Nobuyuki Takahashi’s blog

2010年 5月のアーカイブ

大島 釉薬がけとお磨き

2010年 5月 15日

9:30 6名のこえび隊の皆さんが桟橋につく。AFG大島担当の高坂さんも一緒だ。お二方大島が初めての方がいたので、いつものとおりカフェ・シヨル(第二面会人宿泊所)に行きざっくりと大島での取り組み{つながりの家}の全容を説明する。その後納骨堂、風の舞を参拝。
今日は3手に分かれての作業だ。カフェのキッチンの設えを整える班、陶芸室で大島焼に釉薬をかける班、GALLERY15(15寮)では入所者から預かっている、「古いもの、捨てられないもの」のほこり取りをする班だ。
私は初めて大島に来たお二方を連れてGALLERY15に行く。預かっているものは亡くなった入所者が所有していた木彫り、盲人会の方々が使っていた点字タイプライター、入所者が療養所に収容されて最初に渡される膳箱などなど。それらを固くしぼったウエスで汚れを丁寧に拭う。お磨きをしているような静謐な時間が流れる。
12:00 昼食は野村ハウスにて。今日は人数が多く、野村ハウスの6畳間は人でいっぱいになる。
13:00 作業再開。
14:30 東京から帰ってきた自治会長の山本さんが放送で演説。大島の将来構想を含めた、今後の対策のため東京の議員会館や厚生労働省を訪問してきたそうだ。

テストピースで大島焼の釉薬を決定する

15:00 カフェまで大工道具類を取りに行く途中、入所者の東條さんに会う。センターの軒先でネギの苗を育てていて肥料を与えているところだったらしい。カフェで道具類をまとめていたら、つい先ほど会った東條さんが「みかんの木、今ちょうど甘くておいしい時期だから、採ったらどうかな。」と話しかける。東條さんと畑まで歩いて行く。大智さんが耕している畑のすぐ近くにそのみかんの木がある。2つ3つもいで皮を剥きほおばる。見た目よりもずっと甘い。東條さんにも一房剥いてわたすと「甘いなー。」
大島で採れる柑橘類は種類が豊富で、味も一級品。明日の作業の途中にも採りにくることにする。
15:30 陶芸室で釉薬をかける作業をしている天野から連絡がはいる。東京から帰ってきたばかりの山本さんが会いたいとおっしゃっているようだ。山本さんとのお話の中でうれしかったのは、瀬戸内国際芸術祭に参加することは香川から選出された国会議員の方々にもよく伝わっていて、注目されているとのこと。私も微力ながら大島の将来に向けてお手伝いができればとお話しする。
さて、私と山本さんがお話ししている横で泉が今か今かと機会をねらっている。「ろっぽうやき」を山本さんに試食してもらうのを待っていたのだ。(ろっぽうやきについては5月10日 日記を参照)5〜6回の試作の中でも今回は自信作。当時のろっぽうやきに近づくには山本さんからの厳しい批評をくぐり抜けなければならない。
山本さんはまずろっぽうやきを指先でほっくりとちぎった。「お、今度はよさそうやな。」しっとり感は山本さんから出されていた課題だったが、見た目はクリヤー。さて、肝心の味だ。山本さんはゆっくりとろっぽうやきをほおばる。「合格やな。」陶芸室にいた一同拍手喝采。やったね!あとは甘みなどの微調整でろっぽうやきは復活をとげる。
16:30 桟橋で井木、泉、天野、こえび隊の皆さんを見送る。その後私はGALLERY15に戻り、音を使ったインスタレーションの実験を重ねる。
19:00 作業を終了して夕食を作る。鳥の胸肉、セロリがあったので、まず鶏肉をこんがりと焼いておき、タマネギとセロリ、ニンニクをみじん切りにしてバターベースのとろりとしたソースを作り鶏肉にかける。なかなかおいしかった。
1:00 就寝

