Nobuyuki Takahashi’s blog

2009年 5月のアーカイブ

創造と想像

2009年 5月 17日

長女美朝のドローイングは、げじげじペイント

長女美朝は友人宅でも、げじげじペイント この集中力

今日は友人に昼食に呼ばれ、家族全員で友人宅へ。
彼は大学時代の友人なので、私と同じ彫刻科出身だ。仕事は造園。図面を引く方ではなく、現場で働く職人だ。
彼は最近瀬戸に居を構えた。半年に一回ほどだが、訪れるたびに少しずつ家が様変わりして行く。玄関ポストができていたり、レンガで演出したエクステリアや程よく植わった木々たち。もちろんすべて友人本人の仕業だ。仕事がらプロとはいえ、その変化がひたむきで明るくてなんとも微笑ましい。彼の奥さんがまた輪をかけてすてきな人で、私の家族は皆大好きだ。
彼女は不思議な人で、なぜか四葉のクローバーを見つけるのが得意だったり、長男慧地が産まれる日を当てたり。そして、彼女の料理は超絶品なのだ。
鍋にかけたひつまぶしにはなんと梅が隠し味で入っている。鶏肉のハムは自家製で3ヶ月ほどつけ込んだ物。ベーコンも自家製でそのベーコンとなす、ししとうで炒め物。得意のマリネは揚げたワカサギのものと、エビとホタテのものでバリエーション豊か。おからのサラダにはレーズンとマカロニが入っていて新食感…。数えきれない食感の嵐である。
料理ひとつひとつにちょっとずつひねりや工夫が隠れている。それが口の中で発見されることのなんともいえない喜び。私が思うに、彼女は「もっと美味しく食べてもらおう」という創造性と人が食べたときの感覚をシュミレートできる鋭敏な想像力が備わっているのだ。彼女はけっしてそれをひけらかすことはしない。あくまで控えめで食べる、味わう人を主役にしてくれるのだ。
私の奥さんが言う。「彼女はアーティストだね。」
さすが、わかってらっしゃる。

息子と私の友人とで協働作業

息子と私の友人とで協働作業

大阪にて

2009年 5月 15日

新幹線にてプランドローイング

大阪に向かう新幹線にてプランドローイング

この数日、来週スタートする「どんどん だんだん」展の準備のため、メンバースタッフが一体となって掲示物の文章編集、パネル制作に追われている。私も文章の校正作業などをこなす。
さて、5月15日の今日は大阪に行く。
瀬戸内国際芸術祭の総合ディレクターである、北川フラム氏と打ち合わせのためだ。
大阪の土地勘がないので遅刻しないようにと、少し早めに現地に着く。建物を把握した後、少し周りを散歩する。ある交差点で立ち止まったとたん、記憶の引き出しがわっと開かれる。デジャブだろうか。
ふと目をやると、そこには見覚えのある定食屋さんがある。そう、数年前にCASというギャラリーで展覧会を行なった時に行ったお店だ。デジャブではなくて、本当に行ったことのある場所だった。
ビルの9階にある「水都大阪2009」のオフィスに行く。北川さんが総合プロデューサーを務めることから、お互いに調整して、ここで会うことになった。
私から大島での取組みのこれまでと現状、将来的展望を説明。これからどのように進めて行くかを二人で話し合った。
瀬戸内国際芸術祭への国内外の関心は相当に高いと北川さんはおっしゃる。それもそのはずだ。世界でも類を見ない、海に浮かぶ島々をめぐる芸術祭だ。その島々のなかで大島はひときわ小さく、そして、そこにしかない歴史を背負った島だ。私は何度も大島を訪れ、大島を取材することに没頭していたが、今日北川さんとお話しして、芸術祭と社会という枠組みで捉え直すと、その周辺にある、庵治町、高松のことももっと知りたい、と思った。
大島青松園の入所者脇林さんよりいただいた、「癩院創世」という本を読んだ。無法地帯だった大島に灯った信仰の火。それが自治会の母体となって、今の大島の原型が作られた。その立役者である、三宅官之治のお話である。また少し、大島が私に近づいたような気がした。

