9月
19
2011年 9月 19日
活動について, 被災地支援
9月
18
2011年 9月 18日
足助病院の病棟に60個、設置されている作品「私の美術館」通称:絵はがきフレーム付きマルチボックス。入院している病院利用者のベッドサイドに季節ごとに絵はがきを提供してきた。マルチボックスはティッシュや眼鏡などの小物を入れておき利用者が寝たきりでも手を伸ばして手にとることができる。入院している方々の傍らでそっと支援、応援するもっとも身近にある美術作品といってよいだろう。足助病院と丸3年を費やして共同開発を進め、2007年に設置。耐用年数を5年と定め、ボックスが破損した場合などは責任を持って修理に務めてきた。この「私の美術館」は来年で約束の5年を数える。昨日、メンバーら5名が集まり、木工工房の榊原さんの指導のもと修理作業を行った。
学生が主体的に活動する取り組みは入学と卒業という時間制限がある。否応なく活動に携わるメンバーは入れ替わって行くのだ。この「私の美術館」は開発までを含めると8年というスパンで社会的に責任を負うことを選択した。学生をとりまくタイムリミットを越えた取り組みであること。世間では当たり前のことだけれど、それを実現するには引き継ぎや対処マニュアルの作成も学生が担い、相当の労力をつぎ込んで整備した。木工工房をのぞく。新旧メンバー5名が力を合わせて修理している姿に感動。
活動について, 足助
9月
17
2011年 9月 17日
被災地支援
9月
11
2011年 9月 11日
6日から7日まで宮城県の被災した地域をまわった。
七ヶ浜町は私が最初にボランティアに出かけ、「ひかりはがき」を手渡しした場所だ。避難所で暮らしていた人々は仮設住宅に移り、一見平穏な日常を取り戻したかのように見える。
レスキューストックヤードの石井さんと情報交換する。
あまり知られていないことなのでここに記しておこうと思う。
家や家族を失ったのは仮設住宅に居住している世帯ばかりではない。 避難所にいることができずに自費でアパートを借りた人、応急の仮設住宅として町営住宅や社宅に入った人もいる。それらの事由で町外に出てしまった人がいる。そして、驚くべき事実。これらの人々は震災直後から物資は届かず、支援の手や呼びかけも受けていない。生きているのかもわからず、所在が不明の人もいる。人との関係が断ち切られ、閉じこもって暮らしている人がいる。閉じこもっているというのは適切ではないかもしれない。人との交流の機会がまったくないのだという。このような人たちは町外に出て、たとえ近くであっても自分の故郷である町に戻る機会を失う。顔見知りもどこに行ったかわからない。そもそも物も情報も届かないのだから、だれがどこにいるのか、生きているのかすらわからない…。
物事は直線的に進むものではないのだな、とつくづく実感する。レスキューストックヤードはこうした「みなし仮設住宅」やそれに漏れる状況に立っている多くの被災者に目を向けて、交流の場や物資や支援が届く機会を目下模索中とのこと。支援して行かねばならないところを隅々まで掬いとろうとする懸命の活動だ。
この凄まじい状況を聞き、私も「ひかりはがき」の手渡しをどのように、そしてどこで渡していくのか、あらためて考え直すきっかけとなった。とにかく足を使って自分の感じたことからやっていくしかない。
私たちの生活は非常事態の外にあるかのように平穏な日常をベースに営まれている。しかし、私たちは知った。非常事態から断ち切られた日常なんてありえない。平穏だと思う日常には非常事態はたくさんころがっているし、非常事態から日常を取り戻すためには自らを救い出していくエネルギーが必要なのだ。
非常事態から平穏な日常にいたる延々たるプロセスは全てつながっている。そこに身を置き、創造性を発揮するアーティストがもっといてもいい。領域の棲み分けを越えて協働する場が、広大にひろがっている。
女川町の避難所にてひかりはがきを渡す。談笑しながらじっくり鑑賞
女川町。コンクリートの建物が大地から引きはがされて転がっている。
亘理町。家が残っているが津波の衝撃で傾き歪んでいる。人々が住める状態ではない。
人々の手によって清掃された亘理町。人気がなく、信号機も動いていない。
七ヶ浜町仮設住宅にてひかりはがきを渡す
七ヶ浜町仮設住宅と表札
エッセイ, 被災地支援
9月
5
2011年 9月 5日
今日で44歳になった。facebookでたくさんのお祝いの声をかけてもらったが、どのように返事をしたらいいかわからず(活用方法が未だ理解できていないのです…)そのままで失礼をしてしまっている。
昨年の今日は大島にいた。脇林清さんの写真のワークショップを開いた日だ。これはこれでとても印象的だった。
めずらしく家にいる私のために家族がホームパーティーを開いてくれた。子どもたちのプレゼントが最高!ご褒美に背骨がぼきぼき折れるほどぎゅっとした。(写真を参照)奥さんからは新しいred hot chili peppersのCDをプレゼントされた。ロック好きとしてはたまらない。
慧地(8歳)からは自作本のプレゼント ほほう…!
美朝(4歳)からのプレゼント うーん…!
