Nobuyuki Takahashi’s blog

2009年 12月のアーカイブ

我が家に新型インフルがやってきた

2009年 12月 15日

悪い予感がしていた。土曜日子どもたちは従兄弟と遊んで帰って来たのだが、その従兄弟が遊んでいる途中突然咳が出始め、高熱が出て帰宅。夜に新型インフルの仕業だったと連絡があった。潜伏期があるので月曜日か火曜日ぐらいに我が家の子どもたちが熱を出すようなことがあったら、まず確実に新型インフルだ。
今日の朝、熱っぽい美朝。少し迷ったが、私は通常通り出勤した。夕方自宅にいる奥さんに電話すると、美朝は高熱の模様。これは本格的に疑わねばならなくなり、私も早々に18:00には自宅に向けて出発した。
帰宅すると慧地が独りで留守番をしていた。いつもなら「ハニーおかえりっ!」と飛びついてくるのだけれど、どうも様子が変だ。大人しい。しばらくすると病院に行っていた奥さんと美朝が帰ってくる。「やっぱり、新型だったわ。」予感的中である。そして、慧地も顔が真っ赤に紅潮して来たので額に手を当てる。ものすごい高熱だ。2人とも40度前後の熱。処方された座薬を入れて早々に寝かしつける。
近所のドラッグストアに行く。買って来たのは、熱を出した子どもたちのためにポカリスエット、好物のカルピスウォーター、いちご味のオブラート、冷却シート、マスク、アイスクリーム。普段はめったに風邪をひかない子どもたちだ。きっと大丈夫。
明日からは大事をとって私も出勤を見合わせることにした。
残念ながら、今週末予定していた大島行きも見合わせることにする。あー、やること山ほどあるのだけれど。
実は14日から16日まで泉、井木の2人が大島に行っている。電話をしたら、入所者野村さんのお宅でご飯をいただいて、その後は同じく入所者の大智さん、山本さんとカラオケをするとか。いいなぁ。
しかし、ここのところ本当に入所者の皆さんと打ち解けて、良好な交流が続いている。カラオケは入所者にとってなくてはならない娯楽だ。私たちの身近にあるカラオケとは意味合いも重みも異なるものだ。そこに誘っていただくというのは、なおうれしいこと。泉の「天城越え」は妻有でも太鼓判。今頃大島で響いてるんだろうなー。

場所はなくなっても

2009年 12月 13日

慧地が生まれ、やさしい美術がスタートした頃、休日はギャラリースペースの工事に没頭した。

慧地が生まれ、やさしい美術がスタートした頃、休日はギャラリースペースの工事に没頭した。

午前中子どもたちを実家に預け、Space+で開かれている「less was more」展の会場当番に行く。作品は建物の隅々にわたって展示されている。しかも映像作品が多い。電源を入れ、お客さんを招いても良い状態にするまで少し時間がかかる。それにしても、韓国の作家は映像インスタレーションが上手い。メディア系の作品とは明らかに異なるテイストなのだ。モニターやプロジェクターをまるでドローイングを描くように使う。これは、やはりナムジュンパイクが培ったベースの上に立つが故のレベルの高さだと思う。
あるお客さんが「皆さん、お元気で。」とおっしゃった。アートハウス七福邸を経て、+Gallery、そしてスペースと運営企画部門とを分けて+GalleryプロジェクトとSpace+へと改称…。間もなくこのスペースは取り壊される。新しい街づくりのために1つの営みが消える。この場所にお別れを言いに来た方もみえるのだ。会期中今日しか時間がとれず、今日が私も実質のお別れだ。思えば、多くのアーティストがこの場所を使って暴れ回った。スペースと格闘し、共存し、暮らして制作したアーティストも何人もいる。その経験の種が一人一人のアーティストによって全国に散らばり、世界に散らばっていった。私もこのスペースに育てられた1人である。
スペースは跡形もなく消えるが、+Galleryプロジェクトは続く。つながりは断たれない。

足助病院 クリスマスイルミネーション

2009年 12月 11日

午前中は慌ただしくコース関連、入試関連の仕事をこなす。
11:00 レンタカーを借りて大学に向かう。
12:00 メンバー工藤と私とでメンテナンスの道具類を積み込み出発する。
13:30 足助病院到着。雨が強く降っている。今日予定しているクリスマスの飾り付けができるかどうか気がかりだ。

