Nobuyuki Takahashi’s blog

プロジェクト

産学共同プロジェクトがさらにもう1つ立ち上がりそうだ。
現在7月末に搬入する中部電力「デザインの間」ディスプレイプロジェクトの2度目の展示に向かって目下ノルマを決めこんで製作中。
さて、もう1つは現在確定していないのでここでは詳細を伏せておく。今日、学生と一緒に現場を見学してきた。
このように産学共同プロジェクトに参加し、社会との接点で学生が活動できることはとても良いことだ。どの教職員も学生もそう言っている。時間給で身銭を稼ぐことも社会勉強だが、企業に学生自ら提案・実現し、成果をのこす達成感は何にも換えがたいものだ。その充実感は自分が興味が持てることに取り組めることの楽しさに加え様々な葛藤と労力、プレッシャーを乗り越えたことも含まれるものだ。一方でファシリテーションする側が共通して抱えている悩みがある。学生が卒業という最終目標を達成するための単位認定、そしてそれに直接関わる課題提出は学生の「義務」であるが、社会活動は「仕事」なのだ。この差が解るだろうか。学生はそこを取り違えてしまうのである。しかも追いつめられ、大きな壁にぶつかっている局面に限ってその取り違え、すげ替え、優先順位の逆転が噴出するのである。やさしい美術プロジェクトには何人かの卒業生が参加している。卒業生にはこの取り違え、すげ替えがない。初動機の持続、あるいは持続可能な動機付けのもとに行動に移しているからだ。仕事に自らの生き様を映す「ライフワーク」となっているすばらしいメンバーもいる。
この文章を読んでいる学生がいたら、私は失礼なことを述べたかもしれない。とてもがんばっている学生もいる。学生という括りを越えた意識の学生もいる。矛盾しているが私は学生は学生らしくあってほしいとも思っているのだ。むしろ学生という時間は何にも邪魔されず、理不尽な圧力に巻き込まれることなく純粋に、ひたむきに「ライフワーク」を追及するチャンスかもしれない。
理想を言えば、順序が逆だ。自分がライフワークとしていることが仕事になり、それを生業に生活する。でも、そうは簡単には行かないのだ。自分が猛烈に打ち込んでいてもそう容易くお金はついてこない。経験的にわかっている。
私は恥ずかしながら、無税の一年を送ったことがある。鶏舎小屋を改造して3000円の家賃で暮らし、水は水道ではなく沢水。8万の軽トラックは減価償却。作品制作費はすべて経費とし私が稼ぎ出したアルバイト代の多くはこれに消える。確定申告をしたときは基本控除の38万円を抜くと、生活費は極微々たるものだった。役場の担当者は怪訝な表情で私にたずねた。「あなた、どうやって生活しているんですか?」「あなたは何をしている人ですか?」
その時私は社会との接点というものは「枠組み」でできている、と思った。私の生き方はどの枠組みにも当てはまらなかったのである。「何者かわからない私」。その頃の私は沢水を毎日飲む生活をしていたので、実感として連綿と受け継がれ流動するという世界観を持っていた。それは私たちが日常で便宜上規定し、分類している枠組みを貫くものだ。この「実感」と「直感」は私の制作にも生活にも大きく影響をおよぼしていた。私が考える「クリエイション」とは枠組みから離れて遠巻きに見つめるのではなく、どこまでも枠組み内の存在として、その枠組みをぶち抜き貫いてつないで行くものでなければならない。
「枠組み」という言葉は適切かどうかわからない。もう少し当てはまる言葉があれば教えていただきたい。