Nobuyuki Takahashi’s blog

2010年 9月のアーカイブ

山川冬樹デーとパネル制作

2010年 9月 13日

今日は後期授業の開始日。今日明日と敬愛するアーティスト山川冬樹氏を招き、二日間みっちり山川さんのワークショップとレクチャーを受講させる。
これまでも何度か山川さんのことをこのブログにも書いてきた。年々評価が高くなり、毎年国際芸術祭に招待され、大きな舞台でパフォーマンスを上演している。
今日の授業は即興演奏のワークショップ。

パネルのレイアウトを検討

授業後はプロジェクトルームでミーティング。検討事項が山積みだ。
発達センターちよだのワークショップの準備は明日にまわし、病院祭、キャンペーンポスター、えんがわ画廊の作品案をメンバー間で丁寧に検討して行く。
ミーティングの後は足助病院、病院祭で展示する予定のパネル制作にはいる。活動内容とプロセスが伝わるものをA1パネルにまとめ、病院祭を訪れた地域住民や病院職員さんに広く活動を伝えることを目指す。
最後はリーダー古川とメンバー木谷が残り、今後の作業手順を含めた詳細を決めて行く。男子二人が踏ん張って活動の要所を背負いながら進んでいる姿が凛々しい。
21:00 作業を終え、3人で中華を食べに行く。

家族で共同作業

2010年 9月 12日

妻と相談していた私たちの住処の改装に着手。真っ白だった部屋にビビッドなカラーが加わる。
色の選択は妻に任せる。フリーダを自称する我妻の選択はメキシカンな色彩。どの部分に指し色をするか、相談しながら決めて行く。
今回のペンキ塗りにはもう1つ目的がある。これまで子どもたちに落書き解放区として壁、襖などに好きなように絵を描いてきたが、子どもたちも大きくなってきて、一度整理しようということになった。すべて消し去るのではなく、部分は遺してインテリアの一部として活かしながら思い切った色面を空間に配置することにした。大島でも記憶を宿す部分と研磨して取り去った部分を創り出す作品を作っていたが、家にいても同じことを繰り返している。
襖の落書きをサンドペーパーで削りおとす。これが楽ではない。半日をかけてひたすら削る。落書きOKの家と言えども、壁に紙を貼ってそこに描かせていることが多いだろう。我が家は正真正銘直に描き込んでいるため、リセットすることは不可能に近い。
子どもたちもペンキを塗る。マスキングは妻と私が担当。まだまだ残暑が厳しい折、ペンキが早く乾いて作業がはかどる。
こうした生活の中のクリエーションは作品の制作と地続きになっていて、どちらがどうということなく常に行われていく。

我が家のハムちゃんが9匹の子どもを産んだ

ひたすら落書きを削る

襖の枠はブルーグリーン、襖は赤に近いピンクだ

子どもたちとピンクのペンキを塗る

居間のドアは爽やかなブルーに

緊張のプレゼンとアサガオ

2010年 9月 10日

午前中はスタッフ川島と打ち合わせ。予算執行状況を見ながら今後の計画を修正して行く。展示に関わるアーティストとの連絡業務はかなり川島の負担になっているが、さらに難しいのはスケジュールの調整だ。院内の現場見学、搬入搬出、研究会…。すべて、病院サイドの都合に合わせるべきで、バッティングをしないように調整することは困難を極める。
12:00 足助研究会に参加するメンバー服部、倉内、木谷、そして川島と私。集合して荷物を私の自家用車に乗せて出発。
13:30 足助病院着。山の緑がこころなしかくすみが出てきた。秋の気配を感じる。まず、事務室に行き、9月25日開催予定の「病院祭」の打ち合わせ。4年に一回行われる、病院を地域に開放し、病院とその役割を知ってもらうお祭りだ。私たちはこれまでに2回経験してきているが、出店はすべて職員が担当していた。今年は業者にお願いしているようである。新しく建て替える足助病院についても院長直々にレクチャーがあるようだ。
14:30 職員食堂にて研究会開催。4名の看護士さんらが出席。服部、倉内は初めての病院でのプレゼンテーションに緊張が走る。このために8月19日に「プレゼン大会」と銘打ち、本番さながらの練習をした。大丈夫。自信を持って発表しよう!
服部、倉内とも緊張は拭えないが、しっかりとした口調、通る声で発表できていた。二人とも人前で話すことが苦手だと思う。でも伝えたい気持ちがあれば、とおらない声は、ない。がんばったね。展示までの道のりはこれからだけれど、良いスタートをきったと思うよ。

木谷の「どこでも窓」はとうとう水中世界にまで!