大島 第2回定例検討会

2010年 5月 14日

20:30まで大学で仕事。21:45に帰宅して夕食。22:20に自宅を出発。なかなか慌ただしい。
23:00 卒業生でやさしい美術メンバーの天野と夜行バスに乗り込む。
6:30 高松着。ごひいきのパン屋さんが開いていたのでそこのカフェにて朝食をとる。
官用船の始発に乗り込むために桟橋近くのポートビル待合所で時間をつぶす。カメラを分解して軽くお掃除。昨夜の慌ただしさがうそのようにゆったりと時間が流れる。
9:05 官用船せいしょうに乗船。快晴のうえにべた凪、言うことなしだ。
9:30 大島に着く。桟橋で作業着姿の泉と井木が待っていてくれている。こえび隊のお二方がせいしょう丸から降りてくる。まず、カフェ・シヨル(第二面会人宿泊所)に行き、荷物を置く。こえび隊はボランティア精神で成り立っている。ボランティア精神とは「自らできることを率先してやる」ということ。その意味ではやさしい美術プロジェクトである私たちも同地平で仕事をする。協働という言葉がぴったりだ。一緒に汗をかくと、汗をかいただけ信頼関係が深まる。これは、ほんとうだ。大島での取り組みはこのように準備段階から大島に暮らす入所者の皆さんとの絆、ともに働くボランティアの人々との連帯感を深めていく。全員で納骨堂を参拝し、風の舞に行く。大島で暮らしてきた方達とのごあいさつだ。
カフェ・シヨルの漆喰壁の装飾は終盤を迎えている。あとはトイレを残すのみだ。漆喰を練るもの、塗るもの、漂着物で装飾するものに分担して作業を進めていく。
12:00 お昼になり、野村ハウスで昼食。こえび隊の皆さんとお話しする。「瀬戸内国際芸術祭があり、大島の取り組みがあった。だから大島に来られた。ハンセン病についても興味を持つことができた。」「大島の存在は知っていたけれど、行く機会がなかった。次も行ってみたい場所になった。」との声。とってもうれしい。入所者がここで話を聞いていたらきっと喜んでくれただろう。先日のハンセン病市民学会に参加してきたというお話もあった。大島に来たことによって興味が深まり、自らの問題として捉える人々が増えている。
13:00 昼食後も作業に没頭。
私は一人時間をいただいて、入所者の西内さんのお宅に行く。
青松園職員の大澤さんが清掃作業中にゴミ捨て場で見つけた紙の束。それは
放送劇の台本だった。出演者の名前を辿り、私と大澤さんは発見した台本を持って西内さんのもとを訪れた。西内さんは「放送劇ならテープをとってあるよ。」おっしゃり、タンスの奥からカセットテープ16本と1本のビデオテープを取り出した。なんと言う偶然、なんという幸運。使わなくなったものはすべて廃棄する大島には今もかろうじてこのような遺物が埋もれているのだ。
さて、話は長くなってしまったが、このカセットテープとビデオテープのデジタライズを無事に終え、今日テープの持ち主である西内さんにお返しした。お礼に名古屋のお菓子を包んでいった。お部屋に通していただき少しばかり放送劇の経緯をうかがった。放送劇同好会は介護士、看護士、入所者の集まりで結成された。昭和57年もしくは58年のことである。当時西内さんは北の一般寮で暮らしていたそうだ。つまり、介護士の手を借りず、自活していたから介護士さんとは全く接点がなかったのだという。
