Nobuyuki Takahashi’s blog

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生まれ変わるなら、野村さんの野菜になりたい

2011年 2月 12日

大島のお父さんとお母さん、野村宏さんと春美さんがカフェ・シヨルに来てくれた。何気ない世間話をしながらコーヒーとお菓子を楽しむ。
野村さんの野菜はおいしい。果物は瑞々しい。なぜだろうと訊ねると、野村さんは少し照れ笑いを交えながらこう答える。「もう、50年以上野菜作っとるからな。」
野菜作りの秘訣を請うと「昔からな、野菜は主人の足音を聞いて育つと言うんよ。」私たちは野村ハウスで毎朝野村さんの足音や鍬の音を聞いて過ごしていた。野村さんは野菜だけではなく、いつも私たちのことを見守ってくれている。
カフェ・シヨルで井木と泉は野村さんや森さん、大智さんの野菜や果物を余すことなく調理している。素材の良さとそれを活かす心意気が一つになり、それをお客さんに喜んでいただく。カフェにやわらかなひとときが流れ、それを糧に次のメニューを編み出していく。なんと流麗な循環だろう。
泉がつぶやいた。「生まれ変わるなら、野村さんの野菜になりたいな。」

大島 藤棚

2011年 2月 11日

職員さんの協力で足が不自由な入所者の皆さんにも立ち寄っていただいている。

今月の大島一般公開は2月11日(金)から2月13日(日)まで。11日にはワークショップ「かんきつ祭」を実施する。大島で採れる柑橘類を収穫し、カフェ・シヨルの食材として使えるように加工するワークショップだ。季節ごとにこうしたお祭りを企画して一般来場者やこえび隊の皆さんを招き、大島と大島の外とのつながりを紡いでいく。
今回は2月9日(水)から大島入り。11日が祝日のため、10日に定例検討会を開くことになった。自治会の役員が山本さん、大智さんから代わり、森さん、野村さん、出原さんという顔ぶれとなる。
定例検討会での主な検討事項は2011年4月からの活動継続についてである。継続していこうという意向は検討会で以前から話があがっていたし、カフェの運営スタッフ井木と泉の活躍もあって、職員さんを含め入所者の皆さんからも理解をいただいている。2011年4月から2012年3月までは第二土・日を一般公開日とすることに決定した。
この日の検討会でさらにうれしいことがあった。入所者自治会副会長の野村さんが、「2013年も15寮あたり(現在、GALLERY15として活用している通称:北海道地区)を使うんであれば、どうだい、藤棚を作ったらと思うとるんだが。」と提案された。昨年の芸術祭での一般公開は猛暑であったこともさることながら、特に15寮周囲は日陰が少なく、一般来場者の皆さんにはご苦労をかけた。野村さんはその様子をずっと気に留めておられたようだ。すごい。次回の芸術祭に向けて、入所者の方から一歩を踏み出しておられる。水やりは入所者の皆さんでされるそうだ。私は新潟県立十日町病院で植えられた朝顔を思い出していた。愛知県厚生連足助病院で育てられている朝顔を十日町病院に嫁がせ、朝顔で地域交流を深める赤塚裕美子の企画だ。
あのときも地元の人々のお世話があって朝顔が花を咲かせた。きっと大島でも藤は花を咲かせる。「大島藤」だ。
重ねて、市原副園長から「医療者の立場からガイドをしてくれているこえび隊の皆さんにレクチャーをしたい。」との申し出がある。市原さんはカフェ・シヨルの常連さんであり、私たちの取り組みの傍らに立っている人だ。通常の見学者には1時間程度のレクチャーをされるそうだが、今回の勉強会では2時間ほどお話していただける。職員の皆さんも一歩ずつ歩みを進めておられる。心強い限りだ。
{つながりの家}は大島にいる人々、大島に心をよせている人々の通底する精神だと、つくづく感じる。