淀屋橋駅にてヨーグルトドリンクを飲む

淀屋橋駅にてヨーグルトドリンクを飲む

妻有アートトリエンナーレ展示準備3

2009年 5月 12日

庭での朝食

庭での朝食

三日目の5月10日
7:00 起床。
快晴。雲一つなく清々しい朝だ。いきおい良く窓を開け放つ。昨日整備した庭に目をやると、ふと名案が。
「今日の朝食は庭で食べよう。」
十日町駅前の人気のあるパン屋さんで買ってきたパンと、昨日の残りのマカロニサラダ、キャベツにトマトを食す。あたたかい紅茶から気持ちのよい湯気があがる。朝日を浴びて身体の芯からリフレッシュする。ほのかに土の香りが感じられる。皆で一生懸命にむしった草の下から土が香り立っている。
部屋の隅々をほうきと掃除機で掃除する。一階部分はもはや空き家とは感じられない。人が住まうことによって、家も息を吹き返すのである。私が住んだことのある小原村では築180年、230年という草屋根の立派な家屋があった。人の住まなくなった空き家は通気が悪くなり数年で床が湿気で落ち、やがて土台が腐る。屋根が傷んでいて雨漏りがするようならばなおさら寿命は短くなる。
掃除をしているとホテル宿泊の平松と泉が合流。泉はここやさしい家で行なうワークショップの試作品を制作。赤塚は昨日の病院での設置検討につづき、このやさしい家でも予定しているアサガオの植え方や鉢植えの設置について模索する。平松と浅野はここで生活する際に必要なこまごまとした物をピックアップして、すでにプロジェクトで用意したものに「yasac」とマジックで書き込む。「yasac」とは、初期メンバーだったアーティスト加藤徳治の付けたメールアドレスを受け継いで使っている。

水の通り道を再生した庭

水の通り道を再生した庭

私は庭の再生の続きだ。というのも庭の中央に池の窪みがあり、深くえぐれた庭石から水が湧き出て流れ着いてたまっている様が表現されているのがわかり、それをより最初の状態に戻してみたいという衝動にかられたからだ。剣スコップでざくざく掘り進み、池の全貌がよりクリヤーになって行く。
必需品、日用品を買いに走っていた平松、浅野が帰ってくる。気がつけばもうお昼だ。
13:00 アートフロントギャラリー柳本さんが大地の芸術祭のパスポートを持ってきてくれる。樋口さんよりこの空き家の鍵をお借りできたので、これからは松代まで取りに行く必要がなくなった。ようやく正式にこの空き家を樋口さんより借り受けた、という実感がわき、この信頼関係を大切にして行きたいという気持ちがより強まった。
戸締まりをして、やさしい家を後にする。
近くのラーメン屋でラーメンを食す。冷やし中華の季節だ。私は自分の胃腸と相談してあたたかい食事にする。
その後、皆がどうしても行ってみたいという場所があるというので、立ち寄ってみることにする。昨日浅野が道に迷った際に見つけたおしゃれなケーキ屋さんだ。田んぼのど真ん中にある、と言い張るので、それは蜃気楼だとか、まぼろしを見たんだとか、脱水症状の幻想だ、などと冷やかしまくる。が、行ってみると確かに田んぼのただ中にぽつんとログハウス風のお店がある。ラーメンで満腹だが、ケーキとコーヒーをいただくことにする。テラスで食べるケーキは開放感が半端じゃない。また来たい場所を発見し、喜び勇む。
14:30 十日町市を出発。一路名古屋に向かう。
心配された渋滞もそれほどでなかった。土曜日曜の高速料金1000円の大騒ぎは少し落ち着いたか。
道中、久しぶりに「マニアックしりとり」復活。今回は難易度の高い歌バージョンもあり、苦しんだ。私は「た」がどうしても浮かばず、降参。罰ゲームで世にも恐ろしい歌(昔は友達と大合唱で歌ったけどなー)を歌わされる。どんな歌かは内緒。
19:00 大学に着き、荷物をおろす。その後春日井駅にて解散。
これからは旅日記がさらに多くなるはずだ。