さらに昭和30年代、20年代まで遡ると、青松園職員と入所者との間には明らかに大きな溝があった。職員寮のある南の山で花見(当時は桜はなく、山ツツジで花見をしていた)をする時はわざわざ伝馬船で海伝いに山に行ったそうだ。入所者は職員の領域を通ることを許されなかったのだ。「有毒線」といって鉄条網で区切られていた時代もあった。それほどまでに心の溝は深かった。この放送劇のように入所者と職員の混成で1つのものを作り上げていくというのは、その見えない溝を埋めることでもあった。職員の金重さんが脚本を選び、入所者の森川さん(森川さんは大島に存在した歌舞伎座の俳優でもあった)が中心となって演技をつけた。過去のことを払拭し突破口を開いていく職員さんの存在はとても大きい。
私は放送劇をすべて完聴した。時代劇、現代劇、色恋あり、アクションあり、笑いあり、涙あり…。出勤時の車の中で放送劇を耳にし、感動のあまり私は何度も涙を流した。地層の狭間に見つけた玉のような輝き。「放送劇は全部聴きました。うれしくてたまりませんでした。」と西内さんにお話しすると、西内さんはうっすらと涙を浮かべて「ありがとう。そんなふうに聴いてもらえてうれしいわ。」とおっしゃった。「もう一度、放送劇を大島で流しませんか。盲人の皆さんにもよろこんでもらえると思います。」
14:00 西内さんに放送劇の放送の了解を得て、カフェ・シヨルに戻る。
14:30 香川県庁の宮本さん、今瀧さん、こえび隊代表甘利さん、AFGの高坂さん、原さん、アーティストの田島さんとで入所者自治会会議室に行く。まもなく青松園福祉室室長、副室長、官用船船長、副園長、看護婦長らが集まり定例検討会を始める。議論の中心は大島をどのように外部に開いていくか。前向きな検討が続く。
16:00 定例検討会終了。
すぐさまカフェ・シヨルに寄るが、誰もいない。そうだ、井木たちは庵治第二小学校に行き、小学校の机や椅子をカフェに貸し出してもらえないか交渉に行っているのだ。高松便最終の官用船出航の時間に井木たちが桟橋に戻ってくる。高松に帰るこえび隊の皆さんを見送り、その後は脇林さん宅に行く。脇林さんは大島の写真家で、対象は大島の人、自然、暮らし、諸々全てだ。脇林さんにGALLERY15で展示する写真作品の出品を依頼し、額装を含め作品は完成している。大きなものでA2、主にA3にプリントした作品約20点あまりを受け取りにいく。脇林さんは最近膝を痛めたそうだ。入所者の多くは強制労働により重い後遺症に悩まされている。脇林さんは膝の手術をしているが、義足の方も少なくない。脇林さんは大島の山に入り撮影するのが日課。はやく良くなるといいのだけれど。
18:00 久しぶりに職員食堂に行く。野村ハウス(11寮)で寝泊まりするこのごろは少し足が遠のいていた。常連の入所者曽我野さん、めずらしく入所者の大野さんも一杯やっている。曽我野さんが私たちの席に入ってきて、一升瓶で酒をつがれる。
予科練時代に発病し、大島に強制収容されて62年。62年である。零戦パイロットだった曽我野さんはハンセン病に罹患しなければ靖国神社に入っていた運命だ。「よかったのか、わるかったのかー。」
私は小原村に住んでいた頃村の寄り合いに出たときに、ある方から仲間が皆沖縄で命を絶った、という話を聞いた。「あと一日でも戦争が続いていたら、死んでいた。」私は失礼かどうかもわからずその方に思い切って聞いてみた。「生きていてよかったですか。」
その方も曽我野さんと同じ返答だった。「良かったのか悪かったのか。」
曽我野さんはハンセン病国家賠償訴訟で全国原告団協議会会長を務めた方だ。教科書にも載っている人である。当時の小泉首相に控訴断念を迫り、勝訴した話はあまりにも有名だ。その時の様子を生々しくお話しいただいた。
小泉首相とお話ししたのは15分ほど。首相官邸を出て10分ほどして曽我野さんの携帯電話がなる。”たった今政府は控訴しないと発表がありました!!”曽我野さんは人目をはばからず「万歳」を連呼し飛び上がったという。
21:30 職員食堂を出る。
大島の夜は更けてゆく。