なぜ 大島なのか2

2011年 2月 5日

カフェ・シヨルは「カフェ」である、と同時に泉、井木の作品でもある。しかし、私は「これは、私たちの作品なのです。」と囲い込んでしまうことを快しとしない。ギャラリーもカフェもガイドも、{つながりの家}に包括される。{つながりの家}構想はハンセン病回復者である入所者の心情が基になっていることを忘れてはいけない。

・ずっと(最後の一人になるまで)大島で暮らしたい。
・大島のイメージを変えたい。
・大島を人が集う場所にしたい。
・大島で生きてきた、証を残したい。

カフェ・シヨルは個人が追求して来たテーマが今ここで作品として結実しているのではない。もしそう思えるならばアーティストの営みに周囲の状況が追いついてくるという錯覚だ。言い換えると、大島の外の新しい価値観、今までもたらされることがなかった斬新な発想が{つながりの家}では決してない。「これは、私が作りました。」「ここは、私によって成り立っています。」という振る舞いが、大島をめぐってこれまで連綿と受け継がれた人々の営み、感情、時の歩みを気付かず分断してしまうことになりかねない。どういうことかと言うと{つながりの家}の精神(スピリット)は私たちが大島に関わるずっと以前から伏流しており、多くの人々がそれぞれの念いを胸に、その時できることが精一杯試みられてきたのだ。大島で出会った所以のある方々のお話を聞けば聞くほど、それは確信へとかわった。私と井木、泉の3人は幸運にもカフェ・シヨルを含めた{つながりの家}という取り組みに浮上する(浮上できる)状況とタイミングに居合わせたと見るべきだろう。

人が生きるという欲動。本来はその源泉を感じ、自らの内につかみとるのはいつでもどこでも可能だ。自分と他者とのつながりを感じ、自らのいのちを燃やし続ける。ごくシンプルなことがそうはいかない、それが私たちの生きる現代だ。大島に身を置くと、私たちの感性のチャンネルが惑うことなく同調し、いつもより少しだけ鮮明に像を結ぶ。私たち生きとし生けるものはそのフォーカスの手を緩めず、日々鍛錬しながらそれを自らの糧として生きるべきなのだろう。
そのトレーニングとアクションをずっと繰り返して来た、場所。
それが「やさしい美術」だった。

なぜ、大島 なのか。

2011年 2月 4日

先月の1月28日から29日までレンタカーを走らせて高松まで行ってきた。私とカフェ運営メンバーの井木、泉の3人で大島に保管してある機材、展示ケース、工具類などを名古屋に持って帰ってくるためだ。それらはすべて昨年開催された瀬戸内国際芸術祭の展示のために活用したもの。運送業者に大島まで引き取りに来てもらう手だてがなく、ローコストで運べる方法を模索した結果、自分たちでレンタカーを借りて運ぶのが最良と判断した。

13:55の官用船に乗船。大島に着いてすぐに運び出す荷物を選別し、梱包する作業に入る。明日までかかるかと思われた荷造りが日が暮れるまでに完了。ついでに倉庫代わりにしていたカフェ・シヨルの風呂場とGALLERY15のストックヤードの雑多な荷物を整頓してしまう。明日は船に乗せて高松まで運び、あとはレンタカーに荷物を放り込んで名古屋までひとっ走りするのみだ。

夜、泉が和風パスタをつくってくれた。サラダ菜と水菜は野村さんの畑からいただいたものだ。今日の作業が思いのほか捗り、気持ちも軽い。野村ハウスにストックしてあるお酒で杯を交わす。

