Nobuyuki Takahashi’s blog

7月 8

前例のないことに一歩踏み出すのは誰でも勇気がいるものである。アート、あるいはアートの取り組みはそれを延々と繰り返してきた。
これまでたくさんの作品を病院に展示してきたが、アーティストと病院とが膝を突き合わせ語り合っていく中で「根拠のない信頼感」が育まれなければ、前に進まない。でなければ、やったことがないからという理由に押しつぶされていく。合理的な思考で思考停止に陥る。
作品を展示すると今まで何もなかったそこに、何かが現れる。とたんに抵抗感、圧迫感を感じる人々の声が聞こえてくる。拒絶したい気持ちの声はひときわ大きく響く。しかし、通りがかる人から「あれ、何か変わった!」「いつもと違うね。」とのささやきも見逃してはならない。私はこのざわついた状態の時は「しばらく様子をみてください。」と病院側にお願いする。すべてとは言わないが、やがて時間が経つと人々の反応も落ち着いてくる。作品への感想が寄せられるようになり職員への質問があがったり、作品をめぐる会話も聞こえてくるようになる。そして、展示期間の終了ともなると、いざ作品を撤去すると、ぽっかりとあいたそのスペースに人々は「さびしい、撤去しないでほしい」「何か他に置けるものはないのか。」と喪失感を表す。
展示するための空間ではない、病院での展示では、こんなことが起きる。

旧・足助病院の取り壊し現場

新・足助病院の外来棟廊下

7月 1

震災遺構と解剖台

icon2012年 7月 1日

石巻の車道の真ん中に流れ着いた「巨大缶詰」の解体、撤去が始まったそうだ。私も石巻に行った際、この巨大な缶詰を揉んだ自然の脅威を前に呆然と立ち尽くした。
水産加工会社「木の屋石巻水産」の魚油タンクだった、「巨大缶詰」は同社の看板商品である「鯨大和煮」のデザインをそのまま拡大したもので地元では名物だったという。それが、津波で約300mも流され、中央分離帯に横倒しになっていた。
保存を求める声が多く寄せられたそうだが、被災した当事者からは「思い出したくない」という声も少なくなかったという。移動して遺す案も浮上したが、高さ10mを越える「巨大缶詰」を運ぶには電線を切ってはつなぎ直す大工事が不可欠となる。費用も莫大にかかるだろう。解体した「巨大缶詰」の断片は今後テーブルや椅子にリメイクされ、同社の新工場敷地に置かれるそうだ。
こうした震災遺構と呼ばれる場所や事物は今後急速に姿を消していく。そうしたなかで「遺す」選択をした所もある。
遺すか、遺さないか。
とても多数決で決まるものではない。議論の末、正論に沿うとしても、「正しさ」は立ち位置によって異なる。答えは、ない。 有識者の提言に基づいたり、行政の強力なリーダーシップにより「遺す」に至るのも理解はできる。しかし忘れてはならないのは、「震災遺構」とは、都市の傷であり、そこで暮らす人々にとっては「痛み」そのものなのだと思う。自分から遠くにある傷口に興味本位で反応することはあってはならない。心理的な距離のみでなく、物理的な距離を縮め、肉薄して体感しなければ、その「痛み」の澱みに身を投じて土地の人々と共有することはできない。
「遺す」ことをその当事者たちが決断することは、自らの傷口に問いかけるようなものだ。遠くから見守る人々が「ひとごとではない」と関与するのも人としての「痛み」の回路に従うもの。組織や集団に属した場合と個人との見解が異なることも不思議ではない。その大きなブレが描くグラデーションに決断の楔を穿つ。簡単なことではないし、それを安易に「判断の正しさ」に還元してはならない。
ハンセン病療養所大島で2010年の夏、瀬戸内国際芸術祭直前に海岸に打ち捨てられた解剖台が発見された。島内で実際に使われていた、解剖台である。再発見からわずか1週間の間に解剖台を引き上げ、今は使われていない一般独身寮15寮前に設置した。いきさつは複雑に絡み合って直線的ではないのだが、私が入所者自治会の皆さんに解剖台の引き上げと設置を提案したのは事実だ。島内外で当時吹き荒れた感情の渦を何かに喩えることは難しいし、体感したものを私が喩えて表現するのを、許されるかどうか…。一つ確実に言えるのは、「私は何者で、どこに立っているのか」突きつけられ、立っているのも危ういほど揺るがされたということ。遺されたという事実、遺されたものが私たちの前にある。そこから出発するしかない。

