Nobuyuki Takahashi’s blog

Archive for the ‘エッセイ’ Category

夏 たくましい、いのち

2011年 7月 31日

制約と可能性

2011年 7月 26日

「病院でアートなんて、制約があって大変ね。」
と、よく言われる。
病院内の制約はわかりやすい。人が傷つき、病んでいる時に、どうしても必用なことが絶対的に、そこに横たわっている。制約があるから、あれができない、これができない、と言っていたのでは何も始まらない。そこには人がいる。そのことは頭で考えてもどうにもならない。できるだけ近づいて直視しなければ。

病棟の一見無機質な廊下。50メートルは続くその廊下の先に作品を設置するとしよう。
病室から出ることもままならない方が、ある日病室からなんとか身を乗り出すとその先50メートルほどのところにこれまで観たこともない何かが飾られているのに気付く。普段はどうということのない50メートルという距離感。しかし痛んだからだには埋めることのできない隔たりだ。しかしとっても気になる、どうしても、近づいて観てみたい。
翌日、軋むからだに少しだけ挑戦を課す。病室から一歩前へ、歩みだす。50メートルが、40メートルに。作品は昨日より少しだけその細部を魅せる。次の日には30メートル、そして20メートル…。同じ作品であっても距離の縮まりが、昨日と違った表情を垣間見せてくれる。それどころか、自身の中でいつもと違った情感が育まれているのに気付く。
小さな冒険にいざない、そこにいる人だけに味わうことができる喜び。そのような時空を創り出せるとしたら、これほどまでにアーティストのインスピレーションをくすぐるものはない。

そのために、私たちは何度も現場に赴く。そこで感じることから始める。創造力が引き出される場は意外にも制約が多く、創造性とはほど遠いとされる場所に潜んでいる。

大島の白線 かろうじて見える白線を頼りに歩く入所者がいる

時にはゆっくりと考える

2011年 7月 13日

大島 野村さんの空気

右足の腫れがようやく引いてきた。激しく屈伸する動きには痛みが伴うが、もう少し様子を見て、適度に運動を取り入れた方が良さそうだ。完治までもう少し。

私たちが携わった表札プロジェクトは被災した、かの広大な地域で、それぞれの事情に合わせて実施されているようだ。私にも何件か相談があった。
私たちの表札プロジェクトの主役は私たちアーティストではない。その地域に暮らしている人々であり、仮設住宅に入居する方々である。大地を耕すように「つながり」のしくみが根付くことを祈りながら、私たちアーティストは働く。

最近、やさしい美術を通して、人との距離感、場と接触する際の肌合い、自己の置き場や没入の仕方が独特なのだと実感する。近寄ってみれば事象の振動に共振するかように手に取るように感じられる。だが、いったん距離を置き、事象の外側に立つと遠くかすんで捉えどころなく表すことが難しい。いわば当事者同士だけの閉じられた充実感なのである。しかしそれだけでは終わらない。それはゆっくりとその周囲をあたため、溶かし、新たな間柄がかたちづくられていく。

大島での取り組み{つながりの家}。やさしい美術らしい充実度の空間は、泉と井木が運営しているカフェ・シヨルですでに実現しつつある。しかし今後私に課せられていることは、これまでとは異なる、深くそして遠くに浸透していく熱の伝達方法を編み出すことなのだ。ずっとこのかた早くせねばと焦っていた。体調を崩した今はペースダウンしてゆっくりじっくりと自身の中で醸成するのを待とうという気になってきた。
およそ伏線があるとは思えない、それぞれの取り組みが一本の糸のように紡ぎだされてくる予感だけは確かに感じる。

足がもぎ取られる

2011年 7月 6日

6月17日(金)発達センターちよだでワークショップを行った日のこと。
右膝に激痛が走り、動かすこともできず、紙切れが触れるようにあたっても痛みが走るほどに。6月24日、25日の宮城県七ヶ浜町行きを断念し、睡眠をしっかりとるようにした。足をもぎ取って休ませようと身体の方からストップがかかった。心に身体が伴走できず悲鳴を上げた。