井木と泉はNHKの取材を受けて、2月1日に全国に放送された。瀬戸内国際芸術祭が終わったあとも活動を継続する大島にて、カフェ・シヨルで活躍する二人が特集されたのだ。
二人の話によると、取材する記者さんからかなり深くつっこんだ質問があったらしい。それは、
「どうして、そこまでするんですか。」
「どうして、大島なのですか。」
というものだ。芸術祭後二人はカフェの仕込みのために月の半分を大島で過ごしている。なぜそこまでするのか。視聴者の身になってみれば、自然にわく疑問だ。泉はこれまでの経緯と今の自分の心境はなんとなく答えられるけれど、何が自分を奮い立たせ、何を理由にそこまで打ち込むのか、うまく答えられなかった、と言った。無理もない。彼女たちは自分の居場所の一つをそこに見つけて、始めたばかりなのだから。分岐しては合流を繰り返しおよそどの方向へも流れ得る可能性のなかで彼女たちはたまたま大島と出会った。それは彼女らをとりまく時流や家庭環境、生活観などのありとあらゆる状況が許したとも言える。意志や気持ちの強さだけでは説明がつかないのだ。結果としてこの道でしかあり得なかったと感じたとしてもそれは自分の意志と周囲の寛容が絡み合った道なのである。一歩を踏み出す、その先に一本の道があらかじめ用意されているわけではないのだ。
私は「わからないことは、わからない、ということで今はいいと思うよ。」と答えた。問いをなげかけた記者さんは取材を重ね彼女らに近づけば近づくほど、状況とタイミングの網の目の渦中の一点「今」「ここ」を感じたことだろう。しかしメディアの側に立つ伝達者は目前で起きていることの道程をはっきりとわかりやすく示さなければならない。視聴者の無垢なまなざしの前で何をどう伝えたら良いか、さぞ悩んだことだろう。

この質問を私自身にも問うてみたいと思う。
「なぜ、大島なのか。」

もう一歩踏み込む

2011年 1月 23日

私はフィルムで写真を撮っているので、写真の出来映えを見るのには現像を待たなければならない。写真はとある現像所に郵送し、現像済みのフィルムとスキャンデータを返送してもらっている。
最近撮った写真をチェックする。現像を待つ間に撮影当時の意識が冷め、客観的になる。フィルム写真ならではの楽しみの一つと言ってよいだろう。じっくりと一枚一枚の写真を吟味する。すると自分自身のその時のまなざしがよみがえる。
私は大島に行くたびに、少しずつではあるが入所者の皆さんを写真に撮っている。「ハンセン病回復者の今」を切り取るというよりは、そこで暮らす人々、仲良くなったおじいちゃんおばあちゃんを撮っているという感覚である。思い返せば3年前初めてカメラを持って大島に入った時はそんなではなかった。大島でカメラを持って歩いているだけで、撮りたいという自分の欲求と撮ることが何になるんだと問い返す自分が葛藤した。「それでも写真に撮りたい、撮っておきたい。」という気持ちの歩みがこの3年間の写真にのこされている。
一瞬の躊躇がある。ぐっと踏みとどまりさらにもう一歩前に出て皆さんの姿を写真に撮りたいのだが。撮りたいという欲求を被写体である入所者の皆さんの前にさらけ出しているようでその迷いが拭いきれない。そんなことでは踏み込んだ写真は撮れない。いっそのこと撮らなければ大島に来ていることの身の潔白を証明できるじゃないか。否そんなところで立ち止まってはいけないんだ。ではなぜ撮るのか。撮らなければならないのか。私が踏み込めない一歩についてずっと考えている。その一歩は物理的な距離ではない。私と大島の人々との間柄の深度かもしれない。土足であがり突き破るのは私にはできない。扉をノックし、玄関で挨拶し、お部屋にあげてもらってお話をしながらゆっくりと近づく。すると初めて気づくお互いの感情の質感と温度。
私の撮る写真はまだそこまでたどり着けていない。

