Nobuyuki Takahashi’s blog

2009年 2月のアーカイブ

ベンツ

2009年 2月 24日

私は大学卒業後、とある看板屋さんから仕事をいただいていた。当時は出力したものを貼付ける看板が主流になりつつあり、フィルムを貼付けたり現場での施工ができる職人はいても、絵が描ける人はかえって貴重だった。私は絵が描けたので、油性ペンキで絵を描いたり、壁画を描く仕事があれば、すぐに社長から電話がかかってきた。
初めて社長と会う日のこと。愛車のぼろぼろの軽トラックに乗って会社のある半田市へ。それほど大きくはない工房に入って行くと社長が事務所の一番奥にどっしりと座っていた。がっしりとした体格、眼光鋭く、パンチパーマ。向こうの本棚には何やら任侠関連の分厚い本がずらりとならんでいる。この事務所はひょっとして…。
社長は仕事には厳しかったが、いつも私にやさしかった。社長は一職人から始めて叩き上げて独立し、今では10人ほどの職人さんを抱えるまでになった人である。社長が「明日までに仕上げておけ」と言われれば、腕に賭けて明日までに完成しなければならない。社長の指示にはいつも社長が歩んで来た経験とプライドが見え隠れしていた。だからこそ説得力がある。工房で働いている職人さんも本当にまじめによく働く。とても統率されていて、一種怖いほどだった。私は好かない言い方だが、昔から看板屋を生業とする人は”絵描きくずれ”と言う人もいて、社長も例に漏れず昔は絵描きになりたかったそうだ。私が貧乏しながらも個展を開くと、社長は必ず奥さんと一緒に顔を出してくれた。すごくうれしかった。
ある日、いつものように自宅に電話がかかってきた。ゴルフ場から受注した3m×4mの看板絵を2枚急遽描いてくれとのこと。工房に着くとすでにトタンがしっかりと張った看板がいつでも描き出せるように壁面に据えられている。まずはOHPで投影して大方の図柄をトレースする。例によって2日で描け、との指示、気合いを入れて描き始める。夜中までかけて工房で一人描いていると社長が様子を見に来た。「おい、飯食いに行くぞ」と言われ、私は自分の軽トラックに乗り込もうとすると、「なにやっている、乗れ」とおっしゃる。社長の車は黒塗りスモークばりばりのベンツ。私はめちゃくちゃきたないペンキだらけのツナギを着ていたので「いや、車汚れますよ、乗れないっす」とやんわり断ったが「いいから乗れ」の一言で仕方なくベンツのドアを開ける。開けてさらにぞっとする。よりによって車内は真っ白なムートンが敷き詰められている。覚悟を決めて乗り込む。ココイチに連れて行かれ、「好きなだけ食え」というので、たらふくごちそうになる。社長から仕事を頑張れと言われたことはなかったが、それ以上の激励を感じていた。小さなことにこだわらず、24時間工房と職人のことを考えてくれている。
ある日しばらくご無沙汰していたが久しぶりに社長から電話がある。現場に直行とのことで、工房には行かず、現場近くの喫茶店で待ち合わせる。すると、社長がおんぼろの国産車に乗って現れた。私は事情も聞かずコーヒーを飲みながら今回の仕事について社長と打ち合わせた。社長の車をぼんやりと見ていると、社長が「実は会社、一回つぶれちゃってな。」
会社は倒産してしまったそうだが、働いていた職人さんたちは一人として工房を離れなかったのだそうだ。でっかいベンツも売り、すべてなげうってやり直しである。「あいつら、やめないって言うんでな。」
私は職人さんが去らなかった理由がよくわかっていた。皆社長の男気にほれていたのである。
あの人への恩返しはこれからの若い世代に少しでも何かを伝えることだ。

