入所者にしてみれば、誰から見ても一目瞭然、解剖台だった。
引き上げられる際に真っ二つに割れてしまった解剖台。無理もない、解剖台には芯材が入っておらず、そのまま移動することは困難だ。このコンクリートの塊は大島の外で作られたのではなく、おそらくここ大島で作られそのまま据え置かれたものだ。

二つに割れてしまったからこそ引き上げることができた解剖台。ひょうたん型の周縁部も大きく破損してしまったが、断片は残さず回収して保管した。
拾い集めた断片をひとつひとつパズルのようにつなぎあわせる。解剖台の修復をしながら、その断面を心に刻む。どのような色をしていたのか、どのような質感だったのか…。

修復しながら私が撮った写真をここに掲載しておく。大島を訪れた際にこの解剖台を通っていった人々のことを思い起こしていただきたい。きっと解剖台は私たちの心の内を鏡のように映してくれることと思う。

解剖台再発見時 写真:脇林清氏

解剖台の設置の様子

修復が終わった現在の解剖台


ちよだ にょきにょききらり

2011年 9月 2日

発達センターちよだでの造形ワークショップは先月から新しいメンバーで引き継いだ。以前、ちよだでのワークショップの成果を発表する「どんどんだんだん展」という展覧会を開いた。企画の中心メンバーは現在大島でカフェ・シヨルを運営している井木宏美。当初は「どんどんだんだんにょきにょききらり展」という展覧会名を井木がつけたが、「ちょっと長過ぎるわ」と説得して短くした。井木は実は相当気に入っていた展覧会名だったと後で聞かされたのだけれど。
今日、現像があがってきたフィルムに目を通していて、突然「にょきにょききらり」という擬態語が思い浮かんだ。ちよだでのいきいきとした子どもたち、ワークショップを開くメンバーたちの表情。まさにぴったり!