15:30 研究会終了。全員でB病棟に行き、展示場所となる「えんがわ画廊」を見に行く。「えんがわ画廊」とは泉麻衣子(元小牧市民病院スタッフ、現在大島メンバー)が廊下表示灯下に縁を設け、定期的に展示替えをするミニギャラリーとして展開した。泉の手から離れた「えんがわ画廊」を今年度に加入したメンバーの展示場所として活用する。服部、倉内のプランも「えんがわ画廊」に展示する物である。現場ですべて実測し、試作をあてがい実際の展示状況を想定してみる。現場でしかわからないことがたくさんあることに気付く。わかっているつもりでも、それは頭の中での決め付けでしかないと実感するのだ。それがわかっただけでも収穫である。その場所にはありとあらゆるものが関係している。うつろう自然光、廊下に響く患者さんの声、説明しがたい臭気、看護師さんの足音…。作品はその中に展示されるのだ。

左が足助のアサガオ、右が十日町から帰ってきたアサガオ

現場検討のあとは作品のメンテナンスだ。川島、木谷が前回のメンテナンス状況の記録から今日の整備事項を準備した。私はメンテナンスを彼らにまかせ、院内の状況把握につとめた。久しぶりに作業療法室に顔を出す。今年限りで退職される職員の三橋先生は昨年の赤塚の作品「アサガオのお嫁入り」で大変お世話になった方だ。当の赤塚が全く足助に来ない失礼をおわびしながらアサガオの様子を見学させていただいた。季節としては終盤を迎えているアサガオ。それでもリハビリに精を出す患者さんを元気づけるには充分なアサガオのトンネルができていた。足助のアサガオと十日町病院に嫁に出て咲いたアサガオの種をもう一度足助で植えたもの。その双方のトンネルが並んでいることに私はなんとも言えない感情がわきあがった。アサガオの蔓は心のつながりをそのまま表しているかのようだ。
17:30 足助病院を出る。初めてのプレゼンテーション、現場検討で緊張しっぱなしの二人は充実感に満ちた表情をしている。車中に木谷、川島からもねぎらいの言葉が自然と出てくる。
21:00 帰宅

早く帰ってこい

2010年 9月 9日

名古屋に帰り、今日は大学で仕事をする。
9:45 大学着。事務所で書類の提出をすませ、プロジェクトルームに行くと、スタッフ川島が迎えてくれる。昨日は私がいない代わりに足助病院に行き、足助病院の公式な委員会である「文化実行委員会」の会議に出席し、プロジェクトの活動について経過報告や新しい提案の頭出しをしてきてくれた。
10:30 川島との打ち合わせのあとは学務委員会会議。
12:30 会議終了。昼食をとる。
13:00 やさしい美術プロジェクトミーティング。
明日10日の足助病院研究会にむけての打ち合わせ、25日開催予定の病院祭で展示するパネルの作成についてが主な議題だ。
パネルの作成は学生が自発的に作成できるように促す。
14:30 いったんミーティングを離れ、コース会議を行う。来年度の授業カリキュラムについてしっかりと打ち合わせる。
17:00 会議終了。たまった仕事をこなしていく。
19:00 経費処理のチェックをしていたら、大島にいる泉に電話で確認しなければならない事項がでてきた。泉の元気そうな声が受話器に響く。背後から「早く帰ってこいよー。」と懐かしい声。そう、野村ハウスの隣の住人であり入所者の大野安長さんの声だ。たまたま通りがかった安長さんに泉が私と電話で話していることを伝えたら、安長さんが思わず私に向けて行った言葉。安長さんにはいつもやさしい声をかけていただいている。

人骨と土器

2010年 9月 6日

9月6日(月)
今日も蒸し暑い。雨の兆しは全くない。
朝一便の来場者、ガイドスタッフの皆さんを迎え、申し送りをしたあとは福祉室に向かう。次回のGALLERY15の企画展「松展」で展示予定の「墓標の松」出土品を見るためだ。それは福祉室会議室奥の棚に標本を納める木箱に入れて保管されていた。人骨と刀剣。人骨は背骨、頭骨部分、顎の骨と歯、数十点が確認できる。土器も出土している。それらは底部が丸く、破片の断面を見る限り、700度程度の素焼きのままで、古墳時代の土師器に近いものだ。「大島焼」のルーツを示す興味深い資料だ。大島青松園の101年の歴史を越えたスパンで大島を感じることは新鮮であることはもちろんだが、直接つながる歴史ではなくとも、その土壌の上に入所者の皆さんの暮らしがあることを知る大切な視点だと思う。
写真に記録し、標本のサイズをはかっておく。これから自治会を通じてどのように展示するかを相談のうえ進めて行く。
朝、天野が作ってくれた野菜スープにお米を入れてリゾットを作って食べる。食後はおつまみを作る。キュウリを刻み、塩揉みした後は甘酢を加え、かえり(イワシの稚魚の干物)を混ぜて完成。入所者の森川さんら数人の仲間と一杯交わす約束だ。
森川さんには現在展示中の「古いもの 捨てられないもの展」に放送劇同好会、歌舞伎座共楽団の資料を提供いただいている。今日はざっくばらんに語り合い交遊を深めようと思う。
14:00 作ったばかりのおつまみと日本酒を持って不自由者棟の森川さんのお部屋に行く。森川さんは何日も前から今日を楽しみにお酒やおつまみを用意してくれていた。おいしいお酒を酌み交わす。芸術祭の私たちの取り組みについても忌憚ない率直な意見をいただく。
17:30 森川さん宅を後にする。