大島 探検

2009年 2月 22日

2月20日、21日と一泊二日で大島に行く。
20日7:15名古屋駅集合…と言いたいところだが、私が思いっきり寝過ごし遅刻。スタッフ泉、井木が7:37の新幹線に乗って先に岡山まで。私は次の新幹線に乗って岡山で合流。
10:50すぎにマリンライナーで高松に着く。11:10の官用船せいしょうに乗るにはあまり時間の余裕がない。前回の訪問では食事がまともにとれなかったので、今回は食料をしっかりと買い込んでおく。
11:10のせいしょうに乗り、大島へ。
まず、大島青松園の福祉課に行き、面会人宿泊所の申請書を書く。前回宿泊したので、部屋の様子もわかっている。食事も準備して来たので安心だ。食堂に行く途中で入所者Bさんにばったり会う。大島の暮らしと自然をずっと写真に撮っている方で、前回の訪問では20枚以上の写真DVDをいただいた。その場でまた新作のDVD2枚をいただく。今回はメジロと一足先に咲いた桜を撮影したものと、巨大な鶴を折ったときの記録写真である。Bさんの旺盛な創作意欲にたじたじだ。
いつものように職員食堂に行く。今日は鶏肉のグリルだ。こんがりとした食感がたまらない。おいしくいただく。

荒々しい瀬戸内海

荒々しい瀬戸内海

風が出て来た。気温はさほどでもないが、この強風、体感温度は相当な寒さである。海辺で漂流物を拾う。潮風で全身がべったりとする。
14:00事務長森さんに会いに行く。実は森さんは今年で定年退職だそうだ。今日初めて聞いて一同驚きを隠せない。せっかく仲良くなって来たのに。残念と思う気持ちとごくろうさまという労いの気持ち半々である。
森さんと談笑の後、大島の自然をもっと知りたい、ということで「風の舞」(納骨堂に入らなかった、火葬された入所者の皆さんのお骨が埋められている場所)からさらに北の山の方に入って行く。山から大島全体を臨むといかに小さい島だということがよくわかる。また、整然とならぶ施設が一望にできる。すると、ところどころに施設の棟が歯抜けになっているのが見える。入所者のいなくなった棟はすぐに取り壊されるのだろう、空き地が島に空白を作っている。
山の方に入って行くと「牛の背」と呼ばれる岩場に着く。足下は断崖絶壁。だが、そこには簡素なベンチが設えられていた。道も険しいが、きちんと下草が刈られていて、整備が行き届いている。
16:00スタッフ井木が官用船まつかぜに乗り込み島を離れる。吹きすさぶ風。島の松や山の木々、施設の配管を猛スピードでくぐりぬける轟音が寒さをさらに増長させる。スタッフ泉は桟橋の防波堤を越えてくる波を浴びて一人べたべたになっている。どうも防波堤の向こうを写真に撮ろうとして波の反撃を受けたようだ。
スタッフ井木が島を離れた後、私とスタッフ泉と再度山を歩く。手摺がなく、すぐ下は断崖絶壁という場所も少なくない。強風で煽られた海面には白波が見える。荒々しい瀬戸内海の一面を見る。
宿泊所に帰り、スタッフ泉と作品プランやイベントのアイデアを出し合う。構想がどんどんふくらむ。島の様子がある程度見えて来たので、構想もにわかに現実味を帯びてくる。
22:00各部屋に戻り、各自休むことにする。
21日7:00起床。私はもっと早く起きて写真撮影にむかう予定だったが、腰痛で起き上がれず、7:00までぐったりと寝てしまう。大島では毎朝7:00に決まって放送が流れる。今日一日の食事の献立が淡々と読み上げられる。施設の室内だけではない。島内の屋外に設置されてるメガホンで島全体に放送されるのだ。この光景も大島ならではのものである。