うねり

2011年 1月 16日

7:00 島内放送では、朝一便の官用船は出るが、それ以降は欠航になる可能性もあるとのことだった。天候も気にかけなければならないが、やはりわざわざ大島に足を伸ばしてくれた一般来場者への対応に集中しなければならない。高松側にいるこえびネットワークの笹川さんと電話で連絡を取り合いながら、対応策をその都度立てる。
海上へ出なくとも大島の桟橋で風の強さ、シケの激しさは十分体感できる。海全体が沸騰しているかのように大きくうねる。波頭は白く、そこをさらに風が煽り霧吹き状に拡散する。海上の視界を阻むのは霧ではなく、この噴霧状の海水が宙を舞っているからだろう。それでも数名の一般来場者が大島にやってくる。心配されたが終日船がとまることはなかった。こえび隊でガイドやカフェスタッフを担当した皆さんが旦那さんをつれてきてくれたり、友達と連れ立ってきてくれたりと、親密なネットワークで「大島ファン」を増やしている。そしてほとんどの方がリピーターになり複数回大島を訪ねてくれる。そんななか、芸術祭終了後のカフェの役割はますます重要になってきている。寒い季節柄室内で落ち着く場所が求められるのは当然だが、単に落ち着くというにとどまらず、大島を味わうことができる要素がふんだんに用意されていることにある。冬の食材は入所者がつくった野菜。それらの魅力を余すことなく活かす。その創意工夫が訪れる人々をなごませる。今回の一般公開日ののちには「出張シヨル」と題して第二面会人宿泊所=カフェ・シヨルから離れ、大島会館で入所者と職員を招く。そうした開かれた姿勢が人々の心を動かしている。カフェを運営している井木、泉の二人は一切合切を心から楽しんでいる。それがカフェ空間の穏やかさに拍車をかける。
外ではあいかわらずとめどなく風が吹く。激しい海のうねりとは対照的にカフェ・シヨルの店内は「凪」である。

16:15 こえび隊の藤井さんと高松行きの官用船まつかぜに乗船、名古屋へ向かう。桟橋から見ていた海が実際に漕ぎ出てみるとずっと激しいことを実感する。船首が波を切るたびにしぶきが視界を覆う。海岸から見えていたうねりは実は末端であり、そのいくつかを束ねたもう一段階大きなうねりに包括されている。船はこの大きなうねりにはなす術もなく、辛うじて末端の波を切って進むのだ。この様子をながめながら、スタジオジブリ製作の「崖の上のポニョ」の1シーンを思い出していた。嵐の海のシーンが今目の前に繰り広げられる情景を忠実に描写しているのだ。どんなに大きな船もうねりには身を任すほかない。かの映像では船は木の葉のように儚かった。世界有数の内海である瀬戸内にこんな荒ぶれた一面があるなんて思いもしなかった。
高松について間もなく奥さんからメールが届く。「名古屋は吹雪いているよ。」これを聞きつけ、夜行バスを断念する。バスは運行しているようだが、雪のため高速道路が寸断される可能性が高い。予約を解除して電車で帰ることにする。岡山までは順調だったが、新幹線のダイヤは大幅に乱れている。下りが1時間30分ほど遅れがでているのは理解できる。京都―米原間でのろのろ運転。しかし私が乗るのぼりも1時間の遅れが出ている。こちらはマシントラブルのようだ。ホームは長蛇の列。満席のうえ廊下も隙間なく人と荷物で埋め尽くされている。京都―米原間は雪でさらに遅れる。結局1時間30分遅れで名古屋着。なんとか地下鉄の最終に間に合う。

