Nobuyuki Takahashi’s blog

映し出すもの

あるビルのエレベーターに乗ったときのことだ。私はいつものようにエレベーターの扉が開くのを待ち、エレベーターに乗り込む。乗り込むと一瞬ぎょっとする。真正面に大きな鏡がはめ込まれている。それもエレベーターの扉が開くと乗る人の全身がそのまま映し出される大きさ。あまりにも鮮明に映っているので鏡に面している私から見て、開いている扉の向こう側はまるで鏡を境に自分を含めた光景が広がっているかような錯覚をおぼえる。扉が閉まると私はしばらくこの鏡を眺めていた。
その鏡は研磨された金属板(たぶんステンレス)でガラスの鏡とは明らかに違う。鏡面に手を触れると、鏡像と実像の接点には何も隔てるものは無く、ぴっちりと接する。ガラスの鏡ではこうはいかない。鏡像と実像の間にわずかなガラスの厚みが現れるのだ。
再度鏡に映る自分を見つめる。反射している物理的な現象だとは理解しているけれど、映し出されている世界には何かそれ以上のものを感じた。鏡は物質を越えて限りなくゼロに近い皮膜に空間を創り出している。
私は時折金属や石、革製品、木材など、手元にあるものを手当たりしだい研く。研くことを通して雑多な気持ちが1つになり不思議と安らぐのだ。丹念に研いていくと鏡のように映り込むものがあり、また限りなく透明に近づいていく素材もある。いずれにしても研磨していくと霧が晴れて行くようで心地よい。
限りなく透明ですべてを透かしてみることができるもの、ことごとく反射し、すべてを映し出すものを創造できないだろうか。いつか、そのようなものと向き合ってみたい。
エレベーターに話を戻そう。思い起こしてみると、鏡はただそこに在り、いろいろな環境の要素が絡み合っていた。鏡のサイズ、鏡の素材、エレーベーターの箱の高さや奥行き、壁の色、外と内の明るさ、乗り込む前の喧噪と乗り込んだ後の静寂…。向き合うものと向き合う状況は分けることができないようだ。