テラスでおいしいケーキとコーヒーをいただく

テラスでおいしいケーキとコーヒーをいただく

妻有アートトリエンナーレ展示準備2

2009年 5月 11日

からだの芯まであたたまる朝の日差し

からだの芯まであたたまる朝の日差し

妻有滞在2日目の5月9日。
7:00起床。女性陣は6:30ごろから起きて朝食の準備をしている。私は飲み過ぎたせいか、顔がぱんぱんに腫れている。メンバー浅野がひき肉の卵とじをつくってくれる。とってもおいしい。マグカップからはほんわりと湯気が立ち上っている。「やさしい家」にあたたかい朝の日差しが入ってくる。昨日の雨がうそのようだ。
9:00 ホテル宿泊の泉と平松がやさしい家の門戸をたたく。「ただいま」「おかえり」と自然と口からついて出てくる。今日の作業を打ち合わせる。天気が良いので外で作業する際は熱中症に注意するように、と声を掛け合う。
一旦解散し、各々作業、準備、制作にとりかかる。私は悩んでいた庭の活用について心が決まり、雑草取りにとりかかる。作品制作や鑑賞の導線などの理由からテラスを作る計画を立てたが、庭はこの家屋の特徴の一つ。活用するアイデアはその時点で浮かばなかったが、とにかく庭として再生することにする。ひたすら汗をかきながら平松、泉の3人で草むしりをする。にわかに庭の全貌が明らかになって行く。単なる準備作業といえど、その作業を通してたくさん発見がある。発掘しているような楽しさだ。

電材が散らばる奥の8畳間

電材が散らばる奥の8畳間

10:00すぎて、レンタカーでホームセンターと電器店に行く。空き家に光回線のインターネットを引く工事について業者に依頼したり照明器具の部材などを購入するためだ。照明器具の細々とした部品、器具等を探しているうちにお昼になる。空き家から歩いて100mほどのうどん屋に行く。ここでばったり家主の樋口さんと会う。このうどん屋のご主人とも懇意の様子。女将さんは「樋口さんはゴッドマザーだからね。」とにこやかにおっしゃる。どうやら地元では樋口さんを知らない人はいない、ということらしい。お人柄だろう、初めて会ったその日から信頼感を感じる方だ。
美味しくそばをいただいて、真っ先に空き家「やさしい家」に戻る。日が出ているうちに照明器具をつけてしまわなければならない。感電を防止するためブレーカーを落として作業するので、暗くなってからでは作業できないからだ。
縁側の天井部にスポットレールを組み上げ、床の間に蛍光灯を仕込む。これだけで雰囲気ががらりと変わる。作業中にフィールドワークをしていた浅野が帰ってくる。ほおを赤らめてへたり込んでいるので声をかけると「道に迷って死にそうになりました。」とのこと。強い日差しで疲労困憊だ。少し落ち着いたあとは再びスケッチブックを片手に出かけて行く。懲りないでチャレンジすることが大事。がんばれ!浅野。

患者さんから質問が出ることも。

患者さんから質問が出ることも。

16:00 照明器具を取り付けた後、すぐに十日町病院に向かう。赤塚、平松、清水が2階屋上で作品「アサガオのお嫁入り」のアサガオの配置について現場検討の真っ最中。ここは病棟窓から見える風景の大部分をしめるのに関わらず、防水塗料ぬりっぱなしの飾り気のない屋上である。それには理由がある。冬は豪雪に見舞われる当地では、屋上に何かを置くにも発想が広がらない場所なのだ。アサガオは春から夏に掛けての季節限定となるが、花が咲く姿、植物の成長を見守ることは人々を元気づけるに違いない。
ディレクターとしての私の意見とアドバイスを赤塚に与え、すぐにやさしい家に戻る。
17:30 大地の芸術祭で私たちプロジェクトの担当となっているアートフロントギャラリー柳本さんと家主の樋口さんとこれからの空き家の活用について相談するためだ。3人で7月に迫る芸術祭にむけて前進して行こうという方向性を確認する。樋口さんが嫁いできた当時の十日町の様子を聞く。がっちゃんじゃらじゃら、がっちゃんじゃらじゃら、という言葉が象徴されるように当時は機屋さんが軒を連ね、大変潤っていたそうだ。バブル崩壊とともに衰退していったが、当地は着物の産地として全国に名を轟かせていたと言う。空き家の横には川が流れていて桜並木があったそうだ。それらのなくなってしまった風景を取材して描くのも浅野の仕事だ。
18:30 駅前のスーパーで買い出しに行ったメンバーらが帰ってくる。夕食は豚の生姜焼きとマカロニサラダ、ネギとあげのいためもの、キュウリのビール漬けだ。食感のバリエーションが波のように寄せては返し、思わず目をつぶってしまう。うまいっ。今日は皆よく働いた。皆ほのかに日焼けをしている。
0:30 明日の作業の確認を終え、お風呂を交代でいただき、早めに就寝。
<つづく>