私が見た石巻の巨大缶詰

大島の解剖台

6月 29

お昼に十日町に到着。地元名物へぎそばを食す。こののど越し、たまらない。 駅から歩いて15分ほどのところに新潟県立十日町病院はある。今回の妻有入りは9月に行う予定のワークショップの打ち合わせのため。これまでに2006年に非公開プロジェクトとして院内各所に作品を展示、2009年には病院のすぐ傍らにある空き家「やさしい家」を拠点に、病院の日常にこまやかに対応するプロジェクトを実施した。院内に入る前に是非とも「やさしい家」に会いに行きたい。 そう、「会いに」と書いたのは、他でもない私にとって、そして一夏をいっしょに過ごしたメンバーらにとって、あついあつい思い出の場所だからだ。 「一生のうちで二度とない体験ですよね。」と吐露した学生も少なくない。雑魚寝で隙間なく埋まった2階の和室。2台の一升炊きの炊飯器がフル稼働で、おにぎりを握りまくったあの日。院内に展示する作品やワークショップの実施方法について夜を徹して議論を重ねた日々。鮮明な記憶が蘇ってきて胸があつくなる。
「やさしい家」と挨拶を交わしたあと、十日町病院へ。さっそく十日町病院塚田院長にご挨拶。院長は相変わらず体格も立派だが、人柄の大きさ、おおらかさが全身からあふれている。会うだけで胸がいっぱいになった。 院内をくまなく歩くと2009年に制作した作品の一部が飾られていたり、活用されているのを見つけることができる。たとえ多くの利用者さんが行き交い、毎年職員さんの移動があっても、忘れないでいたい記憶というものがある。その一つに数えられている私たちの活動。言葉にならない。 9月に行う予定のワークショップについて塚田院長と上村事務長補佐と打ち合わせ。あいまいだった実施方法、ワークショップの方向性が私たちの提案に呼応するようにまとまっていく。お互いの信頼感から建設的な議論が交わされていく、この臨場感が心地よい。 打ち合わせの後も再度院内をつぶさに歩く。人の導線、担当者の配置、タイムラインの構成…が鮮明にイメージされる。 やっぱり現場での検討が一番だ。持ち帰る宿題は山盛りだが、ワークショップの実施イメージは固まった。 イメージできることは必ず実現できる。
ワークショップは「震災支援」へと方向を定めることができた。病院で行うことの意味、中越地震に遭った当地、十日町で行うことの意義―。



6月 20

つきぬける風

icon2012年 6月 20日

ハンセン病療養所大島での取り組みの、現在の主軸はカフェ・シヨルである。
先日、自治会長の山本さんがおっしゃった。
「大島の一番の課題は今をどう生きていくか。」
もちろんその言葉の背景には人として生きる尊厳を奪われた入所者の皆さんが今現在をいかに充実したものとするか、ということに他ならない。
その意味でたとえ将来構想が立てられたとしてもそれは今の入所者の暮らしと地続きでなければならない。
カフェ・シヨルは今の大島に深く関わり、並走しているプロジェクトだ。
人々からは「奇跡の島カフェ」と呼ばれている。

6月 13

6月6日。授業を終えてすぐに豊田市旭町にある老人福祉センターぬくもりの里へ。
5月末に契約の手続きが完了し、ぬくもりの里での取り組み{みんなの家}をスタートさせる。
昨年に準備会として調査研究を進め、年度末に答申書を作成、その内容が認められ、2012年度の豊田市社会福祉協議会重点事業としてアートプロジェクトを展開することになった。
当初はスタートが一年遅れたと言う印象があったが、昨年の調査研究の期間は大変有意義なものだった。まず、委員会構成からして、施設のそして地域の「本気度」が表れている。豊田市役所支所長、交流館館長をはじめ、中学校教師、各コミュニティー会議 からも代表者を集め、そこに施設職員を加えて「やさしい美術委員会」を発足。施設内にとどまらず、そのムーブメントを施設周縁へと拡げるエネルギーがあった。
やさしい美術プロジェクトの作品や活動を知っていただく機会として施設見学を行い、自由闊達な議論が繰り広げられた。その後も幾度かブレーンストーミングを行ったが、その話題の大半はアートや作品についてではなく、急激な過疎化と超高齢化の進むこの旭地区で幸せに生きていくための夢を語る場であった。
こうして計7回のワークショップを行い、その総括として私からキーワードを提示した。それは以下の通りだ。
―老いをオープンに―
・皆で一つのものを。
・誰もが参加できる。
・誰もが入って行ける。
・入るきっかけと理由がある。
・たえず変化し続ける。
このキーワードを立ち帰るところとしたい。本取り組みを{みんなの家}と名付けた。

6月 7

久々の投稿

icon2012年 6月 7日

最近はtwitterの活用でこちらのblogから足が遠のいていた。
気持ちを新たにして、週に一回は投稿しよう。twitterの方はほぼリアルタイムの動きを伝えているのでご一読を。

このところ作品搬入、研究会が続いている。今週は小牧市民病院緩和ケア病棟、ぬくもりの里、またまた小牧市民病院渡り廊下、週末にはハンセン病療養所大島でもミーティングと瀬戸内国際芸術祭に向けての制作準備。
こうなってくると、馬力よりも段取りの良さや体調管理がとっても大切。

