Nobuyuki Takahashi’s blog

2011年 11月のアーカイブ

ワークショップを始めたのは

2011年 11月 8日

数年前のことだが、やさしい美術の活動を紹介する場で「なぜワークショップをしないのか?」と尋ねられたことがある。当時やさしい美術プロジェクトは作品を院内空間に配置していく仕事が主だったのでそこからわく素朴な疑問であったように思う。阪神の震災が一つの引き金となって、巷では協働性や市民活動の重要性が説かれていることは知っていた。それらに近接する活動はワークショップをやるべきという機運はあったと思う。
ただ少し気になったのはその時の質問「なぜワークショップをしないのか」には「やるのが当然」と言う響きがあったのも事実。私は闇雲にワークショップの形式を取るのは疑問だった。断っておくが多くのワークショップの形式が存在する中でここでは「アーティストが実施するワークショップ」に限っての話。
何よりも先にワークショップという方法が立ち上がるのに違和感がある。作家の「一緒に作りました」というアリバイづくりに終始しているケースは開いている様相を見せながら実は閉じられた構造をしていて見ていて居心地悪い。ワークショップの対象になる参加者とそのバックグラウンドが置き去りになっているのを見かけるとこれも気になって仕方がない。
それから月日は経ち、とうとう僕たちは十日町病院で始めてワークショップを実施する日が来た。それは最初にワークショップの方法があったのではなく、プランのコンセプトを忠実に実現していくプロセスであって、結果として「ワークショップ」としか呼べないものになった。当時メンバーだった福井が考案した作品プランである。
福井が着目したのは院内の極私的空間である病室である。ベッドに横になる利用者とその家族との関係性を取り持つものがアーティスト側から提案できないか、というもの。想像がつくと思うが、家族関係はとてもデリケートだ。他人が立ち入れる問題をはるかに超えている。テレビドラマに出てくるようなステレオタイプの家族イメージは仮想の話。それこそ人の数だけのケースがあるだろう。
このことはかなり時間をかけて福井と議論した。するともう一つ浮かび上がってきたのは、「患者と医師・看護師」という関係性である。システムが張り巡らされた医療の現場。「人」としてでなく「患者」として扱われる病院空間。医師や看護師はその肩書きを離れて思いの内を患者に伝える機会は無いに等しい。
「患者」と「医療者」という立場を超える、肩書きを取り去る、間にある見えない壁を溶かす。医師も看護師も伝えたい思いを携えながら治療にあたっているはずだ。一方患者はかけがえのない人生を生きぬいてきた一人ひとりのはずである。ひとり一人を見てほしい―。
そこで、福井は医師や看護師が描いた「残暑見舞い」の絵はがきを描いた本人から患者さんに手渡すワークショップを企画した。この提案を受けて病院サイドから「描く時間がない」「うまく描く自信がない」と反発があったものの、楽しく描くしくみや工夫を幾度となく提案し、何とか院内で絵はがきを描くワークショップを実施するところまでこぎつけた。
ワークショップ当日は院内で働く医師や看護師、職員のほとんどが時間を見つけて絵はがきを描きに来てくれた。一枚のはがきには、普段思っていたけれど伝えられなかった思いがメッセージに綴られている。「いつもそばにいます。」そんなシンプルでそっと元気づける言葉たち。切り紙や野菜スタンプで華やかに彩られたデザイン。
手術を終えた医師と看護師が緑装束のまま立ち寄り一斉に絵はがきを描いていく。そんな感動的な場面が幾度となく繰り返された。二日間で集まったはがきは300枚。それらはベッドサイドに絵はがきを取り付けるフレームとともに医師、看護師らによって入院している利用者に手渡された。
私たちは作品を作ったのではなく、医師、看護師という間柄を溶かし、感情の交流のしくみを作ったのみ。その道具立てとしてはがきを描き、渡す行為に集約させた。さて、ワークショップを終えて心の壁が瞬間解き放たれたのは病室内だけではなかった。気がつけば私たちプロジェクトメンバーと病院職員との間は何でもぶつけ合える仲になっていた。このワークショップを院内で滞りなく行うプロセスを通じて着実にお互いの距離は近くなったのだ。
「ここで私たちは何ができるのか」と突き詰めて、最終的にワークショップの形となった、病院内での残暑見舞い絵はがきプロジェクト。絵はがきを描いた病院職員はアートに興味を持ち、作るのが大好きで集まった人ではない。それぞれの思いを胸に医療の現場、病院の日常の中で働いている人たちだ。病院のシステムが簡単に許さない「心を通わす」という小さな冒険を私たちは創出した。一人ひとりそれぞれでいたい。そんな当たり前の事が、「患者」という画一的な枠に閉じ込められてしまう。その枠をそっと開く小さな飛躍を設ける。実施したワークショップは人と人という間柄を取り持ちながらまるで柔軟剤のように院内に浸透していった。

命からがら逃げてきた

2011年 11月 6日

愛知県内のとある施設で愛知県に避難している被災地域住民の皆さんが集う交流会が行われた。私たちやさしい美術プロジェクトは「ひかりはがき」を持参して手渡しを行った。「ひかりはがき」はこれまで被災地域に行き手渡す方法だったが、自分たちの足下も見据え、私たちが暮らす町に避難してきた人々にも「ひかりはがき」を渡そうと考えた。このブログでは避難してきた住民の皆さんからうかがった話を紹介したい。
集まったのは6世帯の愛知県に避難してきた人たち。5世帯が福島県から、1世帯は宮城県から。交流会は就労、補償の相談会も兼ねているので、特に原発の近くに住んでいた方が多かったように思う。
避難してきたそれぞれの世帯同士の交流はない。たまたま同じ町から避難してきたとはいっても必ずしも知り合いとは限らない。地元の方言で、共通の話題で安心してお互いのこの8ヶ月を振り返り、語らう。
私は皆さんの会話を横でお聞きし、手持ち無沙汰な方がいれば声をかけてお話をうかがった。

