Nobuyuki Takahashi’s blog

Archive for the ‘大島’ Category

生き様と歴史が隣り合わせ

2011年 7月 24日

東村山にある国立ハンセン病資料館へ行った。西武池袋線で清瀬まで、そこからバスで10分ほどのところだ。
資料館は国立療養所多摩全生園の敷地内にある。周辺は住宅地だが、ところどころ鬱蒼とした雑木林に隔てられ、以前あった周囲との隔絶の痕跡を見て取ることができる。

常設展示は見応えがある。ハンセン病をめぐる歴史のパネルとそれにまつわる事物の展示は歴史的事実の重みを伝える。
証言がビデオで編集され、全国にある療養所で取材された入所者のインタビューを鑑賞することができる。
そして企画展は「かすかな光をもとめて」と題した、盲人の入所者に焦点をあてたもの。 私が大島で預かっていた木製の盲人会館看板が展示されている。ハンセン病を患い、失明して二重の絶望を背負った入所者のコメントがA4ほどの紙にプリントされ、壁一面にびっしりと掲示してある。一枚一枚が叫びとなって頭の中で反響する。
これからハンセン病資料館に行く人にアドバイス。丸一日時間をたっぷりとって訪れてほしい。

資料館を出て、全生園を歩く。食堂で定食を食したあと、あたりに耳をすましてみる。子どもたちが遊ぶ声が聞こえる。高校生が通りがかる。けっして多くはないが、自然に全生園敷地内を行き交う人々の姿が見受けられる。
「隠された史跡」として、監房跡や洗濯場(包帯を洗ったとされる)、収容門の跡が表示で示されている。遺構が全く遺ってなくとも資料館で見た史実と現在の風景を重ねて想像する事ができる。そして、今も、ここで入所者が日々暮らしている。生き様と歴史が隣り合わせにあるということが、とても力強く感じられた。

全国唯一の離島、大島。たとえば「資料館」という構想が大島に成り立つだろうか。生き抜いてきた証。それを、後世に伝えて行く事ができるだろうか。

少年少女舎跡は荒れているが、取り壊される事なく現存している

ひかりに満ちていた

2011年 7月 19日

大島にあるミニ八十ハカ所めぐり 地蜂を光背に擁する

瀬戸内の蒸気が大島を包む

野村さんの畑の坊ちゃんカボチャ 美味しくいただいた

大島 野村ハウスの表札

ひかりを感じた

2011年 7月 18日

大島から見た高松

大島の最も古い建物のひとつ、霊交会の扉

野村ハウス(大島一般12寮)の前に広がるグリーンカーテン

足を使えば、出会う機会も増える

2011年 7月 18日

臆する事なく、足を使い、近くに行く。そうすると、遠くでは体感できなかったことがたくさんあることに気づく。足を使えば良いというものでもない。全身の感覚を触手の末端まで漲らせ、自らの内の現象を受けとめる柔らかな状態を保たなければならない。

発達センターちよだのW.S 色水で遊ぶ

納骨堂横のやまもも

野村さんの水瓜

カフェ・シヨル開店一周年!!

たとえば、ゴールデンレコードのような

2011年 7月 15日

現在進行形で大島を見てもらいたい。
しかも、それは有限と言わねばならない。ハンセン病患者の強制隔離の歴史は受け継がれるべくもないが、明治42年開所以来の営みの火はいつか、消える。

ハンセン病療養所13カ所のうち、唯一の離島、大島。

大島を「地球」と喩えてみる。大島が浮かぶ海は大宇宙だ。
敢えて喩えるならば、1970年代に地球から打ち上げられたパイオニアやボイジャー探査機に積載されたゴールデンレコードをイメージしてみる。地球外知的生命体がある日、広大な宇宙の海原で探査機の断片を発見した時、それらのディスクが地球の存在、人間の文化や生活を伝える。

本当に何者かが受け取ってくれるだろうか。仮に受け取ってくれたとして、どのように受けとめてくれるのだろう。何が伝わるのだろう。そして、その何者かは私たちに遭いに地球に来てくれるだろうか。