しかし、学生が関わる作品搬入やプレゼンテーションとなると、私が先回りをしてすべて段取りを組んでいては学生の学びにつながらない。非効率であっても、準備不足や段取りの悪さが自分自身に返ってこないと次につながらない。

一日棒に振ることもあるさ。じっと様子を見て我慢するのも、とっても大切。

4月 7

少し経つが、3月に撮った大島での写真と、妻有(新潟県十日町市)の写真を載せる。



3月 19

古典的なモデリング

icon2012年 3月 19日

私はハンセン病療養所大島での取り組みは、大島を「彫塑=モデリング」している、という感覚を持っている。(彫刻の専門性に触れるので一般論としてはいささか伝わりにくいと思うがこのまま考察を進めてみたい。)大島という全体の量塊=ボリュームに島外から付け足すことなく、また外部へと取り去ることもなく保存し、あらゆる方向から量塊の様相を見極め、こちらの量をあちらに、あそこに在るものをここへと移していく。それは心棒を組み上げ、そこに土付けして行く古典的なモデリングのセオリーそのものと言うことができる。
なぜ、今大島をモデリングするのか。大島とその外との連綿としたつながりをつむぐためには、まず大島の姿をくっきりと浮かび上がらせ、鋭くポイントしなくてはならない。次に大島で暮らす人々とその営為に裏打ちされた内部から表層に向けて表し、背景に広がる海と島々との関係性を恢復して行かなくてはならない。大島の土を使い大島焼を作るのも、入所者が暮らした住居を活用するのも、島にあるものを素材に配置するのも、海岸に一旦は打ち捨てられた船や解剖台を発掘するのも「モデリング」なのだ。
ここで注意しなければならないのは、そこに在る量塊は単なる造形素材ではないということ。いわばいのちの営みの断片であり、だからこそ至近距離で見て感じ、その重みを全身で受けとめなければならない。モデリングとは身体と精神を集中する膨大な作業の積み重ねなのである。

話は飛躍するが、東日本大震災で被災した地域で寄せ集められた量塊は「がれき」と呼ばれている。いうまでもなく、それらは単なる廃棄物などではない。それらを尊厳を持って扱い「日本」という塑像を造形するために丁寧に配置し、根付かせる方法があるのでは、と想像してみる。

3月 19

独特だけど新しくない

icon2012年 3月 19日

やさしい美術の取り組みは些細なエピソードの積み重ね。身体に喩えると毛細血管での栄養素と老廃物の受け渡しのようなことか。小さいことでも丁寧にやっていきたい。何故なら私たちが「人」となった時代に備わった「他者の痛みを自分のことと感じる」回路は、細胞レベルで数万年、数十万年と蜿蜒に受け継がれたものなのだから。
やさしい美術は枠組みの拡張の方法としては独特だ。でもそれは何ら真新しいわけでなく、このあらかじめ備わった私たちの感性を「掘り起こす」ことに近いかなと思う。

12月 17

大島で暮らす入所者の皆さんからたくさんのお話を聞いた。その多くは同じ人間とは到底思えない扱いを受けたことの辛さ、情けなさ、怒りだった。でも海に出た時の話は違っていた。いきいきと語り、饒舌になるのだ。厳しい生活のためとはいえ、釣りや貝獲りのわくわくした感じ。箱眼鏡をくわえて銛でたこを突いた話。引潮時に漁に出て、満ち潮時にはぷかぷか浮いて海流に乗って帰ってきた話。今も大事に育てている盆栽の松は大島の岩場にあったものも多いが、近くの兜島へと舟を漕ぎ、素性のいい松を採ってきたというお話。
そう、海にまつわるお話は明るい話題が多いのだ。「海には境界がないからな。」とおっしゃる。大島内でも職員と患者のエリアは「有毒線」によって分け隔てられていた時代があった。官用船の船室も職員用と患者用が分けられていた。唯一海だけは、海にいる時だけは一切の分け隔てもなく、自由にいられたのだという。
入所者の皆さんから海の思い出を聞くと私の心も踊る。ぴちぴちとした新鮮な日々、陰のない光に満ちた空間をありありと想像できるのだ。
なんとはなしに舟小屋に和舟があるぞ、というお話を幾人かの入所者から伝え聞いていた。すでにご高齢のこともあり、舟で海に出る入所者はいない。舟小屋も荒れ放題だ。私のような者がたずねない限り、入所者の皆さんの頭から海は離れてしまっているように思う。だからこそ、私はこの瑠璃色の和舟、島内唯一遺る木造船を掘り起こし、明るみに出したかった。
掘り出す私の意識は昨年の解剖台引き上げと展示の時とそれほど変わらない。でも、この瑠璃色の和舟は多くの入所者に喜びを持って迎えられ、たくさんの記憶が想起されるのではと思う。
とても美しい舟だ。コールタールをよく吸い込んだ舟底が砂の中から現れた時はそのあまりにも艶かしい手触りに驚嘆した。「この舟、まだ生きてる。」そんな言葉が自然と口からこぼれた。