山頂より 山は萌葱色だ

山頂より 山は萌葱色だ

9:00スタッフ泉と南側の山に向かう。いくつか分岐している道を試しに上ってみるが、空き地で行き止まったり、神社があったりする。その中で唯一山頂に続く道があった。途中の景観がすばらしい。灌木が特長的だ。
山頂に着く。山頂にはNTTのアンテナが立っている。携帯電話の力関係を象徴しているのだろうか。大島では私の知るところではほとんどの電話会社の電話は問題なくつながる。私の電話はPHSだが、離島でありながら島内では全く問題なく使える。そうしたインフラ整備の全般に厳しい目が配られているようだ。人々の生活に必要なものとは何か。島に住む入所者の方々は最後の一人になるまでこの島に住むことをのぞんでいる。
昼食を職員食堂にとりに行く。土曜日は休業日なのだそうだ。現在工事で働く人々がいるために特別に営業しているとのこと。私と泉の二人分を特別に調理してくれる。国営の施設内でのこと、島外からの人々向けに商業施設として営業しているわけではないので、納得しているが、なんとか食事にありつけたのでほっとする。

干潮時にしかたどり着けないビーチ

干潮時にしかたどり着けないビーチ

食後は南の海岸線を歩く。探検隊さながら(いささかオーバーだけれど…)岩場を上り下りして砂浜にたどり着く。干潮の時にしか行くことができない場所だ。手つかずの浜辺は本当に美しい。しかもこの日はべた凪で湖の水面のようにたおやかな海だ。この浜辺から大島の主要な施設をのぞむと、その水面が鏡面となって映り込みそうだ。三脚を持って来ることができなかったので手持ちでばちばちにシャッターを切る。
その後、再度北の山にのぼる。入所者Bさんの捉えた大島の写真はまるで鳥の視点のようだ。きっとこの北側の山頂から撮影したに違いない。でもそこに行く道をとうとう見つけることができなかった。あたたかくなったら、是非Bさんを誘って山頂に行こうー。
16:00官用船まつかぜに乗って高松へ。前回の訪問でも感じたが、高松にあがると都会の臭いが飛び込んでくる。聞こえてくる雑音のいかに猥雑なことか。高松からたった20分のところ。大島はやはり、閉ざされている世界なのかもしれない。

帰りに釜たまうどんを食す

帰りに釜たまうどんを食す

切り刻まれた

2009年 2月 19日

江東区、女性殺人事件の星島被告の判決が下った。無期懲役。
この裁判の中でひっかかったことがある。それは無期懲役に処せられた理由でもあった。
遺体を切り刻みトイレに流すという、残虐きわまりない事件であるが故に「死刑」という世論の声も少なくなかった。死刑を免れたのは、求刑の対象は「殺人」の部分であって、その後の遺体の扱いではないということだそうだ。私がひっかかったのはまさにそこだ。殺される人と殺された人の違いである。
話は変わるが、肉親が病院で亡くなると(病気やけがなどその原因にも寄るが)亡くなった直後に「解剖をさせてほしい。今後の医学の発展のため研究に役立てたい。」と医師から話がある。私の場合、たった今亡くなった大事な人を切り刻まれるのはとても耐えられなかった。
丁重にお断りした。もちろん、後世のために役立ってほしい、死を無駄にしてほしくない、という気持ちもあった。本人の意志を生前に聞いていれば、その意志を尊重しただろう。
このような感覚は生きている身体と死んでいる身体の境目がない、ということからきている。日本人の多くはこのような感覚を持っていると思われる。死に至らしめられた女性に感ずる「痛み」の感覚は殺されることと遺体がゴミのように捨てられることで分けることは、できない。
やさしい美術プロジェクトを続けて来て、幾度か病院の職員さんから「霊安室の作品を考えてほしい」という要望があがった。誤解のないように言えば、それは生きているもののその先にある死したもののための表現である。けっしてアートのインパクトを世に打ち出すためではなく、軽はずみな挑戦でもない。霊安室も私たち生けるものの空間であると、ただ、受けとめるのである。
霊安室のアートに取組むのはまだ先になるかもしれない。いや、すぐにでもとりかからなければならないのかもしれない。日々やさしい美術を実践しているその傍らに、その場所はある。