発達センターちよだ 鏡を見る

2010年 5月 11日

今日は発達センターちよだへ打ち合わせに行くことになった。ミーティングの議論もそのまま持ち込んでちよだの職員さんにもぶつけたいと思っている。腹を割って相談することがとても大切。殊に長期で続けている取り組み。お互いの信頼感のもとに踏み込んだ議論ができるはずだ。
16:00 発達センターちよだに到着。今年度ディサービスちよだの一環「絵画の取り組み」の担当となった関谷さんと挨拶。さっそく今年度の取り組みを進めるべく検討会議を始める。
私の方から、やさしい美術プロジェクトのワークショップチーム(ちよだチーム)の現状報告と取り組み姿勢について説明した。ちよだからは今年度「絵画の取り組み」に参加している児童は昨年から参加している4名という報告を受ける。取り組みの導入も違和感がなく、流れもできているとのこと。子どもたちの最近の様子を関谷さんからお聞きして、ゆっくりだけれど変化し、成長している様子が伝わってきた。
途中、一昨年「絵画の取り組み」の担当だったちよだ職員の伊藤さんが会議に加わる。やさしい美術=ピンクのつなぎのお姉さんたち というイメージが子どもたちに定着しているという。新しいメンバーで取り組みを実施していっても大きな障壁はないだろうとのことだ。また、3年前に取り組んだワークショップをもう一度行うと子どもたちの反応はどのようなものか、前回の子どもたちの様子と照らし合わせることも可能だ、との話もあがる。ゆるやかな子どもたちの成長は毎回のワークショップに埋没していると見失いがちだ。長期にわたり行っている取り組みならば時間をおいてリメイク版のワークショップを行うのもいいかもしれない。
私たちはワークショップチームのミーティングでちよだでの取り組みの骨子を立ててみた。それは
・子どもたちの感性の可能性を広げるため、幅広い体験を積み重ねる。
・子どもたちの、日常から解放された自由な時間を創りだす。
・他者との関わりの場を創る。
の3本の柱である。
「幅広い体験」とは、美術の専門性からより多くの素材のバリエーションや感覚の引き出しをつくっていくことであり、当初からちよだ職員から期待されてきたことである。
「日常から解放された時間」とは、学校でもなく家(家族)でもない、慣れ親しんだちよだでのびのびとした時間を過ごすことである。「絵画の取り組み」に参加している児童は全員ちよだに通園していた子どもたちである。
そして「他者との関わり」。これは子どもたちから見た私たちとの関わりであり、私たちにとっては障害を持った子どもたちと関わるという両義的意味である。子どもたちの表現から私たちがキャッチすること、それを次の取り組みに活かすことは実行して行かねばならないことである。同様に重要なことは私たちが純粋無垢な子どもたちと接しているうちにしとどに溢れ出てくる自身の内面と向き合うことである。怒りやいらだち、衝動。内に秘めた感情をきれいごとを言って受け流すのではなく、自分でしっかと受けとめていくことによって子どもたちへの声のかけ方、働きかけに如実に反映されてくるのだ。生な人間同士が関わり合うこと。ちよだ職員の皆さんは毎日子どもたちと真摯に向き合い、子どもたちという鏡を得て、自分自身と向き合っている。
私は今日の打ち合わせによって共通認識が得られたことがうれしかった。専門領域は異なっても「一緒に考え、悩み、乗り越えて行く。」道を歩いて行くような安心感が私たちを包んだ。
17:00 ちよだでの打ち合わせを終え、大学に向けて出発。今後は相談しながら、毎月一回のワークショップを実施する予定だ。
17:45 大学に戻り、プロジェクトルームに帰ると新メンバー10名がリーダー古川の話を聞いているところだった。プロジェクトルームの使い方をガイダンスしているのだ。新メンバー間も交流が始まり、緊張感が解かれてきた。あいにくの雨模様も今日は気持ち良く感じるほどだ。

コンピュータの使用についてガイダンスするリーダー古川

ツツジの寒天ゼリー

2010年 5月 10日

9:30 資料の整理。
10:00 プロジェクトルームに行き、ミーティングの準備をしていると、大島チームの井木と泉がやってくる。二人が来ると一気に賑やかになる。ほこほこしてくる。
大島の取り組み「つながりの家」の活動を円滑に進めるためのミーティングを行う。検討事項がたくさんある。特に現地で準備するものと名古屋で準備することのバランス、材料の調達と運搬がポイントになってくる。というのも、大島は離島のため、材料は官用船を頼るか、チャーター船で運ぶことに限られる。地続きのところで都合のつくときにホームセンターでお買い物、というわけには行かないのだ。スケジュールも綿密に立ててていかなければならない。
連休中、各自制作、リサーチしてきたことを報告し合う。私はギャラリーの展示プランを二人に説明。素材や機材も揃いつつあることを報告する。泉は実家のある大阪で「ろっぽうやき」の短期修行に行ってきたそうだ。
菓子職人だったある入所者が「ろっぽうやき」といううどん粉とあんで素朴なお菓子を作っていたという。大島に強制的に隔離されてきた入所者にはありとあらゆる職業の人がいた。ハンセン病を患ったというただ一点に於いて大島に住むことになった人々が生んだ「文化」はルーツが問題ではなく、人々の心を揺り動かしたという事実が重要だと思う。「ろっぽうやき」はその象徴であり、入所者ほぼ全員が知っている味覚の記憶なのだ。
不思議だが、たまたま泉の故郷である大阪にろっぽうやきを売るお店があり、大島のろっぽうやきを再現するという事情をお話ししたら、快くレシピを教えてくださり、なんと厨房で職人さんといっしょに作ってきたのだと言う。こうした巡り合わせと出会いで大島に滞在していない間も制作は続けられている。
大島ツツジでつくった寒天ゼリーは絶品