絵はがきワークショップキットは 各自で

2011年 4月 5日

今週末は大島での一般公開。カフェ・シヨルの運営メンバー泉と井木がすでに大島入りし、仕込みを順調に進めてくれている。
今日、青松園の事務長さんから電話があった。私が多くのこと手が回らないなかで、「検討会、やりましょう。日程ご提案ください。」と気を配っていただいた。大島の取り組みは持続的に進めて行く体制ができつつある。
さて、午後にデザイナーの柳智賢さんに会い、絵はがきワークショップについて相談した。絵はがきに被災地を支える気持ちを描き、届ける企画。ただ集めるだけではなく、人々の念いをどのように届けるのか、そこがとても重要だ。すぐにでも現地に行くべきなのかもしれない。柳さんと相談しながら、いくつか良いヒントをいただいた。
1.絵はがきワークショップのブースキット(絵はがきをそこで描く設え)は、表示や主旨のポスター、ポップはwebでダウンロードできるようにして、ブースキット自体はその場所、そこにいる人で自主的に作ったらどうか。
2.支援金を募集して、新品の画材やスケッチブック、森をつくる折り紙Morigami(もりがみ)の印刷代を捻出し、現地に届ける。
3.企画書を作成し、各々の施設や場所が絵はがきのブースキットを自主的に設置し、絵はがきを集めるキャンペーンを打つ。
特に、表示やポップをダウンロードするというアイデアは秀逸。ブースキットも各家庭やコミュニティーで持ちよったもので作れば良い。設えの完成度ではなく、気心が大切だ。あれがない、これがない、では何もできない。できることから、確実に実行に移す。それがボランティア精神を支えるエネルギーなのだから。
ごたごたと文句や問題点を並べるのではなく、何かを産み出す方向に進もう。

「瓦礫」と言わないで

2011年 4月 1日

被災地で支援活動をされているあるNPOの代表者の語りがラジオに流れる。
「被災地は瓦礫でいっぱい、なんて言わないでください。塵や瓦礫じゃないんです。そこで生きてきた人たちの思い出や過ごしてきた時間が刻まれているんですから―。」
木っ端みじんに破壊された家屋、日用品、衣類、そして人々…。それを一緒くたに「瓦礫」と呼ぶにはあまりにも寂しい。原形をとどめず、断片となっても人々の暮らしの記憶をしかと宿している。現場で従事している人々はその重さをひしひしと受け止めているのだろう。人々の生きてきた証。向き合っているものがなんであるのか、まさにそこにいる当事者の言葉だと思った。

めちゃくちゃになった町にたたずんだある中年の男性がインタビューにこう答えていた。「ここが一番なんです。ここに暮らしたい。」
慣れ親しみ積年の念いが詰まった場所。すべてが流され失われてもそこに這いつくばってでも生きて行きたい。そこに暮らしてきた人だけにしかわからない心情だ。

昨日、新潟県立十日町病院に電話した。3月中に妻有の人々に会いに行こうと計画していたが、地震のため断念した。経営課の井沢さんの相変わらず快活な声に安心する。聞けば塚田院長は現在派遣医師として被災地の石巻で診療にあたっているとのこと。「こんな時だからこそ、やれることをやらなきゃね。」と井沢さんはおっしゃる。十日町は中越地震を経験している。その恐ろしさと人々の支援の温かみを知っているだけに、その念いは一入だろう。私は「絵はがきワークショップやりませんか。」と呼びかけた。2006年のこと、福井奈々恵が普段心の内を伝えることのない病院職員から残暑見舞いの絵はがきを患者さんに届けるワークショップを実施した。集まった絵はがきは300枚。275床のすべての患者さんのベッドサイドへ絵はがきを提供した。その後やさしい美術プロジェクトの活動に刺激されて十日町病院の職員らが院内のアートに取り組む「ミナーレ」(妻有弁で見てくださいの意)を立ち上げた。 今度は被災地に向けてメッセージをおくりたい。

2年半ぶりの家族旅行

2011年 3月 29日

スエードの皮ジャケット

私が担っている仕事場に家族が来てくれることを除いて、2年半ぶりの家族旅行だ。
28日、まず伊勢に行く。外宮へ行き、参拝。人が少なく、とても落ち着いた空気。心が洗われるようだ。その後内宮へ。一般的に知られているのは内宮。近くに「おかげ横町」という土産物屋が軒を連ねる界隈がありにぎわいを見せている。私にとって伊勢参りは小学校4年生頃(だと思うが)両親、兄、私の4人で詣でて以来だ。今から3ヶ月前のこと、私は母に伊勢へ家族旅行すると話すと、物置から一枚の写真を出してきた。私は実のところあまり伊勢神宮を憶えていないのだが、その写真はまぎれもない事実を映していた。鳥居の前で家族全員揃って記念撮影。その日母から茶色の皮ジャケットを手渡される。当時伊勢参りに行った時に父が羽織っていた―その記念写真にも映っている―ジャケットだ。かるく40年は経っている。父のあとは兄が着ていた時期があり、兄が亡くなってからは母が箪笥に入れて大切にしまっておいたものだ。
この日私はこの茶色のジャケットを身につけて伊勢神宮に詣でた。とても清々しく気持ちがよい。子どもたちは退屈しているようだけれど、それも微笑ましく思える。私も当時はそうだったに違いない。