最近、大島に行くと、太陽系の外へと飛行を続ける探査機に載せられた金属板のことが頭を離れない。

7月8日、やまももの実を収穫

大島 第1回定例検討会

2011年 5月 20日

大島にて今年度に入って初めての検討会を行った。
11:00 官用船に乗り込み大島へ。
14:30 定例検討会を開催する。
議題のほとんどが継続審議、ここでは決定事項があれば報告することにする。
入所者自治会の役員は2月から翌年の1月までが任期となっている。そうした大島ならではの特殊性に沿うようにスケジュールを組んで行く。次回のART SETOUCHI2013が計画されており、大島も一会場として名乗りをあげていく運びだが、そのために様々な問題点を解決して行かねばならない。振り返れば瀬戸内国際芸術祭2010の時の「一般公開」を実現する緊張感は並大抵ではなかった。 次回芸術祭は大島で暮らす人々の今と未来を考えて行かなければならない。私は今後、定例検討会が担う役割はさらに重くなると思っている。
検討会が終わり、入所者の森さんや野村さんと談笑。まだぼんやりとした計画だが、今年の夏か秋あたりに、希望する入所者の皆さんと、こえび隊、やさしい美術で他の島をめぐるツアーを組みたいという話をしたら、お二人からこぼれるような笑顔が。ぜひ実現したいと思う。
最近は私が大島に行く時は2〜3件アポイントが入ることが常だ。取材や打ち合わせが多いが、それは大島に心を寄せてくれている人、大島のために何かをしようとしている人、大島に関連した何かを発信したい人が集まってきているということだ。大島のことを放ってはおけない、そんな機運が大島周辺へ、そして日本全体へ、世界へ伝わっていけばと願う。

大島 畑仕事

2011年 5月 8日

最近は大島に滞在する時間が短くなってしまった。なおかつ滞在する間は取材に応じたり、事務的な仕事でほとんどの時間が取られてしまう。とは言ってもどれもディレクターとしては大切な務めだ。大島のことをできるだけ多くの人に知ってもらい、気に留めてもらう。そのためにはどんなことも積み重ね、誠実に向き合って行かねば。

昨日大島に入る時はまた嵐になるのではと心配していた。というのも、ここのところ私が大島に立ち寄る度に大しけになるのだ。官用船の船長にも冗談まじりに言われたことがある。いよいよ金比羅山を参拝しなければと思っていたところ。
今朝の大島から見る海は金色だ。黄砂の影響は名古屋だけではない。ここ瀬戸内も黄砂の靄に包まれている。カフェ・シヨルの運営担当泉と井木は朝早くからカフェのある第二面会人宿泊所で開店前の準備に追われる。私は少し遅れて滞在場所の野村ハウス=12寮を出ると、軒先で入所者の野村春美さんと出会う。ゆったりと世間話をしていると旦那さんの宏さんが自転車でやってきた。そのまま一緒に畑仕事をすることになった。トマトの木が花をつけている。トマトに添え木をして紐で結びつける。ハンセン病の後遺症で手が不自由な入所者の皆さんにとって骨の折れる仕事である。すいか、ごうや、ぼっちゃんかぼちゃなどが順調に枝を伸ばしている。昨年はあまり芳しくなかったごうやが快調に蔓を絡ませつつ成長。野菜作りは今を大切に感じ、明日を見つめる営みだと思う。野村さん夫婦はこの大島で60年もこの営みを繰り返してきた。歳月の重みはあっても、野菜は60年前と違わず、今この時を生き、来るべき明日に実を成らせる。野村さんと畑仕事をして身も心もほぐれていく。

野村さんと畑仕事をする

土を松葉で覆う、大島独特の農法

昨年実ったおくらの花の種をまく

大島 メモリアル公園?!