屋上での作業風景

屋上での作業風景

妻有アートトリエンナーレ展示準備1

2009年 5月 10日

春日井駅に向かう車窓から見た雲行き

春日井駅に向かう車窓から見た雲行き

5月8日 昨日の足助病院訪問会の疲れを少し残しながら、8:30春日井駅に集合する。残ったのは疲れだけでなく雨も。今回の新潟県妻有地域のツアーの目的は作品を展示する前の様々な準備を行なうためだ。願わくば晴れてほしいー。
9:00 一旦大学に寄り、工具類、機材、掃除道具などを積み込む。レンタカーの車高が少し落ちたかのように感じられる。荷物の総量だけでもかなりの重量になっている。
途中、雨に降られたり、雲間が見えたり、雨雲とのいたちごっこを繰り返しながら新潟入り。まずはいつものように松代農舞台へ空き家の鍵を借りに行く。
16:00 新潟県立十日町病院に到着。作業する学生、スタッフを降ろし、私はすぐ近くの空き家「やさしい家」に向かう。というのも、空き家の家主である樋口さんとお会いして、展示内容とあわせて建物に手を入れる箇所を確認しながら了解をいただくためだ。樋口さんは様々なお手伝い、お仕事でお忙しいようで、会う時間までは決めていなかったので、直接樋口さんの携帯に電話をする。
17:00すぎ 樋口さんに花の配達のついでに空き家の方へ立ち寄っていただく。空き家「やさしい家」は荷物整理、徹底した掃除で見違えるように快適な空間に変わった。樋口さんは住んでいた当時を思い出したかのようにそのことをとても喜んでくれている。どのような展示空間になるかを説明し、釘一本でも建物に手を加えるところがあれば、それをひとつひとつ確認しながら了解をとって行く。現在は空き家であっても、人が一生を送った家である。床のシミ、柱の傷、それぞれのディティールは人が生活を営んできた証なのだ。わたしたちはそのひとつひとつに尊厳を与え、そしてそっと手を入れさせていただく身なのである。樋口さんに「はい、けっこうですよ。」「はい、わかりました。」と丁寧に対応いただいた。
17:30 日が落ちて行く。樋口さんとの打ち合わせを終えて、十日町病院に走って行く。メンバー浅野はデイルームでひたすらスケッチに没頭。浅野はやさしい家に滞在して、地域の人々、病院にいる人々とコミュニケーションをとりながら絵画を制作して行く、進行形そのままを見せて行くユニークなプランだ。今日はその第一歩というわけである。