福島県双葉町から命からがら避難してきた若いご夫婦。なんと原発から3キロのところで被災。奥さんが妊娠していたため、ライフラインが壊滅したなか、道の駅などで野宿しながら避難所にたどり着き愛知県へ。その後あかちゃんを無事出産。来月に一時帰宅をするそうだ。

宮城県多賀城市 から避難。子どもたち3人と奥さんの5人で愛知県へ。地震が起きたときから津波が押し寄せるまでを詳細に語っていただいた。まさに危機一髪。なかでも目の前で知人が津波に飲み込まれて行くのをただ見ているしかなかったという体験談に胸が痛む。同級生は100人以上が亡くなったという。ご自身はPTSDにかかり夜は眠れず、夜中も悪夢にうなされて飛び起きることもしばしば。私たちが取り組んでいた表札づくりの話をすると、テレビにも放送されたそうでそのことを知っていた。「あの大きい派手な表札ですよね。知ってますよー!」

福島県浪江町から避難。ご夫婦で6回も避難を点々とし、息子さんが暮らす愛知県に落ち着いたのだという。福島では退職した旦那さんは大好きな果物作りを始めた。福島は梨やりんごがよく育つ土地柄だそうだ。10年をかけてようやくりっぱな実をつけるようになった、梨やりんごの木。遠くは東京からもりんご狩りに来てくれる人が増えはじめた矢先に、地震、津波、そして原発。毎日畑仕事に精を出していた日々から一転、何もやることはなく、身体を動かす機会はほとんどない。最近は右手が急にむくみ、動かなくなってしまった。どうやら原因はストレスとのこと。その方の手をにぎらせてもらう。土に触れてきた手だ。分厚く、そして堅牢だ。「一番の楽しみを失った。生き甲斐を失った。この先どうしたらよいかわからない。」

福島県富岡町から避難。妊娠していたので被爆を恐れて、とにかく福島を早く離れる。東京で出産。赤ちゃんをだっこさせたいただく。(大変な中あなたはくぐり抜けてきたんだね…。)ぷちぷちの果実のような手で私の小指をつかんでくる。生命感の塊。ご両親はいわき市で暮らしている。「家族全員で暮らしたい。その日がいつくるのか。」

福島県いわき市から避難。旦那さんは仕事で福島にいて、月一回愛知に避難している2歳のお子さんと奥さんに会いにくる。子どものことを第一に考えたいとおっしゃる。「地産地消のものを買って食べて被災地域を支援する。その気持ちはありがたいけれど、子どもたちのことは第一に考えて行動していただきたい。」

癒すという言葉は使ったことがない

2011年 11月 4日

やさしい美術プロジェクトは病院が主な活動場所であることから「癒しのアート」「病院のアート」と言われることが多かった。実は私はやさしい美術プロジェクトを語る上で「癒す」という言葉はつかったことがない。施設の現場にいると、そんな言葉は簡単には浮かんでこない。これまで作品を作ってきた経験からの私の見解だけど、「癒される」ということはその人の中で起きることであって、「癒す」ということはないと思っている。
やさしい美術プロジェクトの活動は事象に近づく、という特徴があると以前書いた。近づくと見えてくることもあるが、見えなくなることもある。地図を読むように遠くから眺め、想像力を働かせることで見えることもある。もちろん近づくということは物理的、心理的な意味があるのだけれど。その振幅の中で自分の立つ位置を見極める。
やさしい美術プロジェクトの活動が私個人の見解を広めるためにあるわけではないので、参加する学生たちのそれぞれの立ち位置はすべて受け入れることにしている。「取り組み」の内には手をにぎり看取ることもありうるし、「癒す」ことに真剣に取り組むのであれば「とことんやってみなさい」と背中を押す。そこで感じた何かに突き動かされ、自らの細胞が反応することを私は否定しない。
やさしい美術プロジェクトとはたぶんジャンルとして確立されるものではなく、ある事象に向き合った時に個々から発露される表現を受けとめる場であるように思う。それぞれの専門性を抱えてこの取り組みに参入すれば、自身が立つ専門性を離れては立ち返るという経験が起きる。もう少し踏み込んで言えば、自己否定と再構築だ。それほどまでに、私たちアーティストを揺さぶる何かがあるのだ。
手をにぎり大切な誰かを看取ることを私はアートだ、作品だとはとても言うことができない。でも「やさしい美術」という場では表現し、作品を制作して展示することや手をにぎることも同地平に連なる営みとなる。その蜿蜒なる地平をなめるように見つめ、乗り越えるべき壁や隔たりがあれば丁寧に紡いで行く作業と言ったらよいか。
私は殊に現代美術の領域で作品を作ってきた。誰とはわからない相手に強く、遠く、深くボールを投げ入れる。その真の意味もやさしい美術プロジェクトの活動を通じてとらえ直す契機を与えられた。きっとこの取り組みに関わったアーティストや学生、様々な専門家らはそれぞれの立ち位置で何かを得たのではないかと思うのだが。

発達センターちよだにて