日記
9月
4
2011年 9月 4日
昨年7月に大島北西の海岸にて発見された解剖台。引き上げと展示を決め、大島青松園の作業部の男たちが不可能と言われた引き上げ作業に取り組んだ。
解剖台は大島で使われていたものだ。30年近く前に不要となり、火葬場近くの岸壁から打ち捨てられると同時に、人々の記憶からも姿を消した。
7月頭のこと、大島の入所者であり写真家の脇林清さんが引潮時に姿を現したコンクリートの塊を写真に撮ったのが引き金となった。入所者にしてみれば、誰から見ても一目瞭然、解剖台だった。
引き上げられる際に真っ二つに割れてしまった解剖台。無理もない、解剖台には芯材が入っておらず、そのまま移動することは困難だ。このコンクリートの塊は大島の外で作られたのではなく、おそらくここ大島で作られそのまま据え置かれたものだ。
二つに割れてしまったからこそ引き上げることができた解剖台。ひょうたん型の周縁部も大きく破損してしまったが、断片は残さず回収して保管した。
拾い集めた断片をひとつひとつパズルのようにつなぎあわせる。解剖台の修復をしながら、その断面を心に刻む。どのような色をしていたのか、どのような質感だったのか…。
修復しながら私が撮った写真をここに掲載しておく。大島を訪れた際にこの解剖台を通っていった人々のことを思い起こしていただきたい。きっと解剖台は私たちの心の内を鏡のように映してくれることと思う。
解剖台再発見時 写真:脇林清氏
解剖台の設置の様子
修復が終わった現在の解剖台
エッセイ, 大島
9月
2
2011年 9月 2日
エッセイ, ちよだ
8月
30
2011年 8月 30日
現在、「ひかりはがき」の手渡しのため、宮城県七ヶ浜町を中心とした被災地行きを計画中だ。Morigamiの展開も少しずつだが、方向性を見当しているところ。
被災地に行くこと、災害に遭われた方に会ってお話ししてくること、全国から寄せられた「ひかりはがき」に綴られたメッセージをお渡ししてくること。すべて心をこめてしっかりやっていきたい。
さらに、私が暮らしている愛知県周辺にも目を向けなければと思う。被災地から移住してきた方々がいるのだ。Morigamiの「いのちの森」をまず育てなければならないのは、私たちが暮らしている街 からかもしれない。
泥の中から掬い出された記憶の断片
被災地支援
8月
28
2011年 8月 28日
長年強制隔離に耐えてきた大島で暮らす人々。水道が来る前は南の山を取り囲むように集水溝を掘り、貯水池を設けてなんとかしのいできた。入所者の皆さんにとっては過去の遺物である。別の見方をすれば、貯水池は入所者のいのちをつないできた象徴と言えるし、雨水が山の斜面をたどり、生活用水になっていたことは自然のダイナミズムの一部に人が組み入れられていた痕跡とも受け取ることができる。ここで何かができそうな予感がしている。
現在の貯水池
修復を重ねてきた集水溝。この部分は比較的新しい遺構だ。
薮へと化した集水溝
20〜30年人の手がはいっていない集水溝
大島
8月
24
2011年 8月 24日
夕方、ハンセン病療養所大島でカフェ・シヨルを運営する井木、泉とミーティング。私たちは月に一回必ず話し合う時間を持っている。私も大島での取り組み{つながりの家}を運営する上で悩んでいることがあれば、率直に二人に話している。
私たちの取り組みは瀬戸内国際芸術祭の土台があってのものである。芸術祭やイベントの開催は季節ごと、あるいは1年というスパンのリズムで動いていく。一方で大島で暮らす入所者の高齢化は進み、大島で暮らす人がいなくなる時がいずれ、やってくるという現実を、私たちは意識せざるを得ない。それぞれの療養所で将来構想が立てられ、準備が進められる。しかし、大島は離島であるため、将来構想の道は事実上頓挫している。芸術祭の時間の流れとは異なるリズムで大島時間も刻々とその状況を変えていく。
私たちの取り組みは直接将来構想に関わるものではないが、取り組みの内容を入所者の皆さんと相談しながら組み立てていくと、自ずと将来構想に触れることになる。どのような取り組みを行うにしても、時間のスパンを考えざるをえないのだ。
カフェ・シヨルの二人から微笑ましいエピソードを聞いた。私たちが行ってきたワークショップの場で入所者と周辺地域の子どもたちが出会い、その後文通したり、定期的に島で交流しているという。 子どもをのこすことを許されなかった入所者にとって、どれほど心が和むことだろう。私は思わず入所者の皆さんの笑顔を思い浮かべ、うれしくなった。
ふと思う。たとえ近い将来大島で暮らしてきた人々が人生を全うし、誰もいない島になったとしても、今入所者の皆さんと心を通わす子どもたちの世代は入所者の皆さんのことを絶対忘れないだろう。せめて、子どもたちがやがて大人になり、子どもを連れて大島に行った時にも入所者の皆さんが生きてきた証を感じ取れる島でなければならない、と。
これまで漠然と考えてきた「遺す」ということのスパンを考える上で、大きなヒントが得られた気がする。
大島