本日の食卓。皆おいしかったけど、平松の卵スープは絶品

本日の食卓。皆おいしかったけど、平松の卵スープは絶品

18:00 ホテル滞在の泉と平松をホテルまで送り、チェックイン。高橋、赤塚、浅野、新潟現地参加の清水の4人は空き家に宿泊する。チェックイン後すぐに十日町駅前のスーパーへ食材を仕入れに行く。スタッフ平松がさっくりと仕切ってくれ、今日の夕食は餃子とサラダ、卵スープをつくることになった。夕食をつくってくれている間に私と赤塚は明日の作業打ち合わせ。餃子は皆で包む。中には芸術的な包み方の餃子もある。餃子を焼くのは私が担当。火力のコントロールの不慣れで少し焦げ付いてしまう、が誰も文句もいわない。そう、起きるハプニングはそれはそれ。過程をすっかり楽しんでいる。
食後は明日の作業の打ち合わせをした後に、お酒をいただく。今日、十日町病院に顔を出したら、塚田院長から「お水だよ。」と一升瓶をわたされ、覗き込んでラベルを見ると「越の寒梅」。知らない人はいない銘酒である。院長の言う通り水のような舌あたりで美味。ついつい飲み過ぎてしまい、気がついたら爆睡。
2:30 就寝。
<つづく>

足助病院 訪問見学会

2009年 5月 7日

毎年恒例で行なっている、病院訪問見学会を行なった。
例年は6月頭に行なっているが、学事日程等の調整で、振替休日となっている今日を開催日とした。
新年度に新しく参加する新メンバーの紹介と、1年のごあいさつをしてくるのが大きな目的だが、もっとも重要なのは各病棟の病室を訪問し、インタビューをしてくることだ。この体験を通して何かをつかんでくるメンバーがいることは確かだ。見知らぬ人と出会い、寝室でもある病室を訪れるということ。このこと自体が貴重な体験だ。病院の協力なくして絶対に実現不可能なことだ。
それに加え、今回ははじめて公共交通網を使って足助病院に集合するという態勢をとった。というのも、バスのチャーター、レンタカーの予約はこの時期は特に困難を極める。また、この緊張感のある会のためか、当日の欠席が多く、レンタカーやバスのコストが人数に対して適切ではない、との判断もある。
今日は昨日に引き続き雨が降りしきる。四郷駅と猿投駅に集合し、さなげ足助バスに乗り込む。この時点で18名参加のはずが12名に減っていた。私も昨年、風邪による高熱で訪問会を欠席した。例外なくこの時期に体調を崩す者も多い。
10:30 足助香嵐渓に到着。早速足助町の町中を散策する。
14:00 昼食後に足助病院へ。2〜3名のペアを組み、それぞれ病棟に向かう。
16:00 インタビュー終了。
16:45 足助病院前からバスに乗り、猿投駅、四郷駅へ。
<フィールドワーク、訪問会の様子は写真を参照ください。>

足助の町並みを歩く

足助の町並みを歩く

足助テイストのオブジェ 空き缶アートだ!

足助テイストのオブジェ 空き缶アートだ!

作品森ラックスのメンテナンスも行なう

作品森ラックスのメンテナンスも行なう

病室でインタビューするメンバー

病室でインタビューするメンバー

猿投駅からの帰りの車窓から

猿投駅からの帰りの車窓から

つながっちゃったpart2

2009年 5月 6日

15:00 自宅から30分ほど地下鉄にゆられ、本山に着く。小牧市民病院のモビールプランが進行中だが、今年度は技術もセンスも確かなアーティストやデザイナーにモビールの制作を依頼しようと八方つくして探してきた。新しくやさしい美術プロジェクトに入ってきてくれたスタッフ井口はやさしい美術のロゴを制作した。その井口が太鼓判を押す、デザイナー溝田さんを紹介してもらうため、本山のとあるカフェで会うことになった。本山駅でスタッフ泉と合流し、カフェに入って行くと芳醇なコーヒーの香りとともに井口、溝田さんの笑顔が飛んでくる。
やさしい美術プロジェクトがどのような活動か説明し、モビールプランの昨年までの流れを話す。病室のベッドの真上に設置するモビールは患者さんの最も近くにある造形作品となる、臨床のアート・デザイン。昨年は病院の医療業務に差し支えのないモビールを目指し、いくつかの試作品を制作してきたが、どうも焦点が定まらなかった。臨床のアート・デザインとして、そして見上げて鑑賞する天井の装飾として、再度捉え直すことになった。利便性や安全性ももちろん大切だが、ベッドから天井を毎日見続けている人々の心に作用するものを目指すべきだ。展示替えやメンテナンスはむしろ、病院内に一定時間臨機応変に対応できる人材を置くことで解決できるのではないか…。近い将来、病院のすべての病室にモビールを提供したいという希望を私は持っている、そのようなビジョンも話した。
溝田さんのポートフォリオを見せていただく。数学的な規則性にデザインを落とし込んで行くセンスは独特な美学を感じる。しかもどのデザインもやわらかさとしなやかさを持っている。文字の配置のバランスがすばらしい。これまでのデザインしたチラシやリーフレットを見せてもらい、さらにおどろく。私の知人のアーティストやクリエーターと接点があることが判明。昨日に続いてつながっちゃった、である。
新潟県立十日町病院での取組みの関連で、空き家活用プログラム「やさしい家」の構想を話す。企画展でモビールプランを展示して行くことに。
スタッフ井口もモビールデザインに参加することになった。きっと彼女の持ち味であるパターンや色彩が活かされたものになるのだろう、楽しみだ。