最高の

2009年 2月 17日

9:30愛知芸文センターに着く。本学の卒展のオープニングに参加するためだ。
10:00オープニングセレモニーが始まる。テープカットというのが意外。悪いというのでなく、卒展でテープカットをする、というところが新鮮に感じた。そういえば、韓国で若手作家の国際交流展を+Galleryで企画した時、オープンのセレモニーは盛大で、伝統を感じさせるものだった。豚の首なんかが貢がれていたりして。
卒展を鑑賞する。何人かやさしい美術プロジェクトに関わった人の作品があった。卒展ながらの充実感が全体にみなぎっている。
現像所により、写真をうけとる。ワンカットだけ、ひきのばしてもいいかな、と思う。何千枚と写真を撮っているが、これだ、という決定打になる写真がなかなか撮れない。大島のBさんの言葉が頭に思い浮かぶ。「カメラを向けると、向けられた対象がこちらに向かって姿勢を示してくる。」撮れないのではなく、向き合えていない、のだろう。一瞬に凝縮される「向き合い」になんとかたどり着きたいと思う。
13:20のバスに乗り、大学へ。大島でお世話になった入所者の方々にお手紙を書く。プロジェクトを進めて来てたくさんの人々のご支援、ご声援があるので、もう少し「筆まめ」になって、その声に報いるべきではと自戒している。書き始めると楽しい。便せんや封筒を選ぶのもこれがけっこうはまる。「筆まめ」になるための一歩が踏み出せた感じだ。
19:30金山駅に着く。私が担当する交流造形コース、メディア造形コース2年次の学生が宴会に誘ってくれたのだ。1月末に開催した2年次修了制作展「レベル・ワン」展の打ち上げ、研究室職員の鷲見君が3年間の契約期間を勤め上げたその慰労を兼ねての宴会である。ほんとに気がいい連中だ。お互いにストレートに言い合える仲がキープできている。だからこそ、「レベル・ワン」展は注目を受けるおもしろい展示になったのだろう。うれしいことがあった。それは、早い時期に退学を決めていたAさんが、「レベル・ワン」展に出品していたこと。もちろん、今日の宴会にも出席。事情があり、退学の意志は固い。でも、このクラスの展覧会に出品する意志も同じように固かった。それを貫いてくれた彼女に乾杯。それを自然に受け入れていたこのクラスに乾杯!そして、3年間コースのために働いてくれた鷲見君に乾杯!!

バレンタイン 名港ミュージアムタウン

2009年 2月 14日

ドングリ広場に設置された冨永氏の書道作品

ドングリ広場に設置された冨永氏の書道作品

午後に名古屋港に行く。+Gallery projectとして協力している、町中を舞台にしたアートイベント「名港ミュージアムタウン」を見に行く。やさしい美術プロジェクトのメンバー小林、山本、+Gallery projectの平松、冨永が参加している。
まず、チラシにインフォメーションセンターが明記されているのが好印象だ。ビエンナーレなどの巨大な展覧会でも、どこにまずアクセスしていいのかわからないものもある。これではいつまでたっても正確な情報にたどり着けないし、知っている人同士の内輪の展覧会を脱することができない。
メンバー山本の作品は和菓子屋のショーケース内に展示されている。店内に入って行くと店主が快く迎えてくれる。何気ないことだが、これがアーティストと住民のコミュニケーションがとれている証拠となる。作品は木製のスプーンに盛りつけられたようなオブジェ。店主さんはこの作品に本当に抹茶の粉をトッピングしたそうだ。ついつい我が家族にお土産を買う。メンバー小林は旅館裏の路地にドローイングが展示されていた。ドラえもんに登場する土管がある空き地がありそうな路地の壁にマジックで描かれた画面が妙にはまっている。
20:00帰宅。慧地と奥さんとでマクロビオテックのチョコレートケーキを作って待ってくれている。ワインの栓を抜く。昨年のオーストラリアでの学会発表の際にお世話になったルスとデイビッドから送ってもらったshirazのワイン。甘い香りが鼻に抜けるが、味はけっして甘ったるくない。うまいっ。瓶が寸胴でなく、少しテーパーがかかったおしゃれなもの。贅沢そのものだ。よーし、明日はたまっている仕事がんばるぞ。

shirazのワイン。この色この香り…

shirazのワイン。この色この香り…

マクロビオテックのデザート。クリーム部分は豆腐でできている!