床の音

2011年 1月 15日

一般公開日。朝からすでに風が強い。大島の季節風は抑揚がほとんど感じられない。途切れることなく吹きすさぶ風は私たちの体温をいとも簡単に奪う。ガイドを担当するこえび隊の皆さんと一般来場者数名が朝の便(9:10高松発)でやってくる。船が相当揺れたようだ。いまのところ船は出ているが、午後になるとさらに風が強くなるという。
11:20 人権啓発課の方々が大島を来訪。納骨堂でご焼香をすませ、カフェ・シヨルでお話しする。大島青松園は入所者の生活を充実するに加え、ハンセン病についての啓蒙という社会的役割も担っている。そのため高松市の職員のなかでも大島では人権啓発課の方々をお見受けすることが多い。私たちの活動にも注目していただいている。ご質問がいくつかあったので私はそれに答えつつ今後の活動方針についても概略をお話しした。私たちの取り組み{つながりの家}は一部の人に限られるのではなく、周辺地域の市民ネットワークで支援していく形体こそがのぞましい。なぜならば大島で暮らす人々への偏見と差別が直接的におよんだのは周辺地域からであっただろうし、その障壁は足下から取り除かれなければならないからだ。その意味では瀬戸内芸術祭の舞台が一翼を担ったことは疑いない。ここ一年を振り返って私が接した限りではただ静観するというのではなく、様々な動きが互いに連携し、影響を与え合う機運が育まれつつある。
カフェ・シヨルで野村さんとお茶する。NHKの取材陣が朝から大島入りしており、入所者に気遣いながらそっと撮影を進めている。
せっかくなのでろっぽうやきを所望する。
木のフォークでろっぽうやきを二つに割ってみる。その質感はほっこりとしっとりの中間と言ったら良いか。口に含んでもべたつかず、抑制の利いた甘みがかえってあずきの豆本来の風味を立体的に引き立てる。一方きつね色の「皮」はその風味をうまくパッケージしている。皮の味はほとんど主張しないのだが、気がつけばあんこの風味を後押しして甘みの余韻を醸し出す。私は芸術祭期間中数回ろっぽうやきを食したが、その度に食感、風味どれひとつとっても確実に深化している。野村さんもろっぽうやきをほおばる。一息おいて「うまいの。」 野村さんのコメントに一同表情がやわらぐ。ろっぽうやきは人々の心を解きほぐす力がある。殊にここ大島では。
午後は何人かの入所者に会いに行き、お話を伺おうと予定していた。自治会長山本さんが編成した資料収集委員(資料を収集し、社会交流会感構想の準備をする委員会)の方々に意見をお聞きしたいと思っていたからだ。入所者森川さん宅に電話し、お話を伺うことになった。
引き戸を軽くノックすると森川さんの声。森川さんは6畳間の半分ほどをしめる介護用ベッドに腰掛けていた。私に座布団をすすめ、私たち二人は床に腰を下ろした。森川さんの手と足はハンセン病の後遺症のため感覚が全くない。足は下垂足(麻痺のため足先が伸びてしまうこと)が進んでいるため、補装具によって足の角度を保持している。補装具が床をとん、とんと突く音が部屋に響く。資料収集委員は自治会の規程にあるものではなく、山本会長の判断によって臨時に組織されたものだ。私は可能であれば資料収集委員の皆さんのお手伝いをしながら、やもすれば廃棄されてしまう資料的価値から漏れる様々な事物を収集しようと考えている。それは昨年の芸術祭で行った「古いもの捨てられないもの」展の延長線上にある。私がお手伝いできることがあるのか、連携しながらできることの可能性を探るため意見をうかがっておきたかった。森川さんの記憶力は健在だ。何を尋ねても年号と出来事の照合が瞬時に導きだされる。森川さんの頭の中に大島ではトップランクの歴史年表が納まっている。
自治会長が森さんに代替わりすることで、資料収集委員は一度解散するという。森さんがどのような方針をたてられるのか、まずは見守ることになりそうだ。
13:25の官用船でこえび隊、一般来場者、人権啓発課の皆さんが一斉に高松に帰ることになった。夕方の便が欠航する線が濃厚となってきたためだ。
井木は所用のため夕方の庵治便で名古屋に向かう。
17:00 野村さん夫妻が野村ハウスにやってくる。今日は野村ハウスで鍋をすることになった。ネギ、白菜はもちろん野村さんが育てたものだ。白菜は芯近くまで虫が食っている。つまりそれだけ美味いということだ。春美さんのお知り合いから送られてきた蟹の爪も食べることになり食卓を豪華に彩る。
蟹のだしが白菜の甘さを引き立てる。野村さんの育てた白菜の糖度が潜在的に高いことは言うまでもない。私、泉、野村宏さん、春美さん、4人が一つの鍋を囲み舌鼓をうつ。ここが、ハンセン病の療養所であることをわすれてしまいそうだ。ゆったりとした時間が流れる。
20:00 話は尽きなかったが、そろそろお開きとする。野村さんご夫妻が席を立ち玄関に向かうその時、床がとん、とん、と響く。春美さんの右足に括りつけられた補装具が静かに、床を打つ。私はその響きを足裏に感じながら今、自分が大島にいる、という実感に引き戻される。玄関の外に出てお二人を見送る。野村ハウス=11寮の軒先まで出て野村さんは振り返り様、こうおっしゃる。
「また、やろうな。」
「鍋は恒例でやりましょう!」
鍋でほてったほおを凍てつくような海風がなでていく。