夜なべ

2010年 5月 9日

ついつい夜なべしてしまった。早く寝ればいいものの、やり始めたらとまらない。繕い物のあと、写真作品の制作。

デニムのパンツ2本、シャツ一枚を繕う

ちよだ 伝導と共鳴

2010年 5月 7日

午前中、大島担当AFGの高坂さんと連絡を取り合い、来週の大島行きなどについて打ち合わせる。何度か大島に電話をかける。入所者自治会会長の山本さんは2月以降、自宅に電話してもなかなかつながらない。ほとんど自治会事務所で仕事してみえる。青松園事務長の稲田さんと相談しながら、これからの制作や準備に必要な事項を進めていく。仕事の合間に猛スピードでギャラリーの展示プラン、Morigamiの設置プランのスケッチを何枚も描く。
GALLERY15(15寮)で最初に行う展示は音を使った展示だ。大島で取材した音をギャラリーで再生する。建物には手を加えない。来場者は空っぽになった15寮=ギャラリー=入所者の住居をゆったりと感じてもらおうと思っている。大島にある音とその場所の記憶が音場となって建物全体から鑑賞者の身体に伝導していくようなイメージを目指しているが、なかなかうまくいかず、試行錯誤を繰り返している。こういう時こそ地道な実験、研究、新鮮な作品イメージを保ち続けることが大切だ。ここ10年来あたためてきたプランが大島という場所を得て実現するのだ。自分でも神経がぴりぴりしているのがわかる。
17:30 発達センターちよだのワークショップに向けてミーティング。オブザーバーに1名新メンバーを加え、総勢5名で今後の方向性を議論する。スタッフ川島がワークショップの記録をまとめるためのフォーマットを作成しておいてくれた。こうしてたたき台を作ってくれると議論が前に進む。メンバー森からもラフ案でワークショップの評価のバロメーターを記述する提案を持ってきてくれた。さて、ここから議論が始まる。
私からワークショップの実施に加えて「なぜ記録を作り、研究のための資料を残そうとするのか。」を説明した。やさしい美術プロジェクトは前例のない取り組みだ。病院と継続的な協働関係を保ち、院内環境、人々、そして地域に働きかけ、相互に変化していく社会活動である。私は学生にもスタッフにも「できる限り記録を残しなさい。」と指導してきた。以前は無自覚なところがあったが、学会や研究会に出席し、また私自身も学会発表を経験して改めて「研究」となることの重要さに気付いていった。私たちのやさしい美術は新しいアートのムーブメントではあっても、根も葉もないところにこつ然と現れたものではない。時代の流れ、連綿と受け継がれてきた歴史の積み重ねの上に私たちは立っているのである。先人の道を敬い、それを礎に前に進むには自分たちの歩みを振り返り、確認し、後進のためにのこすこと。一言で言えば思い上がりにならないための「謙虚さ」といったところか。社会的「責任」と換言できようか。このような私の考えを学生、メンバーには伝える機会が今までになかったわけではないが、話してもすぐには理解してもらえない。それは無理もない話で、私自身も最近になってようやく実感を伴ってわかってきたことなのだ。むしろ私の言うことは実績ばかりを重んじる発言に捉えられたり、仕事が増える、手間が増える、余裕がなくなるなど何やら一方的に感じられるかもしれない。理解されなくともディレクターとしては必要な感覚なのだ。
発達センターちよだの取り組みは現代GPに採択された平成19年の10月から開始した活動だ。初めてちよだに見学に行き、子どもたちと接した心境は外国人の友達をつくるような感じだった。失礼な言い方かもしれないが、私は親戚、家族に障害を持った人はなく、よくわからないという程度の認識しかなかった。私には韓国やカナダ、アメリカ、イギリス、インドなどに親しい友人がいるが、文化も言語も異なる人と接しながら、交遊を深めていくのはとても刺激的だった。新しい人と出会い、新しい自分と出会える。その感覚とよく似ていた。この取り組みに携わった人全員が同じ感覚ではないだろう。自分自身が障害を抱えている、のであれば、子どもたちと関わる立ち位置が違ってくるかもしれない。障害を持つ人が身近にいれば問題意識の深さは私には想像のつかないところだ。
今回の議論に居合わせた全員にちよだでの造形ワークショップを通してどのような期待感を持っているのか、何を目標としたいのかをたずねてみた。ワークショップの実施を通して子どもたちの変化や成長を期待するのも確かだが、「障害を持つ子どもたちと接することができる。」というところに大きなメリットを感じているということが見えてきた。もう少し噛み砕いて言えば「他者と関わること。」を学び、実践し、相互に変化し、成長していくという期待感である。
まさにこれはやさしい美術が行ってきたことと重なるものだ。ごくシンプルな共有課題を言葉にできたことだけでも今回の議論の意義は大きい。
そして、「研究」について。スタッフ川島から「研究や記録を残す人は第三者である外部の人か、専門性の異なる人が行ったらどうか。」という提案があった。昨年度実施したアンケートの実施のため、統計の専門家のコンサルティングをいれた。活動の実践は当事者が集中すれば良い。痛いところをつかれた。私たちにコンサルティングをいれる予算はない。本学に研究の機関もなければそうした研究課題を抱く学生もいない。昨年は筑波大学の学生が取材に来て卒論で発表した人がいたが、本来は学内で実践と研究が一体になっているべきだろう。制作における本学の工房と研究室の連携はある程度図れていると思う。ところが実践と研究の連携や組織的取り組みは多くの課題を残していると言わざるを得ない。
ともあれ、私は現場とそこにいるメンバーの状況を見て、最優先課題を見極めなければならない。そこで私はひとつの決断をした。今年のちよだの取り組みは「研究」を行わない。必要最小限の記録と自助努力と改善のための日記的な報告書程度にとどめ、できる限り子どもたちとのふれあいに集中する。「残す」よりも「やり続ける」という選択である。実践ありきでそれから考える。その都度議論を重ねる。自然発生的に課題が出てくるようならば探求の勢いをとめることはない。