マクロビオテックのデザート。クリーム部分は豆腐でできている!

森ラックス

2009年 2月 14日

14:30足助病院にて研究会。私は文部科学省からの質問に対して回答を準備するため、出発が遅れる。メンバーとは別に自家用車を走らせ、10分遅れて到着。
心なしか発表するメンバーの元気が無い。疲れているのはわかるが、病院サイドの皆さんに元気よくプレゼンテーションしてほしい。だって元気を持ってくるプロジェクトでしょう。ちがう?
「森ラックス」はメンバー古川が取組んでいる作品で、内科処置室の天窓(360センチ×80センチ)に布に描いた作品を展示する。この作品はいくつかの挑戦がある。まず、視点について。患者さんがベッドに横たわり、見上げたところに作品を展示するということ。二番目にバックライトで観る絵画であること。天窓から差す日の光を遮らず、かつ透過した光の中で絵柄が表現されていなければならない。夜になれば外光の照度が落ちて室内照明に照らされる。その状態でも作品として成立しなければならない。
絵画の常識を越えた表現形式ではあるが、古川はのびのびと画面に挑んでいる。その大らかさが本制作では発揮されるだろう。完成が楽しみである。
病棟に行くと「えんがわ画廊」に手作りのおひなさまが飾ってある。えんがわ画廊はそれぞれの病室の傍らにある小さな企画画廊で、一年通じて展示がえを行なっている。年間行事のプロデュースは今回のような季節を重要な要素と捉えてえんがわ画廊と連携しながら進めている。病棟に院内で行なった手作りおひなさまを作るワークショップには30名ほどの患者さんの参加があったそうだ。完成した作品はプロの仕事のような質感ではないが、別の質の高さというものを感じる。そのものがそこにあることの意味の強さと言うか…。すばらしい企画だ。
19:00足助病院を出る。その足で大学までもどる。文部科学省への回答がまだ完成していなかったからだ。質問の内容についてどのように答えるか。聞かれていないことまで答える必要は無いが、必要なことにきちんと答えていないと次の質問がくるだろう。慎重に言葉ひとつひとつを吟味する。
23:00回答が完成し、帰路へ。まだ夜は長い。

命日

2009年 2月 11日

2月10日
12年前兄が亡くなった日だ。
悪性リンパ腫とわかり、入院してから9ヶ月。この9ヶ月間は私にとって終生忘れられないものとなった。
私は当時、看板屋や模型製作、壁画などの仕事を点々としていて、その中で中京テレビからもらった仕事で飯田覚士さんのチャンピオン戦のオープニングを飾るイラストレーションを描くというものがあった。実際に緑ジムに行って、飯田さんのスパーリングを見せてもらい、筋肉のはりや、動きの素早さ、フットワークの軽やかさを間直に感じ、30枚ほどのイラストを一気に描きあげた。
チャンピオン戦当日。テレビでその世界戦が生で放映される。オープニングに私のイラストレーションがスピード感あふれる映像になって流れる。飯田覚士さんは元気が出るテレビでアイドルのような美貌で注目され、その後血のにじむような努力で這い上がり、この世界戦でタイのハードパンチャーヨックタイ・シスオーを破り、WBA世界Sフライ級チャンピオンになった。私はその戦う姿に兄が病気と戦う姿を重ねていた。すばらしいファイトだった。後日談だが、これが縁で本学にゲストとして飯田さんをお招きし、トークショーを開いた。数年前のことだ。
私はテレビ局からイラストレーションの何枚かを返してもらい、その一枚を兄の病室に貼った。大きさは130センチ×100センチ程度だっただろうか、今にも左ストレートを繰り出さんばかりの飯田さんをごりごりに描写した一枚だ。当時全身に転移したがんのために想像を絶する痛みを抑えるため、兄は大量のモルヒネを毎日投与されていた。意識が飛び、眼球がぐるぐるしてしまうほどに。兄はそのイラストレーションを前に、混濁した意識の中で、拳を天に向けて振り上げていた。その姿がまぶたに焼き付いて離れない。
私のしたことは、何だったのだろう。兄にとってそれはどのように感じられたのだろう。私は兄の力になれたのだろうか。兄は喜んでくれただろうか。あの絵じゃなくて、もっと違うもの…。あの絵を、ベッドの正面に貼るべきだったのだろうか。もっと何かできたんじゃないか。もっと、もっと…。
今となっては兄に聞くことはできない。毎日問いかけるけれどー。