つながっちゃった

2009年 5月 5日

雨がしとしと。でも決心はかわらず、小原のスタジオへ草刈りに行く。名古屋市内から1時間程、小原のスタジオチキンハウスに到着…。小屋の周りが???まるでユンボが入ってきてそこら中の地面という地面を穿り返したような様相が。
いのししである。春の竹の根を食べにきたのだ。鶏小屋のほうは凄惨な光景。地面に爆薬を仕掛けてふっとばしたような状態だ。足場が悪いので注意しながらエンジン草払い機でかたっぱしから刈り込む。笹竹が鬱蒼としている中にぎゅいんぎゅいんと切り込む。蔦がからんでくるので、そう思ったように作業がはかどらない。防護眼鏡が汗で曇る。なかなか重労働だが、田舎の人は毎日やっている。
私が小原村に移り住んだ頃のこと。エンジン草払い機など持ち合わせておらず、お金もない。かといって下草を刈らねば、自分の住処はうもれてしまう。時間があることをいいことに、鎌一本、のこぎり一本で下草と竹に挑む。1日100本は竹を切ったと思う。下草は鎌で追いつかず素手でむしり取った。一月経ったある日。一月前に刈った場所を見るともうすでに草が生えて青々としている。なんたる生命力。己の力の至らなさを感じたが、同時に人間一人の力とはこのようなものだ、と妙に納得したのを憶えている。
さて、草刈りを終え、スタジオチキンハウスを出発。山を下った国道沿いの豆腐店に行く。有名店で、遠くから買い付けに来る人もあるときく。私が小原村に住んでいるころは毎日ここで豆腐を買い、自生している山椒の木から葉をちぎり、手のひらでぱちんっと張って豆腐にトッピングした。山の香りと清水でつくられた豆腐。最高かつ安上がりな贅沢だった。そんな想い出を胸に、実家と私の家族用に豆腐を買う。
豆腐を買った後はすぐとなりの郵便局へ。発達センターちよだで昨年度までスタッフをしていた井木が実は小原住民なのだ。私が草刈りで小原に出るということで、会期がせまっている「どんどんだんだん」展の打ち合わせを小原でやってしまおうということになった。小原では数少ない喫茶店でコーヒーを飲みながら打ち合わせ。展示の詳細を決めて行く。打ち合わせがひととおり終わった後、井木のほうから、彼女が参加している現在展示中のグループ展の案内状を渡される。見てびっくり!その会場となっているカフェは私の自宅に近いこともあるが、今日私の奥さんが友人に誘われてランチしに行った、その場所だったのだ。もちろん奥さんはそんなことは知らず、見に行っているはずだ。
世の中はとても狭いのである。

青いインク

2009年 5月 4日

最近はプランを構想したり、まとめたり、思いつくことを描きとめるのに、万年筆をよく使う。青いインクを愛用。青と言っても透明感のあるラピスのような色。使う紙によって染み込み方や発色が違い、適度の緊張感が心地よい。もっぱらプロジェクトの全体構想やスケジューリング、コンセプトのまとめ、作品プランのイメージを描いている。