再設置したカーテンプラン

再設置したカーテンプラン

まず、工藤の「カーテンプラン」の再設置だ。工藤の手によってクリーンアップされた間仕切りスクリーンの作品を丁寧に取り付けていく。早川院長が通りかかり「この作品は売れるよ。」と満足げにおっしゃる。グラフィックデザインを勉強して来た工藤にとって、最高の褒め言葉だ。赤塚が作成したメンテナンスチェック表を見ながら、作品の清掃、コンディションのチェック、修正、補修を行う。
廊下で安全対策室の山村さんと会う。襟元に「指差し呼称」表彰バッジが燦然と輝く。かっこいい。
すべてメンテナンスを終えて、道具類、補修が必要な作品を持ってレンタカーに積み込む。施設課近藤さんに会いに行き、中止と告げられていた、クリスマスの電飾イルミネーションの設置について相談に行く。到着時は相当雨が降っていたけれど、今は雨はすっかりあがっている。「せっかくなのでやりましょう。」
ボイラ室から延長コードと電飾を山ほど持ち出し、足助病院中庭に設置していく。病室の窓から見ている人がいる。窓を開けて声をかけてくれる検査技師さんや看護師さんがいる。一通りセッティングを終えて電源を入れると一気に華やかに。

埃を取り除き、作品もリフレッシュ

埃を取り除き、作品もリフレッシュ

帰り道、メンバー工藤といろいろ話をする。彼女は今年卒業する。だから、彼女の作品をコンディションよく展示していくために、今後参加するメンバーが引き継いでいかねばならない。こうした「引き継ぎ」もやさしい美術の活動の特徴の1つ。
18:00 プロジェクトルームに戻り、明日の入試のための連絡などを済ませ、足早に大学をでる。
19:00 金山着。やさしい美術プロジェクトの忘年会だ。今年のニューフェイス木谷、スタッフに新しく加わった佐々木、ちよだに参加している村田が顔を出してくれる。今年卒業の天野、川島はサプライズで寄せ書きと音だけクラッカーを浴びせられる。ついこの間まで1年生だったのに、もう卒業かー。

飾り付けが終わった足助病院中庭

飾り付けが終わった足助病院中庭

忘年会 食い溜めできたらいいのに

2009年 12月 9日

わがアートプロデュースコースの忘年会。横井敏秀教授、日比野ルミ准教授の専任教員に加えて今年度から研究室職員鈴木里菜をむかえ、新しい顔ぶれだ。昨年まで研究室職員を担当していた鷲見広孝くんも誘ってなじみの漁師料理のお店へ。
トラブルもないわけではないが、お互いを尊重し合いながら進んでいる。同僚のやさしい美術プロジェクトへの理解も深い。私はこのメンバーで腹を割って美味しいものを食する意味はとても大きいと思う。この連帯感が学生にも伝わるのだ。
あとは写真をご覧あれ。できれば食い溜めしたい…。



Door展 どうなる??

2009年 12月 8日

わがアートプロデュースコースの2年次、修了制作展の制作が進む。あえて「制作」といったのは、スペースづくりまで含めた企画だからだ。
壁面が完成に近づいている。パテ込み、ペンキ塗りが待っている。そして、ドアの向こうの世界はそれぞれが取り組むことになっている。
※12月2日の本ブログ「空間をつくる」でもプロセスを紹介しています。

着々と進む

2009年 12月 7日

週明けのお昼にスタッフミーティングを行っている。今日はお昼休み、授業後と会議が続くので午前中にミーティングを開く。大島チームの井木が作品の返却などで大学に立ち寄ってくれる。
大島でいただいた柑橘系の果物が、さっそく瓶につめられ、カフェで使われるのを待っている。着々と準備が進んでいく。