意味のある偶然の一致/虫と万年筆

2009年 2月 9日

偶然出会ったことが、後で振り返ってみると、つながっている、そんなことがある。
自分が偶然出会ったものが、人生の選択に作用していることもある。特に直接意味はないが、何かが一致している。自分の体験をあまりにも勘ぐるのも良くないが、ふと気がつくことがある。偶然というものは意味がないからこそ偶然。その偶然の積み重ねがどうしようもなくつながっている。つながっているからこそ意味を持つ。
私の身の周りにあるちっぽけな意味のある偶然の一致。

最近手に入れたスケルトンの万年筆

最近手に入れたスケルトンの万年筆

スマトラ島で見つけた金色UFO型の虫

スマトラ島で見つけた金色UFO型の虫

20年前の私。インドネシアにて

20年前の私。インドネシアにて

20年前プランバナン遺跡を歩き撮影

20年前プランバナン遺跡を歩き撮影

足助アサガオの嫁入り

2009年 2月 8日

懇親会でのワンショット。ぶれていますが…。

懇親会でのワンショット。ぶれていますが…。

2月6日から7日にかけて、新潟県十日町市(妻有地区)に行く。
毎月一回、十日町病院で行なう研究会と、空き家プログラム「やさしい家」の整備が目的だ。
今回の妻有行きは特別である。スタッフ赤塚の提案から始まった、「足助アサガオの嫁入り」のため、足助病院から看護部長の大山さん、リハビリテーションの鈴木さんお二方が「顔合わせ」のために十日町病院を訪問するのだ。
足助病院のリハビリテーション施設にアサガオが植えてあり、患者さんの心を元気づけている。その、足助に咲くアサガオを十日町病院にも植えて、花を咲かせよう、という企画。アサガオが十日町病院に嫁入りするだけでなく、それをきっかけに地域、施設主体や経営基盤などを越えて、交流して行こうというものだ。
このような交流を確固としたものにするためには、新しいことへの予感や期待、そして突き動かされる気持ちがなくてはならない。
今回はやさしい美術は二手に分かれ、名古屋から私たちはいつものようにレンタカーで出かけて、スタッフ平松は足助病院職員さんお二方と同行するため、新幹線に同乗。出発の前日には十日町病院職員さんから連絡があり、「越後湯沢まで、お迎えにあがります。」こうした、ひとつひとつの心遣いが歯車となってかみあって行く。期待が高まる。
14:30先に学生たちを十日町病院に降ろし、私はさらに車を走らせ松代まで空き家の鍵を借りに行く。
15:30病院に着く。私が着いたときはすでに十日町病院職員さんとやさしい美術スタッフ二人が足助病院職員さんをお連れして院内を見学してまわっているところだった。
施設見学の後、応接室に勢揃いして「顔合わせ会」が始まる。お互いの名刺交換があり、足助病院からは足助アサガオの成り立ちを足助屋敷製作の和紙に綴った手作りの説明書が手渡される。両病院とも終始笑顔が絶えない。お見合いのような、気恥ずかしくも、華やいだ、場となった。皆さんのおかげである。じわりと感動に包まれる。
研究会では試作品の検討、展示場所の検討、新しいプランの提案などが続く。足助病院の鈴木さんからは映像を投影しながら足助という地域、足助病院、地域文化のプレゼンテーションがあった。映像も説明もとても準備が行き届いていて、私たちとしてはうれしいを通り越して恐縮してしまった。研究会に参加されている十日町病院職員さんから感嘆の声があがる。こうした一瞬一瞬が奇跡だ。きらきらしている。
研究会ののちは恒例の懇親会だ。その席で看護部長の大山さんから次のようなコメントがある。「十日町病院の建物の立てられた時期は足助病院と同じ時期。病院に入った瞬間にとてもよく似た雰囲気を感じ、親近感を憶えました。このアサガオをきっかけに、交流が始まればと思います。」足助病院と十日町病院には共通点が多い。私個人の印象だが、足助病院の早川院長と十日町病院の塚田院長の両病院長にもとても近いものを感じている。お二方とも医療者としての大きさを感じつつも、とても気さくで、かつ創造性とやさしさにあふれている。
夜は私と3人の学生、1人の卒業生5人で空き家「やさしい家」に泊まる。(他のメンバーはホテルに宿泊)5人でこたつを囲み今日あった出来事を振り返り、語り合う。語り合う皆の息が白い。途中で買ったアイスクリームはいつまでたっても溶けない。寒くても心はあったまっている。
7:00起床。しばらく経つと空き家の障子に朝日が差してくる。雪囲いの板のため、ストライプとなった陽の光はかっこいいデザインのようにきまっている。こうした光景をしっかりと記憶しておきたい。
9:20十日町駅から足助病院職員のお二方を私、スタッフ平松、スタッフ赤塚で見送る。「今度は足助でお会いしましょう。」
3月には十日町病院の院長をはじめ、職員さん何名かで足助病院を訪問するという話があがっている。もし実現すれば、これほどうれしいことはない。名古屋のおいしい食べ物もたくさん紹介したい。あそこにもここにも連れて行きたい…。物理的な距離は心のつながりで乗り越えることができる。遠距離恋愛のはじまりだ。

