Nobuyuki Takahashi’s blog

2009年 11月 2日のアーカイブ

河合正嗣さんと語らう

2009年 11月 2日

16:15 授業後、自家用車を走らせ、豊田市の旧下山村へ。遅くなってしまったが、河合正嗣さんに作品を返却に行くためだ。メンバーに声をかけたが、借りに行く時と同様私と川島で行くことになった。
17:30 河合正嗣さん宅に着く。お父様とお母様が明るく出迎えてくれる。十日町病院とやさしい家に展示した「110人の微笑む肖像画」全53点を返却する。
その後は正嗣さんとの談笑を楽しむ。作品論、社会とアートの関係など話題は創造性についてだ。
河合正嗣さんはデュシェンヌ型筋ジストロフィーという先天性の病気により、全身の筋肉が萎縮していく病気を患っている。彼の描く作品は病気とは別の地点にあるとも言えるし、切っても切れない関係にもある。なぜなら作品にはかならず「身体性」が投影されてくるからだ。身体はもちろん「姿形」に限定されるようなものを指しているのではない。人間の身体は意識の置き場によって、社会性の中に見出すことができるし、情報のネットワークにも捉えることができる。逆説的に私たちの身体は「見えない」時代なのかもしれない。不可視の身体が肉体的限界の外にあることも、あり得るのである。
偶然だが、河合正嗣さんは宮島達男さんの作品について話し出した。私がもっとも影響をうけ、尊敬しているアーティストの一人だ。正嗣さんは宮島さんの作品の根幹にある、強靭なコンセプトを的確に捉えていた。私はさらにそのコンセプトが制作のプロセスにまで徹底されていることを説明すると、さらに腑に落ちた様子だった。宮島さんのデジタルカウンターの作品はそのほとんどが業者に発注してできあがっていく。それは肉体を持った自己の境界を乗り越えなければ、到達できない境地だ。宮島さんの作品は美しい。しかし、そこにはアーティストの手によってすべてが創造されている、からこそ美しい、という幻想をいとも簡単に突き崩す。宮島さんの作品は宮島さんの作品でありながら、自律している世界そのものとなって私たちの目の前に現れるのだ。観るものはそこに自分の意識を投影し、それを、観るのだ。
河合正嗣さんはこのことをよく理解している。だからこそ、彼の作品は彼の手によって描かれなければならない。しかし、正嗣さんの中ではすでに、作品が作品として成立する状況のすべてを自分でコントロールしようとは思っていないのかもしれない。私が発案したものの、今回の十日町病院とやさしい家の展示をやさしい美術プロジェクトに委ねたことは彼にとって新しい挑戦なのだと感じる。
お母様が食事を作ってくれる。ご飯と鮎の甘露煮、サツマイモの天ぷら、お手製の漬け物などなど…。なんとすばらしい食感の嵐!お米が香ばしくて、美味しい。一瞬新潟のお米を想起する。思わず口をついて出てしまったのだが「このお米、おいしいっ。」聞けば、お父様のつくったお米だそうだ。これまでは農協のライスセンターに出し、他の人が作ったお米といっしょに出荷されていたそうだが、昨年ぐらいから河合家オリジナルのお米のみで出荷しているそうだ。そのお米にありつけたわけである。お米は毎日食べている。お米の味について日記なんか書けるわけない。でも、今日は書ける。ほんとに、めちゃくちゃおいしかった。お母様の炊き方もすばらしいのだろう。
食後は川島の作品をパソコンにダウンロードして正嗣さんに観てもらった。川島は正嗣さんを尊敬している。尊敬しているアーティストから感想が聞けるので、うれしさと緊張で顔が赤く高揚している。
河合正嗣さんは気道切開し、24時間人工呼吸器の生活だ。心臓にはペースメーカーも入っている。でも話していると、そんなことは全く感じられなくなってくる。アートのことを考え、この世界のことを感じ、共有し、今を生きている大切なアーティスト仲間。自然に流れる会話が楽しかった。
20:00 再会を約束して河合家を後にする。今度は家族を連れて会いに来たい。