私の奥さんが宿を手配してくれ、伊勢神宮からさらに南へ30キロ、渡鹿野島 のとある宿に宿泊。海の幸を堪能し、温泉を愉しむ。体の力を抜き、家族との時間をゆったりと過ごす。

翌日29日。チェックアウトを済ませ、渡し舟に乗って渡鹿野島を離れる。
そこからは天岩戸へ行く。日本100選に選ばれる 名水。岩の間からしとどに流れ落ちる水、水…。私たち家族はその水を口に含み、その冷たさと澄み渡る風味を堪能。そこから600メートルほど山に入っていくと風穴と呼ばれる奇岩を観ることができる。何かが宿っているのではないか、人ではない誰かの仕業では、と思えるほどの造形。慧地も興味津々だ。

昼食を済ませ、伊勢神宮から50キロほど紀勢内陸に進む 。高原宮を詣でる。遠くから観て高原宮がある辺りの森のスケール感は桁違いだ。その辺りだけが入道雲が猛るように盛り上がって見えるのだ。近づいてその力強さは包まれるような包容感にとってかわる。森の深遠さ、気高さが充満している。朽ちた大木から新たな芽吹きがあり、そこには蜿蜒と繰り返されてきた生死の営みがある。質感も規模も異なるが、私はそこで屋久島の森に近い感覚を掬いとった。手洗い場は川のせせらぎにて。静謐な時が流れる。月並みな表現だが、心が澄み渡っていくのを実感する。

さて、今回の旅のもう一つの目的。それは私の母方の、先祖が暮らしている土地を訪ねることだ。 四日市の郊外にある高角町(たかつのちょう)に向かう。この界隈は昔ながらの田舎で、都市化の波を受けていない。おそらく風景は母が生まれて育った頃と大きくは変わっていないのではないか。古い軸組の家屋が狭い路地をはさんで、支え合うように建ち並ぶ。家族で少し周辺を歩いてみることにした。母の父、つまり私の祖父は味噌醤油の醸造元の息子として生を受けた。戦後すぐに名古屋市中区の大須に酒屋を開いたが、母が高校生のころ肝臓がんで亡くなった。
路地を歩くと醤油の香りが漂ってきた。畑にはお年寄りが多く居る。美しい風景。母の旧姓「中村」の表札を幾度か見かける。路地の合間に空き地があり、使われなくなった大きな味噌樽を見つける。写真を撮っていたら、美朝がファインダーに飛び込んでくる。迷わずシャッターを切る。樽の大きさが一際強調され、なんとも微笑ましい。 背後から畑仕事をしていた老夫婦から話しかけられる。「今時、そんな樽は見たことないわな。」「こんな大きなものは見たことがないですよ。」
ひょっとしたらこの人は私の遠い親戚かもしれない。挨拶を交わしながらそんな予感がよぎる。

私の先祖返りに家族皆がつきあってくれた。子どもたちは今は理解できなくとも、記憶のどこかで醤油の香り、葉裏を照らす日差しの美しさを心に刻んでいるだろう。 家族が持てたことに感謝―。

モビルスーツ

2011年 3月 26日

自家用車を運転して出勤する。心なしか、昨今周辺の運転が荒いと感じる。皆何に苛立っているのか。
車は「モビルスーツ」だ。ガンダム世代にはなじみの言葉。ここでは身に纏い、自身の行動、行為を拡張するもの、あるいは直接の身体感覚を外部から防御するもの、見方によっては自身の心理が外部に現れるもの、と言えるかもしれない。
横暴な運転をする人、明らかに外に向けて闘気を放つ車、ステイタスを表明する高級車で幅を利かす…。車を運転していると、生身の人間がすれ違ったり、出会ったりする社会とは異なる触感を味わう。世界に張り巡らされた道路という道路は、普段表に出てくることのない剥き出しの感情が血流のように 脈打っている。
車社会の一番の弱者になってみると、それはとてもよくわかる。
私は20歳代に軽トラックを3台乗り継いできたのだが、たびたびあおり、かぶせ、罵声を浴びることがあった。
ある日こんなことがあった。スピードが出ないのにいらだったのか、その素朴でブリキのような車体を見てつい威圧的になったのか、 私の運転する軽トラックをさんざん後方からあおり続け、ものすごい勢いで無理な追い越しをしてきた車があった。普段はそのまま見過ごすのだが、その時は危険極まりなく身の危険を感じた。あまりにも腹が立ったので、私は次の交差点で軽トラックを降り、つかつかとその車に歩いていっておもむろに運転席のドアを開けようとした。がちゃがちゃ、がちゃがちゃ。繰り返し開けようとするがロックがかかっている。荒っぽい行動のようだが、私は終止笑顔だった。それが反って怖かったのかもしれないが運転者は顔面蒼白ですっ飛ばして逃げていった。
(※ぜったい真似をしないでください!危険な行為です。)
私は最もか弱い「モビルスーツ」をかなぐり捨てて相手の「モビルスーツ」の操縦者を表に引きずり出そうとした訳だが、元来生身の人間の接触というのは勇気と覚悟が要るものだ。激しい感情をぶつけ合うには痛みを伴うもの。それに、外見の―この場合は軽トラックのような弱々しい―人が運転しているとは限らない。外身と中身は合致しないこともあるのだ。