アートミーツケア学会 二日目

2009年 12月 6日

7:30 起床。窓から東京タワーが見える。真向かいのビルに反射光があたって美しい。
9:30 食事を済ませてチェックアウト。濡れた路面が物語るほかは昨日の雨が嘘のようだ。
10:00 アートミーツケア学会二日目。3カ所に分散して研究者、アーティスト、活動家がそれぞれ30分ほどの実践報告、研究発表を行う。各会場で同時進行しているために選択して会場を移動しなければならない。
アーティストの宮本博史さんの実践報告がおもしろかった。宮本さんはやさしい家で出会ったが、のちに伏線があることが判明。私と平松、冨永3人のアーティストが運営する現代美術のオルタナティブスペース+Galleryの映像コンペティションに宮本さんは出品したアーティストの一人だったのだ。
自己紹介は衝撃的だ。おじいさまが撮った8ミリに写る赤ん坊の宮本さん。その動画をいつもiphoneに入れて持ち歩いているのだそうだ。憶えていないけれど、揺るぎない自分の存在を示すものをこのような形でつかんでいる人はめったにいないだろう。この体験が宮本さんの制作のベースを形成している。
年月をかけて進めている現在進行形のプロジェクト「存立(そんりつ)」。宮本さんは出会った人の記憶に寄り添い膨大な時間をかけて共にたどっていく。宮本さんは他者=見知らぬ記憶と向き合いながら、その痕跡や断片を採集し、再構築していく。人と人が出会う=知らない記憶と出会うというふと通り過ぎてしまうような記憶の重なり合いにおののき、よろこび、かなしむ。淡々と寄せ集められていく事物は記憶とべったりとはり付いた状態で提示されるのだ。このような世界の見方があったのか。
12:00 3つの研究発表を聞いたあと、昼食をとる。
13:00 アートミーツケア学会総会。会計報告や次年度の計画が発表され承認。来年度の総会は仙台だそうだ。うーん、行かねば。
13:30 昨日の分科会の報告がある。驚いたことに発表は学生が行った。慶応大、明治大の学生が昨日の分科会で起きたハプニングや議論の様子をダイジェストで紹介。素直な反応が初々しい。
ある分科会はタブー視されがちな「障害者の性」についての話題が報告された。さすがに学生では荷が重く、代わりに森口ゆたかさんが報告する。ある脊髄損傷で下半身不随の方が愛する人と交わるために練習して四つん這いになることができ、やがて射精までも可能にした、という逸話は会場を感動に包んだ。「セックスは生きていることの一部です。分科会で話された多くの逸話が人間の尊厳に関わることだった。」と震える言葉で締めくくられた。また、このような問題提起もあった。「男性と女性の性の平等性はあるのでしょうか。女性が性を語ることは社会的に難しい。もし、女性が障害を持ったならば、さらに性の問題はブラックボックスに入ってしまう。」普段考えても見なかった視点に私も大きく揺さぶられた。
さて、最後のプログラム、対談 鷲田清一×熊倉敬聡だ。
最初に 鷲田氏から北川フラムさんの言葉が引用された。「アートに生活を取り戻す。」
なぜ「生活にアートを取り戻す。」ではなかったか。そこを出発点として議論を展開する。
昨日講演した石内都さんの創作、底流に流れるエレメントを対談者二人が見事にえぐり出していく。
「生きることは傷を負うこと。石内さんの写真を撮る行為は、傷を生き直すことだ。傷を撮影しなぞるだけでなく、それは見ることにできない自己の深部にある傷を解放していく作業だった。」
「痛みは「今」「現在に閉じ込められる」激痛は後も先も考えられない。傷はいつまでも過去になってくれない痛みの記憶だ。」
傷の考察から現代の傷について議論は広がる。自らつける傷、自傷行為、ピアッシング…。現代に特有な傷と石内さんの作品はどこか共振するのではないか。
石内さんが現在制作している広島についても議論の火種が飛び火する。「現在の広島は原爆ドームを例外にして、表面的にはとてもきれいで、傷が残っていない、傷はあるはずなのに傷が消されている街だ。」と熊倉氏は言う。見えない傷は深い。神戸も同様のことが言えよう。
生のフォーマットをどう変えていくのか。そこにアートはどのように機能していくのだろう。答えは簡単に見つかるものではないが、その可能性について諸氏は議論を重ねていく。
「仕事=資本主義的なシステムは目標に向かっていくために今、何をやるのか、やるべきなのか、ということである。つまりそれは共通の理念に集う集団(=party=政党)である。」一般的に社会での活動のあるべき姿である。しかし、アートの役割は少しシフトが異なるのではないか。
「(最近見られる、社会活動に近接する)アーティストは社会に参画する時に、自分が何を作るかわかっていない。目標はゆるやかで、そこに集まってくる人々もゆるい団体。それがいつの間にか、こうでしかない、こうでなければあり得ない形に帰結する。」明日は予測できる。アーティストが創り出すのはその次にある明後日を創り出すことだ、というところで鷲田氏、熊倉氏の議論は締めくくられる。
諸氏のお話を聞きながら、我が振りを見つめてみる。今年の十日町病院の取組みとやさしい家にはアーティストの仕事があり密接に連携しながらデザイン集団でんでんの仕事があった。でんでんは終始、「仕事」であることの線をきちんと守った。「ニーズに答える。」という姿勢を貫いたのだ。アートの営みは同じ創造でも質が異なるものだ。受け入れられるかどうかもわからない、その先はわからないぎりぎりの皮膜のような領域で成立する世界。その繊細な皮膜に触れて多くの人々が共感することが起こりうるのだ。その意味でここのところ、アートは特権化されすぎたのかもしれない。社会にアーティストが進出する動きは以前からあったけれど、それはどこまでいっても「生活にアートを取り戻す」ことでしかなかったのではないか。
ここで北川フラムさんの言葉に再び戻ってくる。「アートに生活を取り戻す。」