プランドローイングの数々

プランドローイングの数々

入院

2009年 5月 3日

私は腰の傷がひどかったため、うつ伏せの状態。入院して4日間ほど、腸の精密検査の結果が出るまでは食事はなし。看護師さんがやってきてふと目をやろうと思ったら気を失った。気がつくと看護師さんが私の手を握ってくれていた。その掌のあたたかかったこと。眼差しのやさしかったこと。この時から私にとって掌は特別の意味を持つようになった。
入院して5日目ぐらいだったろうか、付き添いのおばちゃんがつくことになった。その頃はまだ付添婦制度の廃止前で、私の場合、事故を起こした運送会社の計らいでついてもらうことになった。というのも、私はしばらくうつ伏せのまま動けないので下の世話は自分で済ますことが全くできなかった。私は赤子同然だった。
全身打撲で激痛が走る中、いきむ。おばちゃんはいつも「もうすこしだよ。」とやさしく声をかけてくれた。ドレーン(傷口が大きく深いため血腫がたまらないように外部までパイプを通すこと)が肛門近くなのでばい菌が入りやすい。少しでも汚れると私の替わりに看護師さんを呼んでくれた。一人にしてほしいときはそっと席をはずしてくれた。ストレスで当たり散らしたこともある。そんなときはやさしく嗜められ、落ち着いて話が聞けるようになると、びしっと叱られた。3週間ほど寝食を共にするのだ、打ち解けてきておばちゃんの身の上話を聞いた。
おばちゃんは10代で家出。クラブで働くようになり、いつしか高級クラブのママになった。やくざにビール瓶で殴られたこともあるそうだ。血だらけのまま一歩も引かず、店の外に出したのだそうだ。それ以来街では一目置かれるようになった。ママになった頃、家出した実家に帰り、お父さんと飲んだそうだ。お父さんは涙を流して喜んだという。それからほどなくしてお父さんは亡くなった。最後の親孝行だったのだろう。ある日のこと、おばちゃんは車を運転中にハンドルを誤って電信柱に激突してしまう。一週間意識不明の重体だったそうだが、なんとか命をとりとめた。入院中の生活がその後のおばちゃんの人生を大きく変えることになる。入院中に病院で付添婦が入院中の人々のお世話をしていることを初めて知った。退院してから付添婦になることを決心する。クラブのママからの転身である。
私の甘えた根性をおばちゃんにたたき直されたといっていい。私から出てきたうんこを受け取って「よかったね。」と言ってくれる人を私は忘れることができない。
それだけではない。私の並外れた回復力とおばちゃんの介護のおかげで、ドレーンが差しっぱなしになっている腰の部分は再度手術する予定だったが、その必要がなくなった。3ヶ月ほどの入院になる予定が、1〜2ヶ月に短縮された。
入院中にいろいろな人にあった。土建屋のお兄さんは現場で足を骨折。暇なのでよく私の病室に遊びにきた。交通事故でむち打ちのお兄さんは保険を解約したその日に事故。自分のついてなさを毎日愚痴って行く。マンガ「寄生獣」を貸してくれたおじさんなどなど…。そこにはやんわりとしたコミュニティーがあったように思う。
自分で這いずって病室トイレまで行き用が足せたときは本当にうれしかった。すべてに感謝だった。おばちゃんも自分のことのように喜んでくれた。がちがちに固まってしまった身体をほぐし、まずは歩行器を使って病院内廊下をゆっくりと歩く。生きてて良かったと思った。そして私よりももっと大変な状況におかれている人々がたくさんいることを知った。
看護師さんとも随分仲良くなった。打ち解けてから聞いた話だが、私はスキンヘッドで体格も良かったので、「怖い人」と思われ、ひそかにジャンケンをして私の病室に行く係を決めていたらしい…。「人の身体をなんだと思ってるんだ!」という扱いの看護師さんがいたことも事実だが、とってもやさしい笑顔の看護師さんに会えるのは、さりげなく私の支えになっていた。
事故のことは時折人に話すことがあったが、こうして文章に書きおこすことは初めてだ。起きたことは良くないことだが、今の私を構成する大切な体験の一つであることは間違いない。