大島 季節風

2011年 1月 14日

11:00の官用船まつかぜに乗船。新田船長から「日曜日はまちがいなくシケだよ。天野さん、(大島に)来れんかもよ。」とのこと。今回の一般公開日で、井木が所用で大島にいられない日があり、日曜日にサポートメンバーとして天野が来る予定で、船長はそのことを案じていた。年明け早々に大島特有の季節風が吹きすさび、船が出せなかったそうだ。夏の芸術祭期間中、風や高波で船が止まることはなかったが、季節風の強い冬はそうはいかない。
13:00 自治会から放送が入る。山本会長からこれまでの経緯と次期会長の紹介がある。次期会長は森さん、副会長は野村さん。
14:30 定例検討会。今月の検討会は自治会役員任期最後となる。決定することは難しいタイミング。今後検討しなければならない事項を列挙し、大島に現存するものを有効活用して次期芸術祭を目指すという方向性のみを確認する。2011年度いっぱいを使って芸術祭にむけてのギャラリーやカフェのあり方を探ることになる。12月から再スタートをきった、大島の取り組み{つながりの家}。カフェの来客数が100名を越えたのだが、今回はその内訳(一般来場者、入所者、職員)をカウントしていなかったので、明日からは詳細にカウントし、分析していくことになった。
18:00 野村ハウスの隣人、安長さんを食事に誘おうとドアをノックしたが、留守のようだ。安長さんお気に入りの焼酎を買ってきたのだけれど。
カフェ運営の井木と泉は明日のため仕込みで遅くなるとのこと。私はイワシを梅肉とショウガで味付けて煮物をつくる。
野村ハウスがある「北海道地区」は山を背負っているのでそれほどでもないが、西側は強風が吹き始めている。船長の言う通り、天候は大荒れに向かう。

開かれた

2011年 1月 9日

「地域に開かれた病院をー。」といううたい文句は、私たちやさしい美術プロジェクトと協働関係にある病院との共同声明である。約9年ちかく前に初めて足助病院を訪れた時に早川院長がおっしゃった言葉を思い浮かべる。
「足助病院は足助で一番人が集まるところです。病院であるとともにここはコミュニティーの場でもあるのです。病院は地域に開かれているべきです。」
小牧市民病院の末永院長と最初の打ち合わせをしたとき、院長はこうおっしゃった。
「病院に作品を見に来てもらってもいいと思います。それぐらい、病院という場所が地域に開かれているのがいいと思います。」
私たちの取り組みの初期からこれらの言葉は様々な意味を持ちながら今日まで受け継いできた。当時のあの言葉はアートが発揮する効果への期待感というよりは、医療者対患者、病院と地域というこれまでのわかりきった関係性のみでは成り立たない何かと向き合い、一歩を踏み出さなければという焦燥感がにじみ出ている。