感謝の日

2010年 9月 5日

9月5日(日)
6:00 起床。無風で湿気もある。昨日に続き猛暑だと想像がつく。
昨日こえび隊の小坂くんがギャラリーを見たいのだけれど、いつ開いているかわからない、という入所者の声があると聞き、試しに7:00にオープンし18:00にクローズすることにする。脇林さんの写真はがきはテイクフリーにしているが、人気があって自作のラックからは残りわずかになっている。補充するはがきにGALLERY15と{つながりの家}ロゴのスタンプを押す。
あっという間に朝一便の船が着く時間になる。
9:25 桟橋に出迎えに行く。9月に入っても客足はゆるまない。10:30便で帰る組とそれ以降の船に乗る組で別れてガイドツアーを行う。
私はギャラリーに戻って解剖台周囲の草抜きをする。ほどなくしてガイドの来場者の皆さんがやってくる。いつものように説明をするが、解剖台に関しては短い解説では誤解を生む可能性があるので、時間の関係上極力簡潔に説明しつつも、質問に答えられるところは答えるように努力している。
とにかく暑い。暑いという言葉しか浮かばない。ギャラリー前は40度近くになっていると思う。汗が全く乾かない。インドに旅行したときを思い出す。40度を越える猛暑だった。
来場者の皆さんから質問が飛び交う中、午後のワークショップの準備を進める。今日のワークショップは名人講座「大島の松を撮ろう」だ。講師は入所者の脇林清さん。リスペクトする私の先生。
脇林さんの作品をピックアップし、古い大島の写真、解剖台の写真などを台車に乗せてワークショップ会場の自治会会議室に向かう。自治会室にはすでに脇林さんが待機してくれていた。写真を壁面やテーブル上に並べて行くうちに自然に会話が始まる。
13:00 参加者8名全員が自治会会議室に集まり、名人講座開始。つい昼食を食べそびれる。
私から導入としてこの名人講座のねらいをお話しする。作品や成果物を期待するのではなく、入所者と来場者のコミュニケーションを促し、その過程で育まれる共感や臨場感を大事にしたい。
最初に脇林さんが語ったことは現在の脇林さんを知る上で重要な体験談だった。「自分は加害者であり、被害者である。」という発言。脇林さんが少年期に確かに自身の深部に刻まれた「痛み」のことである。脇林さんは近所に住む結核患者だった少女のお宅の前を通る時、親の教えを忠実に守り、鼻をつまみ駆け足で毎日通り過ぎたそうだ。その少女はある日入水自殺で亡くなった。その衝撃。自責の一言ではすまされない痛みを自身に刻んだと言う。その後脇林さんは当時不治の病と言われた癩病(現在のハンセン病)にかかり、今度は自分が差別される側に立つことになる。発病から入所、そして入所してから「どのようであれ生きる場所を与えられた。」と感じながら暮らしてきた日々ー脇林さんは静かに自分史を語り始める。
社会復帰を目指して働き続け、麻痺が進む手がさらに悪化し、それでもなお外で働く希望を持っていたが、あるできごとが脇林さんを悲しい決断に追い込んだ。高松のとある食堂で並んでいたところに「おまえの来るところではない!」と罵声を浴びせながら突き飛ばされた。それも一度や二度ではない。「これにはこたえた。」とおっしゃる脇林さん。このことにより脇林さんは社会復帰をあきらめ、大島で暮らす決意をかためたという。
有機農法に没頭し、鳥を飼ったりで自給自足のユートピアを夢見たこともあった。それも後遺症が進み、手足が不自由になっていくと限界が見えてくる。そこで始めたのが文章を書き、それに写真を添えることだった。10年前、デジタルカメラと出会う。カメラとの出会いが脇林さんの世界観を大きく展開させた。「レンズを通して普段見えないものが見えてくる。」レンズを向ける自然がレンズを意識し、こちらにメッセージを投げかけてくる。それは脇林さんに大きな喜びをもたらした。雲の流れから次に自分が出会える光景をイメージできるようになった脇林さんはその瞬間を捉えるために大島の山をかきわけ、木々にのぼり鳥の視点になって写真を撮る。脇林さんの写真は自身が向き合った充実感とフレッシュな驚き、喜びに満ちている。