2011年 4月 10日

7:30の新幹線に乗り込み高松へ。10:25 高松駅着。
11:00の官用船に乗船。もやがかっているけれど、春らしく晴がましい日だ。高松の桜は散りはじめている。この分だと大島の桜はちょうど満開かその少し手前だろう。大島は海風が冷たく、ちょっとだけ開花が遅いのだ。桟橋で栄養課の職員さんと会う。いつも私たちの取り組みを温かく見守ってくれている。
官用船から見える屋島は全体が萌葱色で桜がまだら模様を描いている。いつもは重々しく見える屋島もふわりと軽く感じられる。
大島は松の緑が深い濃淡、山の方には少しだけ桜が咲いている。そして差し色のようにあざやかなピンクは山ツツジだ。今はそこここに桜の木が植えられているが、その昔職員地区にしか植えられていない桜の木。入所者はせめてお花見だけでもと願ってもけっして見ることが許されなかった。その代わりに山ツツジで花見をしたのだそうだ。
カフェ・シヨルに行くと泉と井木がいそがしくしている。そしてお手伝いには香川県庁の今瀧さんが入ってくれている。大島の担当から異動になっても、休日は大島の取り組みを支援してくれている。元アートフロントギャラリーの大島担当高坂さんもシヨルでゆっくりとランチ、副園長さんもリラックス、うーん、自然すぎる。
GALLERY15に行く。長屋の一般寮が8寮、(9寮は更地)10寮、11寮(野村ハウス)、12寮と軒を連ねる「北海道」地区。その突き当たりにあるのが15寮を活用したGALLERY15だ。12寮を横切ると視界がぱっと開ける。そこでいつも目にする光景は更地に設えられた解剖台、その向こうに15寮がたたずんでいるはずだ。しかし今日は違った。手前には藤棚のためのテラスが組まれ、植栽が殺伐としていた更地にリズムを与えている。先月の時点で藤棚はできていたが、植栽が加わり、さらにレンガで大きくカーブを描いた道ができていた。この光景どこかで見たような…。そうだ、私が描いたスケッチだ。そのスケッチを参考にしているのが手に取るようにわかる。植栽をつぶさに見て行く。ついこの間まで鉢に入っていたものと分かる草花や盆栽が新たに植えられている。入所者の皆さんが大事に育ててきたものだ。13、14寮が建っていた更地はまるでメモリアルな公園に様変わりしつつある。藤棚は3年後の芸術祭を見越したものだ。暑い夏、大島にやってきた人々を藤棚の日陰が迎える。大島は未来を見ている。
私が何よりもうれしいのは、こうした動きが入所者の皆さん側から出てきたことだ。人を迎え入れる気持ちをこれらの植栽や藤棚が表現している。
私はあまりにもうれしくて、新しく作られた藤棚の元でお弁当をほおばる。どうだ、一番乗りだ!近い将来、藤の蔓が伸び、棚が藤の花でいっぱいになった時、入所者の皆さん全員をお迎えしたい。そしてここでお花見の宴会をしたい―。
荷物の整理と所蔵している様々な日用品を整理したあと、カフェ・シヨルに立ち寄る。お客さんが多いときは私は入らないようにしているのだが、今日は客足がゆっくりのんびり、私もお茶を楽しむことにする。入所者の皆さんもご友人を誘ってカフェでコーヒーやランチを楽しんでいる。夢のような時間が流れて行く。
そこへ入所者の脇林さんがご来店。一緒にテーブルを囲む。こえび隊の小坂くんも一緒だ。小坂くんは自身の研究のため多くの入所者の皆さんにインタビューし、歴史的な資料にも精通している。脇林さんが語るこれまでの歩みにじっと耳を傾けている。
もっと長く滞在したかったのだが、今日の大島はここまで。
一路名古屋へ。

新幹線の中で被災地に送る絵はがきを制作


ハンセン病を正しく理解する講演会

2011年 2月 23日

最初に高松市長の大西さんからご挨拶。大島青松園副園長の市原さんが25分間、医療者からの立場からハンセン病について解説し、その後は元自治会長山本さんがハンセン病回復者としての立場から隔離と差別の時代から現在までを振り返るお話があった。10分間の休憩をはさみ私が1時間、大島での取り組み{つながりの家}について講演を行った。

会場外のホワイエではパネル展示と資料閲覧スペースを設けた。森をつくる折り紙「Morigami(もりがみ)」を机の上に並べ、自助具や写真なども展示した。

壇上に手話の同時通訳がつくので、原稿をしっかり作っての講演だったが、昨日、高松入りしてからまた数枚のスライドをどうしても加えたくなり、その分ほかの解説を削って時間を調整した。が、10分もオーバーしてしまう。

このような場でお話させていただくのは光栄。というよりも恐縮、というのが近い。私が大島に関わったのはたかが3年。大島に気持ちを寄せている方々のなかには30年、40年もずっと大島と関わり続けている方もある。
だから、私が考案した{つながりの家}構想は今に始まったのではなく、ずっとずっと昔から大島と関わってきた人々の共鳴する精神が今かたちになってきたのだ、とつくづく思う。周波数を合わせ、それをさらに増幅させたり、より多くの人に届くようにアンテナをかざしていく。それが私の役目。きっと誰もができることではない、アーティストの媒介者としての役割。きっと今、ここにいる自分だからこそできること。
自然と口につくことば。

「ありがとうございます。」

生まれ変わるなら、野村さんの野菜になりたい

2011年 2月 12日

大島のお父さんとお母さん、野村宏さんと春美さんがカフェ・シヨルに来てくれた。何気ない世間話をしながらコーヒーとお菓子を楽しむ。
野村さんの野菜はおいしい。果物は瑞々しい。なぜだろうと訊ねると、野村さんは少し照れ笑いを交えながらこう答える。「もう、50年以上野菜作っとるからな。」
野菜作りの秘訣を請うと「昔からな、野菜は主人の足音を聞いて育つと言うんよ。」私たちは野村ハウスで毎朝野村さんの足音や鍬の音を聞いて過ごしていた。野村さんは野菜だけではなく、いつも私たちのことを見守ってくれている。
カフェ・シヨルで井木と泉は野村さんや森さん、大智さんの野菜や果物を余すことなく調理している。素材の良さとそれを活かす心意気が一つになり、それをお客さんに喜んでいただく。カフェにやわらかなひとときが流れ、それを糧に次のメニューを編み出していく。なんと流麗な循環だろう。
泉がつぶやいた。「生まれ変わるなら、野村さんの野菜になりたいな。」