現代の社会では、心身の機能拡張を介しての接触は車社会に限らない。お互いの顔が見えないネット社会、どこでもつながる携帯電話などなど。生身の人間が一番生々しいとは言えない時代に入り、「痛み」の感覚を格納している場所がわからない。

やさしい家

2011年 3月 20日

やさしい家の1コマ

震災の当地から離れている私たちは何ができるのか。
絵はがきを描き、メッセージを贈る。それも一つ。
現在は救出、そして被災した方々の安心と生活がまずもって取り組まなければならないことだろう。
ではもう少し長いスパンでその後の復興を考えた時、私ができることがあるだろうか。
「やさしい家」を仮設住宅近くに設置してはどうか。
この「やさしい家」とは2009年に新潟県立十日町病院のすぐ傍らに借りた空き家を活用したプログラムのことだ。より病院の日常にかかわっていくやさしい美術の拠点を設けたわけだが、実は複合的な機能を意図していた。地域の子どもたちが縁側に集うように遊びにきたり、参加型プログラムを開催して一般来場者と地域の人々が交流する場を設けたり、時には退院した病院利用者や通院者が立ち寄る病院と地域の間をつなぐ試みでもあったのだ。「やさしい家」をめぐって多くのエピソードがのこる。近所の子どもたちは毎日のように「やさしい家」を訪れ、森をつくるおりがみ「Morigami(もりがみ)」を折っていった。それらはすぐ傍らにある病院へ届け、院内の緑化運動に発展した。私たちが毎日展示替えを行っていた河合正嗣さんの「110人の微笑む肖像画」を観るのを日課にしていた入院していた方が退院してすぐに「やさしい家」に立ち寄った。そこで正嗣さんの作品との涙の再会をはたす。
どのような形でもよいが、昨今病院のアメニティーや環境整備に取り組む様々なプロジェクトで言われているように、「縁側」のような形式張らず、やわらかに人と人、人と場所をつないでいく場が、被災地で求められてくるのではないか。

やさしさの距離感

2011年 3月 1日

一般論、常識的で、不特定多数の人に受け入れられる「やさしい」という感じ。
言葉をかえると「癒される」感じのこととも重なる。
ハーフトーン、曲線、暖色系、クジラ、小鳥、子ども、笑顔…。
一方でその人と一対一で向き合った時の「やさしさ」。「ばかやろう!」「何くさってんだ。」「またくるぞ。」なんて素っ気ない言葉になる時もある。心をこめて正反対の行動に出ることもある。その人だけが受け取ることのできる感情の塊。このような様子を端から見れば「なんてひどいヤツだ」「やさしさの微塵もない」と揶揄されるだろう。でも、その人との間にだけ成立する言葉、眼差し、素振りは実際に存在する。
やさしい美術の活動をしていると、この「やさしい」のかたちの有り様に揺れる。多くの人々が行き交う場所での展示があれば、たった一人の患者さんのために作品を作ることもあり得るのだ。その絶妙な距離感が私たちの感性を育んでくれる。「やさしい美術」の方法、形式はけっして規定できない―。
学生から「やさしい美術のやさしいって何ですか。」という質問があった。いろいろと言葉を尽くすが、やっぱり説明できないでいる。
アーティストの河合正嗣さんにもそういえば同じ質問をされたっけ。その時もその断片をあぶり出すことができても答えはでなかった。正嗣さんは「そんなに簡単に説明できないことですよね。」と言った。正嗣さんは答えを探し続けることが答えだと考えていたようだ。