14:00 一旦休憩をとり、自治会会議室を出て、松の撮影にはいる。
北部の山に向かう。風の舞に向かうルートをそのまま通り抜けて「相愛の道」を行く。大島はひょうたん型をした島だ。北部と南部の山が砂浜でつながってやがて陸地になった。その低地部分に入所者は暮らしている。大島神社近くから南に目をやると大島の様相が捉えられる。
脇林さんは突然道から薮に入って行く。一同唖然。でも名人に着いて行く決意をかため、いざ山に入って行く。脇林さんは山に入ると俄然足が速くなる。後遺症で細くなってしまった足では考えつかないほどのスピード。一同驚きを隠せない。薮をかき分けて進む。昔は松が生い茂り、その足下には雑草や灌木はなかった。だから松の木の間を走り抜けることができたのだそうだ。現在は松が松食い虫で軒並み枯れてしまい、ジャングル状態である。
ここ20分ほど歩いただろうか、北部の山の頂上近くで脇林さんは足をとめる。指差すむこうを見ると大きな山桃の木にはしごがかかっている。一同言葉が出ない。脇林さんはここまではしごを担いできたのだ。
交代ではしごに登る。はしごのてっぺんからさらに木の枝に足をかけ、伸び上がると突然視界が開ける。山桃のうっそうとした葉から頭を出す格好だ。ふと鳶が目の前を通り過ぎる。「ここだ!」ここが鳥の視点になれる場所なのだ。なんとも言えない浮遊感。開放感。目下にひょうたん型の大島が横たえる。雲上のように感じられる、樹上世界。参加者ははしごに登り感嘆の声をあげる。一同汗まみれ、それでも表情はすがすがしい。皆さん口々に「脇林さんはほんとに名人だー。」とつぶやく。脇林さんも自分の隠れ家に新しい仲間を連れてきた少年のようにうれしそうだ。大島を感じる。耳を澄ますと下界=大島の生活の音が風に乗って山の頂上に集まってくる。脇林さんは南の山に登ると「対岸の庵治町の人々の会話まで聞こえてくる」と言う。納得だ。
山を下る。危ない枝や足下の悪いところは隊列の後ろの人に伝言しながら進んで行く。不思議な連帯感が一同をわくわくさせる。名人講座はこの時点で探検隊講座になってしまった。
15:00 自治会会議室にもどる。そこで今日の講座の感想を語り合う。
「人生の転機が写真だった。そこに共感した。」
「小さな島が大きく感じられた。」
「加害者と被害者は表裏一体だという話に共感した。自分自身に照らし合わせて前向きに生きて行ける気がした。」
参加者の皆さんが語る言葉にじっと聞き入る脇林さん。
「喜びと悲しみ。現実はどれだけ逃げてもついてまわる。それを受けとめて関わることが大切。」という脇林さんの言葉で締めくくられる。
16:30 桟橋まで名人講座参加者を見送る。昨日コンサートを行った田島征三さんと奥さん、スタッフの皆さんも船に乗り込む。いつものように手を振る。踵を返す船のなかの人々の振る手がくっきりと見える。
ふと思い返すと脇林さんと山に登り、樹上に顔を出したまさにその時刻14:30の43年前、私は生まれた。こえび隊の皆さん、スタッフの皆さん、やさしい美術のメンバーたちが「誕生日おめでとう!」と声をかけてくれた。なんか、すごくうれしい。
夕食もカフェの営業で疲れているのに泉、井木、天野で作ってくれた。ケーキに数本のろうそくを立てて皆でhappy birthdayの合唱。ありがとう!
今日はNHK教育テレビ「日曜美術館」の瀬戸内国際芸術祭特集でやさしい美術プロジェクトが紹介された。私は忙しくて放送を見ることができなかったけれど、たくさんの人々からメールや電話をいただいた。思えば今日はいろいろなことが重なっていた。不思議な日である。
私は私に関わるすべてに感謝しなければならない。祝福される日は生を受けたことに感謝する日なのだから。脇林さんの今日の言葉が頭の中で繰り返される。「どんなところであれ、私は生きる場所を与えられた。」
21:30 家族から電話がある。奥さんと息子の慧地、娘の美朝の3人で「happy birthday」を合唱してくれた。かれこれ一ヵ月会っていない家族を、想像の中でぎゅっと抱きしめる。