大島は国が離島につくったハンセン病の療養所。入所者の言葉を借りれば、「ハンセン病患者を目立たず誰にも気づかれない場所に閉じ込め、そこでひっそりと滅するのを待つ」場所だった。「ところがどっこい、私らはまだ生きとるぞ。」とおっしゃる入所者の声は、生き抜いてきた、生きてきてしまった、生きることを与えられた、つまりは生きながらえた生命体の証そのもののように響く。

大島を開くこと。それはハンセン病回復者である入所者がふつうのおじいさん、おばあさんになることだ。今の私にはそのように思える。

病院を開くということ。それは普通に日常を生きることと、(何かの理由で)病院にいることが地続きになること。

そこだ。これからそこをじっくりと詳らかにしていきたいと思う。

変わる風景 続編

2011年 1月 6日

<1月2日付けブログの続編>
大島の入所者が語る「故郷(ふるさと)」とはその背景にある過ぎし日々の途方もない長さ、人と人を隔てる受け止め難い障壁の重さ、どれをとっても私が体験してきたどの物差しにも適うものではない。かといってそれをさも理解したかのように「次元がちがう」と別棚に据えるのは大事な何かを放棄する気がしてならない。確かに私はハンセン病の回復者の方々と親密に接する機会を得て、その心情にふれる場に身を置くことができた。しかし、それはほんの3年間であり、大島青松園101年の歴史の末尾。人類にハンセン病が現れた時代は定かではないが、数えきれない年月のほんの一瞬に立ち会っただけである。

私には明らかに何かが欠けている。先述のように私は典型的な現代の日本に生を受けた。私自身を構成する「風景」に不動不変の心情は生まれない。それこそその「風景」が何万年、何千万年を費やして育んだ存在の根拠ごと削り取っていく様をただ目の当たりにしてきた。そこには薄い皮膜のような地表に存在する生きとし生けるものの営みへの尊厳は認められない。私はそれをさして痛みも感じず傍らでぼんやりと眺めてきた。風景との関わりは人との関わりに通ずる。血と肉を分け合うような濃密な「関わり」は物心ついた頃には私の周囲にはなかった。あるいはすでに方々分断され、つながりのなかにある自分を感じることができなかった。自分がまるで密閉された容器のように素っ気なく感じた。
「入所者と私が似ている」というのはいかにもおこがましい。しかし、入所者と接するなかで多くのエピソードにふれ、見聞きしたことを古い地図に投影しながら、次第に鮮明になっていく光景に息をのみ、心がふるふるとうち震え、涙がしとどにあふれた。そのとき私の細胞が 共鳴しているのを確かに感じた。
この感覚は大島にはじまったことではなかった。病院での取り組みの様々な局面に出会い、痛み、苦しみもだえ、憂い、迷い、悩み、突き抜け、よろこび、はればれとし、多くの感覚を抱きしめた。その度に「この感覚が最初で最後かもしれない」と思った。幸いそれは何度も私に訪れた。
取り組みの目的がそこにあるのではないが、私は私自身のために不可視のつながりの糸を恢復してきたのだと思う。 その歩みの先に「大島」があった。

ある入所者がこうおっしゃった。
「私は大島に入所して60年になる。らい予防法が廃止になって入所者は故郷に帰ることがゆるされるようになった。でもね、50年も60年も経って故郷に帰っても、記憶に残っている風景はそこにはないんだよ。知っている人もいない。ましてや親族もいなければ、実家が建っていた跡すらない。大島に閉じ込められてからというもの、故郷への思いはそれはそれは強いもんだった。でも、帰ることのできる故郷はどこにもなかった。故郷はね、心の中にそのまま大事にしまっておくことにしたんだよ。」
ある方はわたしにこうつぶやいた。
「私たちは最後の一人になるまで、終の住処として大島で暮らしたい、そう思っているんだよ。」
法律が廃止されたとて、人の凝り固まった偏見の心がいとも簡単に解きほぐされるとは限らない。経てきた時の流れはもとには戻らないのだ。国のつくった制度に翻弄され、見えない感情の軋轢をかいくぐって生き抜いてこられた入所者が発する その言葉の真意は今の私にはつかみきれていない。でも本人たちにしかわからないとか、きっと大変だったんだろう、などとという感情のなびきでは済まされない、きりきりとした心の軋みを私はずっと感じ続けている。なぜだろう、何なんだろう、この感じは。自分でも焦点が合わないままの感情の焰を携えて私はまた、大島に向かう。