アートミーツケア学会 初日

2009年 12月 5日

アートミーツケア学会の総会に行く。
今日12月5日(土)、6日(日)の二日間で講演、プレゼンテーション、分科会、ディスカッションなどが行われる。ベタなコンテンポラリーアートとは少し毛色の違う研究領域がここにある。私は2年前の学会が始まったばかりの頃、実践報告をした。ちょうどその時に同じように実践報告をした慶応義塾大学の研究者たちが今回の総会をバックアップしている。

学会会場となった慶応義塾大学東門

学会会場となった慶応義塾大学東門

13:00 品川まで新幹線、田町でJRを降りて慶応義塾大学へ。メイン会場となるのは慶応大の東門の6階。その他慶応大が進めている近隣のコミュニティースペース3つが分科会、ワークショップの会場となっている。
会場に着くと、事務局の森下さんに久しぶりに会う。「いつもレポート見せてもらってますよ。」続いて森口ゆたかさんにも会う。大阪でホスピタルアートを最初に紹介したアーティストとしてその名を知られている。全く奇遇だ、ホスピタルアートを関東圏で紹介した林容子さんにもばったり。昨年に開催したシンポジウムで基調講演をお願いしたアートマネージメントの専門家だ。
13:30 写真家石内都さんの基調講演が始まる。お母さんのやけどの傷跡、遺品の下着や衣服を撮った「Mother’s」はあまりにも有名。ベネツィアビエンナーレにも出品している、日本を代表する写真家の一人だ。
自身の作品を紹介しながら、生まれ育った横須賀の街、6畳間ばかりを撮ったアパートのシリーズ、40歳の女性の手と足を撮影したシリーズ、そしてMother’s…。対象は時代とともに推移しながらも一貫して記憶、負の場所、通り過ぎて見過ごすことのできない何か、を撮り続けている。その系譜は臭い立つような石内さんの体臭さえ感じる。そしてご本人も話していたが、石内さんが女性であることも密接に関係している。写真を撮り、様々な事象と向き合うことで自らの女性性に気づいていったと言う。
石内さんは現在「広島」をテーマに仕事をしているそうだ。その撮影の様子も紹介された。私も大島を中心に写真を撮っているが、石内さんの話のなかで参考になる言葉、共感する言葉があったので紹介しておきたい。「写真はすべてが写っているわけではない。その人が切り取り、見たものが写っている。」「写真は主観的にしか撮ることができない。」「いかに記録としないか。創作する、イメージする記憶を私は撮りたい。」