21:30 スタッフ川島としばらく議論の続きをした後、大学に置きっぱなしになっていた作品を車に積み込み久しぶりに小原村のスタジオに向かう。
23:00 途中食事をして小原のスタジオチキンハウスに着く。(スタジオチキンハウス:2008年8月5日の日記参照)車に積んであった作品をおろし、大島で使用する予定の機材をかわりに積み込む。周辺に家はない。町の灯がないところでは案外空は明るく感じるものだ。私の住んでいた小屋の向こうにクルミの木があるのだが、ひと際大きく成長して木の成りを表すシルエットが膨張したように感じられた。相変わらず星は降るように瞬いている。
0:30 帰宅。注文していたスポットライトとスピーカーセットが届いていた。そのまま制作に入る。
3:00 就寝。

ミーティング 新しい風

2010年 5月 6日

16:00 授業を終えて、スタッフ川島とプロジェクトルームの模様替え。現代GP、小牧市民病院スタッフ4名が解散して川島1人となった今、スタッフ机の数を絞り、コンピュータの位置、作業のしやすさを考えて配置を変えた。スペースが広くなり、必要なところにスペースができたので、なかなか満足。
17:30 足助病院訪問見学会後はじめてのミーティングを行った。ほとんどの参加学生が集まってくれた。それぞれが体験した当日の様子、入院している病院利用者からのお話の詳細を報告した。ひとり一人が訥々と当日の様子を解説する。各自がとったメモをもとに自分の感じたことをメンバー全員に伝える。ある入院されている方が涙ながらに話した戦争体験、婚約者の飲酒運転でこの世を去った息子さんの話、高等部2年まで靴を買ってもらえず、わらじを自分で作ったなど、伝え聞くだけでも情感が心にしみてくるようだ。「あの方ともう一度話してみたい。」「病院にアートがあるって悪くないなと思った。」「話を聞いてくれてありがとうと患者さんに言われ、うれしかった。」「話題をしっかりとつなげられなくてこれで良かったのか不安。」といった感想を聞き、個々がつかみ取るにいたらない気にかかったことを曇りなき眼で見据えようとする姿勢が見えてきた。新しい風がプロジェクトルームに吹いている。