Nobuyuki Takahashi’s blog

2010年 11月 27日のアーカイブ

自助具という存在

2010年 11月 27日

入所者の川上さんからいただいたボタンかけ

「自助具」とは、心身機能・身体構造上の理由(身体障害)から、日常生活で困難を来している動作を、可能な限り自分自身で容易に行えるように補助し、日常生活をより快適に送るために、特別に工夫された道具である。ボタンかけのように独立した道具のほかに、既存の道具を加工し、付け足し、使用する当人用にカスタムした道具というケースもある。私はハンセン病の療養所大島に来て初めて自助具の存在を知った。私は何度目か大島に通ったある日、針金を曲げて両端に輪を携えたボタンかけを拾った。ボタンかけをじっとながめてみる。あまりにも簡素なその道具はデザインという言葉は馴染まないが、機能の骨格のみを抜き出したかのような独特な存在感と美しさをたたえていた。
その後、入所者の方々が抱えている、主に四肢の末梢神経が麻痺する後遺症のことを知った。ボタンかけは入所者の身体の延長に連なるものだとわかったとき、私の中でさらに自助具への関心が深まっていった。
社会生活を送る私たちの身のまわりの物はおしなべて「人間」の原型(モデル)をつくり、それに沿わせて設計し大量生産されることがほとんどだ。そのセオリー通りに行けばこの世の中は時代とともに便利に、快適になっているはずである。しかし、ハンセン病の回復者にとっては必ずしもそうではない。今ではどこにでもあるペットボトルを例にあげよう。入所者にとってペットボトルをしかとにぎり、ふたを捻って開けるという一連の動作はどのように感じられるだろうか。滑らないように物を保持する、小さなふたを力強くつかむ、ふたの滑り止めを皮膚に感じながら適度な力をかけてゆっくりと捻る…。全く感覚のない手では途方もなくむずかしい、と想像する。痛いということは怖いことだけれど、痛みがあるからこそ私たちは子どもの手をそっとにぎったり、ハンマーをしっかり握り、ふりおろすことができるのだ。痛みのセンサーと動作はひとつながりのもの。
自助具そのものは感覚はもたないけれど、入所者の身体の芯から伸びていったその先の触手なのだと思う。
自助具は使う人を傷つけない。自助具は使う人から生きる活力を引き出す。身のまわりのほんのささいな不可能を可能にする。自助具は道具を無理なく機能拡張し、その道具そのものを打ち消すことはない。自助具は空気のようにふわりと関係の狭間に立ち、核心の両端をしっかりとつなげていく。
自助具のあり方を分析し、ひも解いていくと人と人、人と物事が関わっていく術のヒントがたくさん隠されていると気付く。
やさしい美術の「やさしい」という言葉はあまりにもありふれていて耳障りの良いことば。やもすれば真綿のようなやわらかさに埋没して本質をつかみきれない。私は「やさしい」に置き換えることのできる何かを、大島で見つけることができた。