分科会会場となった「芝の家」

分科会会場となった「芝の家」

15:45 石内さんの講演が終わり、分科会に分かれてワークショップやディスカッションが行われる。私は慶応大が運営する「芝の家」に行くことにした。
外に出るとびっくり、雨が相当降っている。足早に芝の家に行く。歩いて10分弱だろうか、大学からほど近い場所、住宅が並ぶ路地の一角に芝の家はある。
本分科会は、大学が積極的に社会活動やコミュニティーに参加している取組みについてディスカッションするという内容。先生だけでなく学生がプレゼンテーション、ディスカッションするとのこと、我がプロジェクトのことを想起して親しみを感じる。宇都宮大学、大正大学、そして慶応義塾大学でそれぞれ取組んでいる内容は私たちのように医療や福祉にダイレクトに関わるものではなく、様々なスタンスでコミュニティーの一員となって子どもたちやお年寄りと関わっていくものだった。宇都宮大学はカフェを日替わりで運営する「ソノヨコ」「ソノツギ」。毎日全く異なるカフェが現れるなんて、かなりユニーク。大正大学は「大正さろん」という学外にコミュニティースペースを置いた試みだ。慶応義塾大学、芝の家は地域再発見事業として港区と包括協定をむすび、運営しているコミュニティースペースである。ここでは慶応義塾大学の芝の家をとりあげたい。大学からごく近いということもあり学生スタッフが常駐し、子どもたちの遊び場の提供、縁側などをつくり、昭和30年代の近所付き合いを再現している。コミュニティー喫茶、親子向けワークショップ、コミュニティーイベント、環境整備などを隙間なく行っていて、手堅い。

「芝の家」で行われたディスカッションに学生も加わる。

「芝の家」で行われたディスカッションに学生も加わる。

それぞれのプレゼンテーションの後に担当教員、学生の実践メンバーがパネリストとなってディスカッションが始まった。学生が話したことで、私たちの活動にも響くものがあったのでここで紹介しておく。
「「家」を運営することで、友達とも、家族とも違う安心できる横のつながりを得た。」
「「家」は昭和をイメージして懐かしい雰囲気を出しているけれど、それだけでなく個人の記憶とは異なる、人が脈々と受け継いで来た感覚なのでは。」
「「家」の運営を通して、他者への許容が広がった。個が具体的にイメージできるようになった。」
共通した悩みも噴出した。つぎに紹介する言葉はやさ美のメンバーもうなずくに違いない。
「自発的に、自主的にやっていくことがむずかしい。活動をしている本人たちは充実感を感じているけれど、それがまわりに伝わらない。」
「モチベーションを維持することが難しい。」
「継続、リクルーティングが難しい。」
「問題を共有していかに興味を持ってもらうか。そこがないと人が離れていってしまう時代。」
こんな議論もあった。
「表現と義務は違う。表現は自分が結果をひきうけて「うれしい」と感じる。義務はやらなければならないことで達成しなくてはならないこと。」
なるほど。この区別が学生にはなかなかできない。「表現」は気ままな制作になってしまい、「義務」は出席票と単位取得一辺倒になりがちだ。優先順位でどちらかを削らなければならないときもある。では、大学とは義務だけを学生に要求する存在??私はそうは思わない!
オーディエンス側からするどい質問も投げかけられた。
「活動している本人たちの満足度はわかる。ではそれらの成果を客観的に知る数値的データ、評価はどうなるか?」といった質問だ。
これは簡単に解決できる問題ではない。なぜなら、すべて現場で起きていて、そこに居る人が感じていることであり、具体的な数値に置き換えられないからだ。私たちやさしい美術もこれに悩んだ。むしろ、私たちの場合、医療=サイエンスとの関わりだから悩みはさらに深い。存在理由に関わることなのだ。今回壇上にあがった取組みは持続するモデルを作ることにいずれも苦労している。だから、資金についてもほとんど大学が負担して大学の責任において行っている。やさしい美術プロジェクトはさらに差し迫った問題として、存在価値にまで言及されることが容易に想像できるため、私なりに対策をとって、アンケート調査を外部有識者の協力を仰いで進めて来た。そうした中で、慶応義塾大の取組みは行政と連携した好例であり、裏を返せば、成果をわかりやすく第三者に渡す責任が生じていて、それはそれで大変だと想像する。なかなか悩ましい現実だが、1ついえるのは良い、悪い、必要、要らないといった議論ではなくて、どのように必要で、どのように感じられているかを丁寧にひも解いていくことが問われる局面になっているということだ。この問題については持ち帰って考えることにする。