私が芸大を目指し、浪人生だった18歳の夏。先述の山賊峠にブルドーザーが入り、灌木林はすべてこそぎとられた。山賊峠の緩やかなカーブを描いた軌跡は土砂のカオスのうちにかき消され跡形もない。方向性を持たないキャタピラの轍が巨大なドローイングを描いていた。表土ごと剥がされた植物のない大地は、やはり砂漠を思わせた。造成前には見通せなかった風景が褐色の砂漠の向こうに立ち現れる。折り重なる屋根のシルエットが人の営みを感じさせ、それが実際の距離よりもずっと遠くに感じられる。
私は当時の仲間4〜5人をそそのかし、このむき出しになった大地で作品を制作しようと声をかけた。月曜日から土曜日までは土木作業員以外は立ち入り禁止。平日は例のごとくブルドーザーの単調な排気音が轟き、土砂粉塵が渦巻いていた。私たちは土曜日の夕方、作業員が仕事を終え、人がいなくなったのを見計らって額にタオルを巻き、スコップ、つるはし片手に造成地に侵入した。
私たちが実行したのは、大地に方形の池を作り、そこに水を満たす、というミッションだった。 夜中おなかがすくと、造成地のはずれにある私の実家に行き、母が握ったおにぎりをほおばった。全身どろどろだった。夜を徹して作業し、翌日の日曜日を迎える。日中も休みなくひたすら掘り続けた。休めばそのまま動けなくなるような気がした。後日談だが、母の話では「造成地になぞの若者たちが現れ何か良からぬことをしている。」という噂が立っていたという。母は知らないふりをした。近所付き合いのある警察官のお宅は、うすうす私のしていることを知っていたようだが…。今思えばこういう大人に血気盛んな若者は人知れず助けられているのである。
さて、方形の池の掘削作業である。難しいのは水で満たすために水平をとらなければならない。当時の私には水糸をはるなどという知恵も技術もなかった。目測、つまり勘を頼りにとにかく掘り進めるしかなかった。一睡もせず、何から何まで体力任せ。日曜日も日が暮れて夜に突入する。掘る手は思うようにはかどらない、気持ちは萎えてないのだが体がついてこない。翌朝までに本当に完成するだろうか。夜があければ、私たちは造成地から立ち去らなければならない。残ったメンバーは私と近藤歩、鈴木敦の3名。
夜明け前、とうとう完成を迎える。明かりのない場所では空が一番明るく感じられる。それとは対照的に大地は深く黒い闇に近づく。その漆黒の内に10メートル×15メートルほどのしっかりとした辺で切り取られた空が現れた。わずかに明度を持った空が掘った水たまりに映り込んでいる。私たちの二晩を徹した営みは仄かで儚いけれど、その光景は想像していたよりもずっとダイナミックに感じられた。膨大な作業の集積がそこに感じられないのが、またいい。私たちは夜明けの刻々と明るさを増す様子と同調するかのようにただ無心に眺め続けた。
肉体を酷使し大地と関わった充実感で満たされたあのとき。私はほんの一瞬ご褒美をもらったようなあの感覚を、青春の宝物として今も心に抱いている。

まもなく夜は明け、キャタピラの轍が影を落とし、存在感を放ち始める。一時的に満たされた静謐な空気は徐々に日常の彼方に吸い込まれていった。

ビデオも撮ったはずだが…数少ない残っているカット