アンケート調査コンサルティング

2009年 2月 5日

テキストマイニングソフトにかけたアンケート調査の結果を分析する

テキストマイニングソフトにかけたアンケート調査の結果を分析する

2月5日13:00、名古屋大学から川口潤先生、北神慎司先生がみえる。今日はやさしい美術プロジェクトが継続して来たアンケート調査に関するアドバイスをいただくために、諸先生方を招いた。
考えてみれば、美術作品はアンケート調査や定量的な指標に当てはまるものとは対極にあると言ってよい。それは美術史を見ても明らかだ。作品や作家に人気投票をしたものはいないし、作品の評価をまじめに定量化することは皆無と言ってよい。しかし、私たちが活動する場所は病院であり、公共スペースでもあることから、そうした場所に長期的に活動を継続するには定量的な説得力が必要になってくる。医療の現場で、例えば新薬を開発するには膨大な調査と調査結果の分析に裏打ちされて、使われるようになるのが普通だ。科学的根拠、エビデンスが問われるのだ。
私たちは医療の現場と連携してアート・デザインの取組みを行なっている。だからこそ、定量化できない、感覚的な事柄をあぶり出していくことで病院で取組む上である目安になる指標が得られるのではないか、という期待がある。もちろん得られる指標に振り回されてはならないが、感覚的であることにおぼれないために、ある程度客観的に見つめていく視点があるべきである。もう1つ期待がある。それはこうした調査および分析によって、病院にいる人々が感じる普遍的な要素を抽出できるかもしれないのだ。それは私たちの想像の範囲、形態や色彩、表現のジャンルなどとは異なる属性との結びつきになるかもしれない。
トラスティアのテキストマイニングソフトの使い方、精度をあげるための評価の読み方やテクニックについて両先生から講義していただく。
目からうろことはこのことだ。大変勉強になる。異分野との協働のおもしろさはここにある。詳しい報告は来年度の記録誌に掲載する。