足助病院 メンテナンス

2009年 12月 4日

取り付け部のゆるみなどをチェックする。

取り付け部のゆるみなどをチェックする。

12:00 プロジェクトルームに集合。私と古川、門川、木谷、天野でレンタカーに乗り込み足助病院へ。
13:15 足助病院に着く。さっそく手分けしてメンテナンス作業にはいる。私と木谷、古川とで内科処置室天窓に展示中の透過型絵画「天翔る鯉」の取り付け部をチェックする。ひととおりビスの増し締めをしてメンテナンスを終える。私のみ内科処置室にとどまって作品の写真撮影を行う。1時間はかかっただろうか、天井にあり、なおかつ光を透過しているため露出に手間取る。
その後は片付けをして講義室でマルチボックスのメンテナンスをしているメンバーと合流する。天野、門川がすでに天野の「コトバノつぶ」「コトバノみくじ」のメンテナンスを終わらせてマルチボックス「私の美術館」の修理、清掃作業に入っている。事前に作業のデモンストレーションをしたので私も安心して任せられる。リーダー古川が懸命に作業する姿が清々しい。天野は豊富な経験をもとに他の3人に的確なアドバイスをしている。こちらも頼もしい。
作業を任せて私は絵はがきワークショップキットとMorigami折り紙キット、Morigami並木道ー足助ーのコンディションを確認する。

指差し呼称 表彰バッジ。直径2センチ。

指差し呼称 表彰バッジ。直径2センチ。

途中、安全対策室の山村さんがやってくる。メンバー張がデザインした「指差し呼称」の表彰バッジが発注先業者から送られて来た。なかなか高い質感。これなら、表彰された看護師さんの襟元を飾るにふさわしい。いい仕事したね張さん。
長い間足助病院の玄関近く階段に展示された門川の「光を感じる風景」をはしごを掛けておろし、丁寧に掃除する。
金曜日の今日は内科待合いが小児科一色になり、子ども連れの親子でにぎわう。ずっと気にかけて見ていたのだが、とうとう芳賀の「はてな?クッション」で遊ぶ親子を発見!さっそく写真撮影の承諾をいただき、撮影する。実際に触れて遊ぶ作品は使われてなんぼ、記録写真も実際に使われているシーンを撮っておくべきだ。
17:30 マルチボックスの修理が思った以上に少なく、すべての作業を終える。
19:00 門川、木谷の二人を春日井駅に降ろし、天野と古川が大学まで残って荷物をプロジェクトルームに戻す。活動のプロセスをスタッフや教員に頼らず、最後までやり遂げる意識が確実に受け継がれている。メンバーの成長を感じる1日だった。

はてな?クッションで遊ぶ親子。

はてな?クッションで遊ぶ親子。

板が外れたものは接着して元に戻す。

板が外れたものは接着して元に戻す。

マルチボックスのコンディションを整える作業。

マルチボックスのコンディションを整える作業。

retrospective

2009年 12月 3日

やさしい美術プロジェクト、元リーダーの川島がグループ展を開いている。この日しか時間がとれない。17:20大学を出て一宮へ。
18:15 グループ展会場の「つくる。」に着く。庄屋さんのお宅だろうか、大きな古民家が現れる。既に暗くなっていたので家屋がシルエットで浮かび上がる。すぐにそれとわかる、2階の窓に見覚えのある映像が投影されている。川島が「やさしい家」の窓に投影し、病棟の患者さんが鑑賞した作品だ。昔ながらの上がりかまちから部屋にあがる。家屋の中に溶け込むように絵画、映像作品が並ぶ。
懐かしさの反面非日常的とも思える日本的な空間、時間の蓄積を感じる家。手持ちの作品を携えてやってくるという感覚で挑めばたちまちその存在感に飲込まれる。空間は生き物なのだ。失敗してもいいのでこの家とのやり取りのあとがもっとあってもよかった。

retrostpective展会場の「つくる。」

retrostpective展会場の「つくる。」